薄荷煙草
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遮断機 16 の9

ジージージージージージージージー。
耳の中に蝉でも棲みついたみたいだ。
一度も曲がり角などなかった筈なのに、曲がりくねった道を来たような妙な錯覚。
ようやく、前方に階段が見えて、ホッとした時、急にシャーッと滑るような音が、後方から聞こえてきた。
ものすごいスピードで。
振り返る間もなく、あたしは咄嗟に壁際によけた。
間一髪、何かが走り抜け、波のような風圧を感じた。
アキラさん!
あたしが叫んだのと、アキラさんの姿が見えなくなったのは、ほぼ同時だった。
アキラさん?
あたしは、震えながら、竦みそうな足を、必死に動かした。

遮断機 16 の8

「ここが蛸壷なんですか?」
あたしは悪寒の走る背中を、後ろ手で庇いながら冗談を言おうとしたが、どうもうまくいかなかった。皮肉に聞こえたのかもしれない。アキラさんは、何も言わず、ただ足早に歩いていく。薄手のストールが、飛び立とうとうごめく羽のようだ。おいてきぼりにされそうで、あたしは必死になって歩いた。でも、疲れきった足では、これ以上のスピードは望めそうにない。
自分の身体なのに、うまくバランスが取れない。いきなり着衣のまま水中に放りこまれでもしたかのように、あたしはもがいた。
目の前のアキラさんは優雅に進む。

遮断機 16 の7

「この道、昔、事件があったらしくて。使うひと減ったんだって」
アキラさんは声をひそめた。
急激な温度差で寒気がしてきたところにこんな話をされ、思わず鳥肌が立った。
「事件て、やっぱり?」
あたしが言うと、アキラさんは頷き、
「ここ、心霊スポットらしいのね。昼間しか通らないし、あたしは何も感じないんだけど」
と、さも申し訳なさそうに肩をすくめた。
アキラさんらしい仕草に、少し体温を取り戻せたと思ったら、
「ビワコちゃん、すごい鳥肌。大丈夫?」
と言われた。
ただそうなりたい一心で、
「大丈夫」
あたしは応えた。

遮断機 16 の6

アキラさんは、ラフだけれども、きちんとしていた。日焼け対策は万全なのに、決して暑苦しく見えない。いつどこであっても、このひとは乱れたりしないような気がする。もちろん、アキラさんは、そんな訳ないでしょ、と笑って否定するんだろうけれど。
「こっちこっち」
アキラさんが手招きをする。階段があった。地下へと延びている。降りていくにつれ、ひんやり、しんとしていき、耳の奥がジージーと、聞こえていなかった音をたてはじめた。
「こんなところに地下道があるなんて知らなかった」
と言うと、そう、とアキラさんはサングラスを外して笑った。

遮断機 16 の5

結局、スーパーマーケットには入らず、アキラさんいわく『最近見つけて入り浸ってる蛸壷みたいなとこ』に連れていってもらうことにした。
昼間の蛸壷。真夏の蛸壷。
意味なんてない。
あたしははしゃぎすぎないよう注意しながら、目一杯はしゃいだ。
歩き始めると、アキラさんは、さっとサングラスをかけた。
「陽射しが強すぎて目がやられちゃう」そうだ。
「ビワコちゃん、斑になってる」
言われて初めて、帽子もかぶらず、日焼け止めもしていなかったことに気がついた。そういえば、頭のてっぺんだけでなく、二の腕だとか、鼻の辺りがぴりぴり熱い。

遮断機 16 の4

「やっぱり。久しぶりね」
人懐っこい笑顔だった。本当は、凄みがあるくらいの美人なのに、アキラさんは、惜し気もなく目尻に皺を作り、豪快に相好を崩して笑う。
「どうしたの、こんなとこまで。ソウ君と買い物?」
一瞬、チクンと針でも刺さったみたいな気がしたが、目の前のとびきりの笑顔につられた。
「まさかー。ソウがそういうタイプに見えます?」
「ううん、全然」
あっけらかんと言うアキラさんと二人、顔を見合わせて大笑いした。ひとしきり笑った後、
「せっかくだから、お茶でも飲もうか。時間あるんでしょ?」
アキラさんが言った。

遮断機 16 の2

ソウは、あたしが赤を着るのを殊の外嫌っているのに、自分がたまに気まぐれを起こした時には、決まって赤いものを買って来る癖がある。口紅、バッグ、靴、インナー、アウター、アクセサリーの類い、花束など。赤と一言でいっても様々で、いいと思うものもあれば、正直、そうでもないものも含まれ、仕舞いっぱなしのものも多い。
ケイは、赤が好きで、実際よく似合う。
キッチンのタイルも、キリッとした赤を効かせた、ケイにふさわしい色あいに変化を遂げていた。
タイルはケイの好みで揃えたのかもしれないが、真っ赤なケトルはソウの気まぐれだ。うちにも同じものがあるもの。

遮断機 16 の1

お前、本当に歩くの好きな。
ソウの呆れ声が聞こえた気がする程、歩いた。
ここはどこだろう。なんとなくあの辺かな、とは思うものの、最近、急激に辺りは変わりつつあるから、定かではない。
ソウの声を思い出しても、もう涙は流れなかった。いつまでも同じではないのだ、建物も、気持ちも。
あの部屋も、外壁はくすみ、壁紙は黄ばんでいたが、よく見れば、キッチンはフローリングクッションが張り替えてあり、流しの側の壁は、キレイなタイルが品のよい間隔で並んでいた。
ケイだって、変わったんだろう。ソウと交わってより赤く咲き誇っているかもしれない。

遮断機 16 の3

もっとも、あたしは使わず仕舞いこんである。キッチンにある赤いものといえば、マグネットとか、箸置きとか、よそからの頂き物(景品というべきかしら)しか思い浮かばない。
ソウが買って来た、不思議なプラスチック製の物入れも、同じ物があった。そういえば、あれもうちでは使っていない……。
まさかと、首を振る。
だから何だというのだろう。
ソウが買って来たものを、ソウがどうしようが構わないじゃない--
顔を上げると、初めて見るスーパーマーケットがあり、花輪が飾られていた。入ろうとしたところ、
「ビワコちゃん?」
振り向くと、アキラさんだった。

遮断機 15 の5

切っても尚、カタカタ音がする。
何だって、今更、ビワコの顔なんか。
ソウはハンドルを叩いた。
あのタイミングじゃ、どっちみち間に合わなかった。轢いたか、跳ね飛ばしたか、それとも、巻き込んだか。
いずれにせよ、間に合わなかった。
てのひらが、まだ汗ばんだままだ。
これが、俺の本心なのだろうか。
もしかして俺は、ジンの奴より、ビワコを憎んでるのか?
まさか。
ビワコを殺したいなんて、一度も考えたことはない。
アイツを殺すとしたら、俺じゃない。
母さんか、サエコだ。
ソウはキーを抜き取り、表に出た。
冷たい汗をかき、体が重かった。
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