J・K・ローリングが「ハリー・ポッター」シリーズを書き始めた1997年から「魔法使い」がより身近な存在となった。フクロウがいつか自分にも魔法学校の入学許可証を届けにくるのではないか、そんな空想を広げる全世界の少年少女は少なくなかったことだろう。2009年から連載が開始された「乱と灰色の世界」は「ハリー・ポッター」の後に出てきた「魔法」もののマンガだ。主人公は少女、「魔法の靴」、「偉大な魔女」――まるで「オズの魔法使い」のような西洋的「魔法使い」の要素が一見目立つこの物語の中には、驚くことに日本的要素が至るところに散りばめられていることに気づく。「魔法」と言っても、魔女を守り敵と戦うのは任侠を模したかのよいな黒羽衆(彼らの正装は紋付き袴、戦闘服は脚半に手甲をつけた旅装束のようだ)、その世界の住人は畳と障子に囲まれた和室で日常生活を過ごし、主人公は土間まである家に住んでいるのだから、「古き良き日本」が存在していると言ってもいいだろう。

描かれた2つの相反する世界はそれだけではない。帯にある「4人の魔法使い」とは、主人公の少女の家族を示す言葉である。しがないサラリーマンかと思いきや蝙蝠傘を使いカラスに変身する能力を持つ父、見た目不良だが母不在の一家を切り盛りする役割を果たし毛皮を纏うと狼の姿に変身出来る兄。絶世の美しさと奔放な性格の世界を鎮め守る為に長期単身赴任中の最強の魔女の母。そして、まだまだ未知数の能力を秘めたシューズの力で美女に変身する少女。同級生の男の子からのイジメ(小学生特有の好きな子と関わるためについイジメてしまう行動)や女グセの悪いお金持ちのイケメン相手の甘い初恋(男もスレていない「美女」に強い関心を持つ)など、第一次成長期を迎えようとしている少女の成長モノという主題と、少女を軸に兄と妹、父と娘、母と娘、父と兄、母と兄、父と母のそれぞれの絆を丁寧に描いているのは、「魔法」という空想の産物が行き交う物語を「家族の物語」という少女マンガ的側面を継承している表れだ。同時に、男が家を守り女が世界を動かすという構図はジェンダー観が逆転した少年マンガ的世界のようだ。

2巻をかけて丁寧に表された世界観。次巻からいよいよ物語が動き出すのだが、残念ながら続きはまだ刊行されていないため読めない。ふと、新刊への期待からか、耳に聞こえてきたのはベベンベン、という三味線の音。講談師の粋のよい声とともに「待てッ、次巻!」


70年代初頭、日本の少年マンガは、『あしたのジョー』によって「青年化」という課題をくぐり抜けたという(夏目房之介)。「真っ白に燃えつきる」ことを渇望した主人公、矢吹丈は、暗く研ぎ澄まされてゆく青年期的な内面を与えられて生きた。それから二十年を経た90年代の半ば、同作へのオマージュとして『週刊少年ジャンプ』誌上に生み出されたのが『みどりのマキバオー』であった。人と言葉を交わし、自身の意志でレースを戦う競走馬たちの活躍を描いたこの作品は、『あしたのジョー』の物語を下敷きとしつつ、「燃えつきる」のではなく、いつまでも「挑戦」し続けるべきことを高らかに謳って、「青年」ジョーに対比しうる「少年」のあり方を描いてみせた。―――ここまでが欠くべからざる前史である。

2007年、つの丸は『週刊プレイボーイ』誌において、続編となる本作を開始する(現在はWEB連載中)。主人公のヒノデマキバオーは、前作の主人公であったミドリマキバオーの甥にあたり、伯父と同様、珍奇で愛らしい外見の――馬というよりも白い子牛のような――競走馬である。しかし、伯父が中央競馬や世界戦を舞台に華々しい活躍を繰り広げたのに対し、彼が所属するのは高知県の地方競馬である。厳しい財政状況のもとで運営される地方競馬の世界にあって、愛くるしい容姿で人気を博すマキバオーは、客寄せのために(疲労の回復も待たず)連日の出走を余儀なくされる。彼に求められているのは勝利を目指すことではなく、競馬場にファンを集めることである。ヒノデマキバオーには、「青年」のように燃えつきることも「少年」のように挑戦し続けることも許されない。彼は、興行としてスポーツを成立させなくてはならないという「大人」の事情に取り囲まれて生きているのである。この設定が特に強調されるのは物語の序盤までのことだが、しかし出発点において彼がそのような拘束の中にあったことは作品全体を規定し、物語を駆動させてゆく。

かつて『少年ジャンプ』で『みどりのマキバオー』に熱中した少年たちは、今や二十代の大人になっている。同じ集英社の『プレイボーイ』に移行した本作において、つの丸は単に懐かしい物語を再現することでよしとはせず、メディアの移行とともに全く新たな物語を紡いでゆくことを選んだ。「白い珍獣」マキバオーの走りは、かつて少年であり青年であった全ての大人読者の心を、今なお揺さぶり続けている。


 第一巻冒頭、ベッドで眠りについている少女の体が宙に浮き上がる。周囲にあるもの――目覚まし時計や本や靴下や枕――と共に、彼女の体は重力に逆らって漂う。しかしその夢幻的な情景は、彼女が目覚めることで終わりを迎える。まどろみから覚めた少女は床に落下し、ベッドから落ちてしまったことに泣きべそをかく。そして我々はニモ少年を思い出す。

かつてウィンザー・マッケイが描いた『夢の国のリトル・ニモ』――アメリカの初期新聞マンガ史に眩い輝きを放つマスターピース――では、主人公のニモ少年は毎夜夢の世界で冒険を繰り広げ、しかしベッドから落ちて目を覚ますことで現実に戻ってきてしまうのだった。マッケイが圧倒的な表現技術で描き出す超現実的な世界は、最後の一コマの「お約束」で現実へと回収される。それは毎週日曜日に掲載された新聞マンガとして実に的確な格好を備えたものだった。すなわち、人々をしばし空想の世界に遊ばせ、しかし翌日からのウィークデーに備えるべく、最後には日常へと帰還させるのだ。

 だが、本作の主人公である「乱」が生きているのは、そのような二元論的な世界ではない。タイトルに謳われているように、それは「灰色の世界」である。乱が暮らしているのはごく普通の人間たちが住まう現実世界だが、しかし彼女が宙に浮いて漂うのは、それが夢の世界の出来事だからではなく、彼女が魔法使いだからである。彼女は大きな靴を履くことで成長した美女へと変身し、彼女の兄は毛皮を着ることで狼へと変身し、彼女の父は蝙蝠傘でカラスに変身する―――そう、これは普通の人間たちと共に日常生活を営んでいる魔法使いの一家を描いたファンタジーである。もちろん、「日常を暮らす魔法使い」という設定そのものは使い古された一つの定型的な説話構造でしかないが、入江亜季はこの設定を極めて戦略的に用いることで、日常=現実と魔法=超現実とを常にシームレスなものとして共存させ、黒白の分かれた二元論的世界ではなく、どこまでも灰色の世界を現出させる。

 2008年に連載を開始した本作は『Fellows!』誌の看板作品の一つとなっているが、同誌は隔月刊であり、作品の進展は実にゆったりとしている。それは、毎週日曜日といったリズムで人々に作品を送り届けるのではなく、一つの作品世界をじっくりと構築していくためのメディアである。現実へと回収されることのない灰色の世界、その生成されゆく様を見守っていきたい。