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子供の頃、祖父や父から「昔、天誅組の志士達が、うち(実家=奈良県川上村)に来られたことがある」という話をよく聞いたことがありました。「実記 天誅組始末」によると、私の高祖父(林作)は伴林光平先生に、高祖母(ふさ)は那須信吾先生らにそれぞれ会っているというのです。

前作記事では、高祖母(ふさ)が、那須信吾先生らに食事を持っていき、うっかりして彼らの刀をまたいでしまい・・・という記事を紹介させて頂きました。 

詳細は → 「天誅組のこと(那須信吾異聞)」http://blogs.yahoo.co.jp/sumiyan2001/44098694.html をご覧下さい。

高祖父(林作)は、文久3年(1863)9月21日に、偵察隊として本隊とは別に来られた、天誅組の記録方であった伴林光平先生と、奈良県川上村に伝わる後南朝由緒についての話しをしたそうです。この記事に興味を持った私は、早速調査を開始しました。奇しくも光平先生は、私が住む大阪府八尾市に居られたことがあり、旧跡もありました。

実地(旧跡)調査によると・・・

伴林光平記念碑・贈従四位伴林君光平碑 (八尾市南本町)

玉祖神社 伴林光平の墓・贈従四位伴林光平之墓 (八尾市神立)     

                                     ・・・などがあり

文献調査によると・・・

『二十一日(=文久3年〔1863〕9月21日)、斯くて同(=川上)郷の○村にて、午飯(=昼食)す。やどの翁に、往事を問へば、翁霜のやうなる眉かき垂り、海松なす布肩衣の袖かきあわせて、具に古の事どもを語る。かの大河内の御所に在かりし忠義王の御具足を、神崩(=崩御)の後、二十四ヶ村に持分て、社頭に祭て、年々(=毎年)二月五日、朝拝と云こと仕へ奉る。此○村は、御鎧の大袖を齋きまつるといへり。朝拝の時、二十四ヶ村、御具足を持集めて、如形粧立て(=ありし日のお姿になぞらえる)、村民涙ながら此を拝み、且山会を喚び迎へて、読経せしむと 云々。』  ※ 漢字はすべて当用漢字に直しています
・・・「南山踏雲録/保田與重郎著/新学社 より  (光平先生、すみやん宅にて高祖父の話を聞く)」

『○○村で昼食。○屋という家で休んだ。白髪の爺がいる。胴長のじんべいを着て仙人のような姿だ。後南朝の話になった。長禄元年(1457)後亀山天皇の曾孫、自天親王と忠義親王の御兄弟の宮が、赤松一党のためこのあたりで殺され給うた。南朝を欽慕する川上郷二十三ヵ村では、宮の御鎧を分けて保管し、毎年二月五日、それぞれ持ち寄って組立て、礼拝、読経をあげる。これを朝拝の儀という。○○村では、御鎧の大袖を奉祀している。川上郷は、いまだに北朝方に背をむけて、南朝の法燈を守りつづけているという。白髪翁の話に光平、心を動かされた。例によって一首。 御垣守(みかきも)る巨勢(こせ)山中の玉椿 千代の操は知る人もなし 巨勢は小瀬村(奈良県御所市)のことである。』
・・・「実記 天誅組始末/樋口三郎著/新人物往来社 より   (光平先生、すみやん宅にて高祖父の話を聞く)」

『二十一日、河流に従って川上郷を出て和田村を過ぎ、○村で昼やしないをした。和田のあたりは牡丹の窟、水晶の窟、何の窟、呉の窟と奇岩洞穴が多いが、足まで痛いから見物しなかったという。宿屋の老爺に昔の事を聞いた物語によれば、「かの大河内の御所に在かりし忠義王の御具足を神崩の後、二十四ヶ村に持分れて、社頭に祭りて、年々二月五日朝拝ということを仕へ奉る。この○村は、御鎧の大袖を斎きまつるといへり。朝拝の時、二十四ヶ村、御具足を持集りて、形の如く粧ひ立てて村民涙ながら此を拝み且つ山僧を喚迎えて読経せしむと云々」とある。光平にこの話を聞かせてくれた老爺は、霜のような眉毛を垂れ、海松(みる)のような肩衣の袖をかき合わせて語っていたとあるが、聞く方も尊皇で真剣であっただろう。そんな話を耳に残しながら昼夜兼行で進み鷲家口(東吉野村)に出た。』
・・・「伴林光平の研究/鈴木純孝著/講談社出版サービスセンター より   (光平先生、すみやん宅にて高祖父の話を聞く)」

『文久3年(1863)9月21日に、伴林光平が昼食したうちはわたくしとこです。当時、うちの屋号は「○屋」といいました。○○郷の「筋目」にあたる家は、わたくしの家と本家の○○です。「筋目」の家では、毎年、「自天王」のお祭りと「朝拝式」をおこなっています。「南山踏雲録」に出てくる「霜のやうなる眉かき垂る翁」とは、わたくしの玄祖父(林作=祖父の祖父)のことです。○○郷は「○き○」といいますので、光平は「○村」と書いていますね。三日おくれて○○郷へ着いた天誅組本隊は、うちへ来ておりません。それは、うちが本道からちょっと横へそれていたからでしょう。』 
・・・「実記 天誅組始末/樋口三郎著/新人物往来社 より (すみやん祖父、樋口先生より取材を受ける)」

『文久元年・自画像・松岸寺・伴林家蔵 (添付写真)』
・・・「伴林光平の研究/鈴木純孝著/講談社出版サービスセンター より」

                                    ・・・などがありました


林作が、約400年前の後南朝の由緒を語り、その後粛々と村人達(筋目と呼ばれる)が王の追慕の供養(ご朝拝式)を行っているという話を、光平先生はとても感慨深げに聞いていたといいます。「尊皇の志(忠節)」を自分たちにだぶらせて、粋に感じてくれたのでしょうか。処刑の寸前まで、光平先生が天誅組の義挙を書いた「南山踏雲録」は後世に伝えられています。彼らのことを思うと、とても胸が熱くなるのです。また、光平先生は他の天誅組志士達とともに靖国神社に祀られ、国の鎮護となっています。


 辞世の句・・・君が代は巌とともに動かねば砕けてかえれ沖つ白波 (伴林光平)
 



 ≪ 用語解説 ≫

■天誅組(てんちゅうぐみ)・・・幕末の動乱期、文久3年(1863)8月13日、尊王攘夷の断行を祈願するための孝明天皇の大和行幸が朝儀により決定された。17日、主将中山忠光卿、総裁吉村虎太郎はじめ天誅組志士30人は、五條代官所を襲い五條新政府を号し、倒幕の旗を揚げた。しかし、翌18日、朝儀は一変して攘夷派が敗れ、大和行幸は中止。ここで、天誅組の義挙はその大義名分を失い、彼らに幕府から全国に追討令が出た。十津川郷士の助けを得て高取城へ進攻するが、撃退され戦局も不利となる。その後、十津川郷士の離反などを経て9月24日、奈良県東吉野村で事実上壊滅した。

■伴林光平(ともばやしみつひら、1813~1864)・・・国学者、歌人でもある伴林光平は、河内国成法寺村(大阪府八尾市南本町)の教恩寺の住職であった。光平は、文化9年(1813)志紀郡林村(大阪府藤井寺市)の真宗尊光寺に生まれ、長じて京都、大和で仏教の修行に励む。さらにその後、朱子学・国学・和歌を学ぶために和歌山や江戸など日本各地を転々とする生活がつづいた。弘化2年(1845)教恩寺の住職として八尾に落ち着いた時には、光平は33歳になっていた。僧侶としての仕事より和歌や国学の研究、講義に熱心であったようで、歌会を催しては地元の人々に和歌を教えるほか、顕証寺や大信寺などで歌道指南役をつとめた。国学の分野においては、とりわけ大和・河内の山稜調査に心血を注ぎ『大和國陵墓検考』など数多くの著書を執筆した。一方、尊皇攘夷運動の盛り上がりの中で、光平も国学者としての立場から、志士たちに同調し行動をともにしていた。そしてついに文久元年(1861)尊皇思想にその身をささげるべく還俗する意思を固め、寺の壁に決意をこめた七言絶句を残し、16年間を過ごした八尾を去る。大和に移り住んだ光平は、過激派志士とともに討幕をめざして奔走した。文久3年(1863)公家の中山忠光卿を盟主とした一団が挙兵すると、光平も天誅組記録方として参加するが、彼らの義挙は失敗に終わった。捕らえられた光平は翌年処刑され、獄中で挙兵の経緯を追想した『南山踏雲録』が最後の著書となった。明治24年(1891)9月 靖国神社に合祀され、12月 特旨を以て従四位を追贈される。

■南山踏雲録(なんざんしゅううんろく)・・・文久3年(1863)8月、尊攘派の草奔たちによる天誅組が大和に挙兵する。だが、間もなく京都の政変によって追われる身となり、十津川、吉野の山中を一ヶ月余敗走の末、主だった者らは討死、刑死という悲劇的な結末を迎えることになった。これに加った中の指導的立場にあった一人で、国学者・歌人の伴林光平が刑死を待つ京都の獄にあって、戦況戦跡を静かに振り返りながら遺した記録が『南山踏雲録』である。 早くから光平に対する讃仰の念ひとかたならぬものがあった保田與重郎は、戦時下に同書の詳細な註釈に取り組んだ。本書はその評註を巻頭に、光平の師伴信友の一書に従いつつ南朝の伝統を回想した「花のなごり」、さらに光平歌集の註解、光平伝、十津川郷士伝を併録して、天誅組義挙の精神史的意義を明らめようとしたものである。

■後南朝由緒・・・室町時代、かつて南朝と北朝に分かれていた天皇家が将軍足利義満によって50年ぶりに統一された。三種の神器は、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に送られた。条件は、南朝、北朝の交互から天皇を即位させるものとしたが、後小松帝の子、称光天皇、さらに伏見宮から後花園天皇(いわゆる北朝系)が即位したことに、南朝の後亀山上皇らは激怒し、また吉野に戻った。いわゆる後南朝である。嘉吉3年(1443)京都御所から神璽を奪い返した(禁闕の変)後南朝の皇子達は、代々抵抗を続けていた。その頃、摂津国などの守護職だった赤松氏は、将軍足利義教謀殺の首謀者としてお家断絶の憂き目に遭っており、お家再興のための手柄が急務だった。そこで彼らは、後南朝の神璽に目をつけることになる。将軍家を討った赤松氏の遺臣らの帰順を後南朝方は快く迎え入れたが、長禄元年(1457)12月2日の夜、突如自天王(後亀山上皇の曾孫)を襲撃し、当時16歳の自天王の御首は取られ、神璽も強奪される(長禄の変)。赤松氏遺臣らのこの功により、赤松政則のときに赤松氏は再興を果たした。また、自天王の死をもって後南朝の歴史も終焉し、(後)南朝方遺臣・郷士達(筋目と呼ばれる)は帰農し、その後現在に至るまで、王の追慕の供養(ご朝拝式)を行っている。

 (後)南朝皇統
 後醍醐天皇-後村上天皇-長慶天皇-後亀山天皇-小倉宮-尊義王-自天王(兄)・忠義王(弟)

■参考文献
「南山踏雲録/保田與重郎著/新学社」
「実記 天誅組始末/樋口三郎著/新人物往来社」
「伴林光平の研究/鈴木純孝著/講談社出版サービスセンター」 → ※ 筆者は、伴林光平の兄 鳳岳の末裔の方
「天皇の本(日本秘史紀行・南朝の幻影)/本田不二雄著/学研」
    
 
■参考HP
http://web-lib.city.yao.osaka.jp/yao/yao_01.html
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/yao.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E6%9E%97%E5%85%89%E5%B9%B3


■すみやん家関係図
 高祖父(林作)高祖母(ふさ)― 曾祖父母 ― 祖父母 ― 父母 ― 私(すみやん)