大奥

 

大奥の実像と虚像

●奥女中 儀式などのハレの場では、打掛などの華やかな衣装だが、公務や日常は、奥女中は黒地で風景などの裾模様がある単衣がスタンダード。

性が抜け落ちた歴史教科書

この連載の近世XVIの回でも書いたが、

 

高校の日本史の歴史教科書に出てくる女性は、江戸時代は出雲の阿国と和宮だけ。偉人だけではない。関連歴史用語も女性に関するものは、ほとんど無視。離縁状(三下り半)、女大学、駆け込み寺は、簡単な紹介だけ。吉原と大奥はまったく本質が書かれていない。吉原は「江戸町人文化が展開した華麗な空間」、大奥は「寛政、天保の改革で出された倹約令の対象」というもの。この国では性に関することは教育から排除する。性教育なし、性を保健体育、歴史や道徳でも教えない。その結果、ジェンダー差別、性被害野放しの国。

 

Koki的には、吉原は買売春と人身売買、性の搾取の場であったことが一番重要だ。大奥は後宮のゴタゴタが教科書向きではないとしても、一人の男のために女人禁制の巨大な空間を設けた理由を知ることが大事。大奥が政治に果たした役割と「女性の地位が低かった」ということの理解ぬきで、倹約令だけ書かれてもなぁ?

教科書で女性をスルーするなら、このブログで取り上げよう。

 

今回は「大奥」です。

 

教科書の「大奥」の記述は、将軍は同じ城内に「妻以外の女性の存在」があることは書かれているが、それは「跡継ぎをえるため」とあるが、「妾」とか「側室」という言葉は記さないし、将軍が家督を譲った後も、「大御所」として何人も側室をかこっているのは、「跡継ぎ」のためではない。

「大奥」は、よく歴史ドラマになるが、1人の将軍をめぐって、男子禁制の大奥で、寵愛を得ようとライバルたちがしのぎを削る「女たちの戦い」が主なテーマである。しかし、どうして将軍の私生活に関与するために何千人もの女たちが集まって住んだのか? 大人たちも詳しくは知らない。

 

政治より大事なハーレム?

大奥は、後宮。まぁ、ハーレム? 私邸にハーレムをつくった? そこには妻もいた? キリスト教は基本、一夫一婦制(愛人の子どもには王位継承権がない)なので、後宮はなかった。キリスト教以外の王制の国はほぼ、後宮がある。インド、ペルシャ、オスマン、中国、ベトナム、朝鮮、タイ…。父親が王(皇帝)であれば、母親はだれでもいい。

エジプト考古学博物館 ラムセス2世のミイラ エジプトのラムセス2世(BC1303?~BC1203?)は90年も生き、66年在位にあったが、100人以上(一説には111人の息子と69人の娘。)の子どもがいた。(血のつながらない養子を含む)

徳川は、せいぜい最大53人の11代家斉が子だくさんトップ、8代吉宗と10代家治が大奥予算を縮小したのに、再び予算を増やし、財政圧迫。寛政の改革を行った松平定信は罷免。「子だくさんは将軍家の繁栄の象徴」の反面、天保の大飢饉、百姓一揆、大塩平八郎の乱などにも無関心であったという。

 

天保の大飢饉 

頼山陽は「武門天下を平治する。ここに至って、その盛りを好む」(「日本外史」)と批判した。政治より性生活重視?の家斉の死去と同時に徳川幕府は傾き始め、次の将軍の家慶の晩年にペリー来航。これで一気に幕府は坂を転がり落ち、瓦解してしまう(岡崎忠恭「遊王」)。

 

徳川家斉(1773~1841)とオットセイ、「オットセイ」の正室近衛寔子(ただこ・側室が生んだ数多い子はすべて、正室の子とされて権勢を奮った)

 

 家斉は17歳から55歳まで子づくりした。精力アップのために「オットセイの陰茎の粉末」を毎日飲んだので、「オットセイ将軍」と呼ばれた。オットセイは1頭のオスが20~100匹のメスを従えたハーレムをつくり、繁殖期の1か月には飲まず食わずで子づくりに励む。身分の低い女性が懐妊すると堕胎させたという記録も残っている。

 

アブ・シンベル神殿 世界遺産第1号 4体の像は青年期~壮年期のラムセス2世

ラムセス2世は、子どもも作ったが、優れた戦士でヒッタイト(新王国)と30年も戦い、ヒッタイト王女を王妃に迎え、世界初の「平和条約」を結び、自身を太陽神とする巨大建築物もいくつも造った。予算を女性だけに使わず、建築物もラムセス2世本人のミイラも残っているのがエジプトのすごいところ。

 

●江戸城復元計画(CG) NPOが計画し署名や寄付を募っているが、財源(10年前試算350億)や土地(皇室財産)がネックになり、具体化はない。昨年11月に菅前首相が「江戸城再建に大きな方向性と世論を」と発言し政治利用を図ったが、盛り上がらなかった。

 

今の江戸城空中写真(1989)と江戸城の天守台(東御苑)

大奥は、江戸城にあるただのハーレムだと思っていたが、法制度も整備されて、ガバナンス(組織としての統治)とコンプライアンス(法的順守)は徹底されていた。女性のほうが規律を守り統治することにかけては優れているのかも知れないね。現在のグタグタ、ズブズブの自民党政治は(すぐに自民党政治や天皇家と結びつけてしまうのがkokiの悪い癖)、女性議員が10~20%。政治に長けた女性議員を発掘することも育成することもできないので、少ない上にグタズブに意見をいう女性人材もいない。

 

大奥の成立

大奥は、1606年に江戸城大改築(徳川以前の江戸館を改築)したときに本丸御殿に造られた。家康は駿府に隠退しており、2代将軍家忠に始まる。家忠の正室(御台所)のお江与(おごう、おえよ、おえど)は悋気(やきもち)が強く、側室を城内に置けなかったので、嫡男竹千代(3代将軍家光)の乳母のお福(春日局)が大奥の支配者としてさまざまな掟をつくった。

 

春日局(1579~1643)

大奥は、家光のために造られたという説もある。家光は男色家で、部屋でこっそり女装しているのを目撃されている。公家出身の鷹司孝子を正室に迎えたが、全く興味を示さず、孝子は家光から追放され、軟禁生活を送った。危機を感じた乳母の春日局は、市井にでて、身分や職業を問わず、美目麗しい女性を見つけては大奥に送り込み、「数撃ちゃ当る」で、8人がお手付きとなり、5人の男子を生んだ。古着屋の娘が生んだのが4代将軍家綱。八百屋の娘が5代将軍綱吉。

大奥は巨大ハーレム化して、代々受け継がれていく。春日局が巨大な権力を振るった反動は大きく、幕閣は乳母と将軍の関係が深くなり政治介入が起きないように苦慮したという。

 

徳川幕府は、いわば政治ほったらかしで、「大奥」制度に莫大なエネルギーを費やしたとしか思えない。将軍以外の男子禁制だけでもお触れだけではだめで、男子は役人、出入り業者、インフラのメンテナンス、警備…などに男子は必要で、出入り時間やルート、門などの鍵など、ルールを決めれば破られる。また法を厳密にするで、秀忠時代1618年の最初の「大奥法度」(壁書)は、不審者の出入り禁止のための男子禁制に主眼が置かれていたが、1623、1650年にも改訂版がだされ、内部事情の漏洩禁止、賄賂の禁止が加味された。明暦の大火後、本丸御殿が1659年に造営された後も、大奥の風紀が乱れ、1671年には新たな「大奥法度」が発布される。側室の数制限はないから、側室が増えれば子どもが増える。世話する女中も膨れ上がるで、大奥は自己増殖。倹約令を出しても競争関係の女性たちが言うこときくわけないじゃん。

ついに、1721年に吉宗が「女中条目」がある「大奥法度:おおおくはっと」を制定。これが完成形の大奥ルールで、大奥奉公に大奥法度を誓わせる誓詞が義務付けられた。吉宗らしく、質素倹約、華美な服装や振る舞いを禁じるなど、禁止事項も子細にわたっている。

大奥も「女中が文通する相手、休暇に会えるは、今でいえば3親等まで」とか、「面会できる息子でも10歳未満」、「女でも長局に泊めないこと」「同僚と夜更かししないこと」「按摩は2人まで」…。それでも、将軍のプライベートや政治上の機密が奥女中を通じて伝わる、男の役人や出入り商人と賄賂を通じてやりとりする…など、禁止事項をくぐりぬけ、いつのまにか融通無碍(ゆうづうむげ)になるのが世の常。

 

11代家斉の子ども。幼少に亡くなることも多かったが、集団保育はしていない。

大奥法度、なんか、現代の中高生の校則みたいだね。長いスカートが流行すれば、「スカート丈は〇cmまで」と校則できめて、ミニスカートが流行れば、膝が隠れる長さとかにルールチェンジ。制服なんてものがなければそんなもの必要ないのにね。

 

江島・生島

大奥だって、将軍の母の代参として増上寺に行った御年寄の江島が芝居見物をして看板役者の生島(いくしま)と密通したとか、

 

日潤

禁欲生活を強いられる大奥女中につけこんで、歌舞伎役者を動員して女郎ならぬ「男部屋」をつくり、参詣のあと招き入れていた女犯坊主のスキャンダル。

 

お美代の方? 

漁色家11代家斉を虜にしたお美代の方は、実父の寺や廃寺となった寺を壮麗な寺院として再建した。その寺で奥女中たちが淫行に励んだ。

大奥は、若い女性の性を封じ込めた。女の園であり、将軍のお手付きがあった正室、側室でも30歳になれば「御褥御免:おしとねごめん」で、将軍との性交渉は禁止になり、大奥に閉じ込めて実家には戻れず一生を終えた。もちろん再婚禁止。将軍や正室、幕閣の内部抗争、老中、寺社奉行なども絡み、組織の秩序を規制をいくら厳しくしてもモグラたたき。

大奥という制度自体が不自然だ。奥女中たちは、そのようながんじがらめの職場環境、生活環境でもキャリアウーマンとしての道を歩んだ。

 

奥女中はどんなところで働いたか?

江戸城平面図

江戸城(敷地1万1千坪(約3万6千㎡)は、幕府の実務が行われる政庁の「」、将軍個人の執務とプライベートの場を兼ねた「中奥:なかおく」(今の官邸)、 御台所、側室、将軍の子どもたち、住み込みの奥女中が生活する「大奥」(私邸)の3つに分かれていた。

大奥配置図

大奥は6300坪、江戸城の6割強が大奥。大奥の内部は「御殿向」(ごてんむき)→御台所の住まい、将軍の寝所、「長局向(ながつぼねむき)」→奥女中の詰所、住まい。大奥の3分の2を占め、女中たちの住まいが2階4棟の長屋(部屋数100、奥女中のトップクラスになれば庭付き2階で、70畳の総床面積があり部屋方(使用人)つき。側室も身ごもると「お部屋様」になり個室を与られる)。「御広敷向(おひろしきむき)」は男子役人「御広敷役人」)が24時間勤務。表と中奥の間は仕切りなし。中奥と大奥の間は銅の塀があり、上下2本の御鈴廊下(おすずろうか)がつないでいた。大奥に往く御鈴廊下はTVなどでおなじみ。「上さまのおなり~」の掛け声で将軍が渡ると廊下の両脇の鈴が鳴り、扉が開く。その先の廊下の幅はそんなに広くなく、ほんとうに並んで迎えたのか?下りの御鈴廊下は通常は使われず、非常口みたいなものだった。

 

NHK「大奥」 将軍が女、側室が男の男女逆転。御鈴廊下を渡る吉宗役は富永愛。

長局向と広敷向の境は「七ツ口」と呼ばれ、食料品や生活物資を大奥に納める商人が出入りした。午前8時から午後4時(七ツ時)まで。大奥千余人の食事は広敷内台所で男役人が作る。その他、調度や調度品を用達したり、メンテをする男性職人も広敷内に控えていた。

中奥には老中でも入るには許可が必要で、大奥は完全に女の園で将軍以外は男子禁制、勝手に男が入れば死罪。でもこれは建前で、大奥に入れた男もいた。老中は大奥検分の警備担当役人に同行したし、奥女中は外出できないので、手紙や買い物をしたり、風呂水(蒸気風呂)を担いでくる下男は入れた。医師は御台所や奥女中の診察のために坊主姿(法体)で控えていた。

 

奥女中の職制

どうして、こんなに大奥が広いかというと、多いときには3千人もの奥女中が寝起きし、働く空間で、調理場や風呂、娯楽の間を備えていたからである。

奥女中(御殿女中)は将軍、大御所(隠居)、御台所(みだいどころ・将軍の正室)、将軍生母、子女など将軍家家族のそれぞれにつけられていた。

大奥の維持費は幕府の予算の10分の1(200億円)~3分の1、吉宗時代は、幕府の総収入80万両、大奥費用20万両。大奥に倹約令が何度も出たが、大奥の経費は増えるばかりで減ることはなかった。将軍に直結しているだけに、隠然とした政治勢力。奥女中もトップクラスとなると、一度着た衣装は二度と袖を通さないほど贅沢。経営破綻するのは当たり前。

 

皇室関連費

 

ちなみに今の日本の皇室12名の維持費。上記の他に、宮内庁費用が125億。国事行為は総務省予算から。将軍より節約指向みたいだけど、税金だから国民の関心は高い。皇室継承の制度改正で、皇籍離脱した旧11宮家の復帰を主張する保守派がいるが、そんなことになったら、大奥みたいに金食い虫になるよ。

 

奥女中のプライベート空間

大奥は奇しくも、権力の中枢に張り付くように女性だけの巨大組織があり、「跡継ぎ」という大義名分で、大きな政治的権力をもった。御年寄という地位にもなれば、老中に匹敵する権力があるにも関わらず、大奥の出身者は公家、旗本、御家人、庶民、農民身分が入り混じっている。職場だけでなく、このミックスされた階層の女たちがそろって寮生活をしていたのも興味深い。奥女中たちは、大奥を去ったあとも手紙とのやり取りでつながっていた。女子大OBネットワークみたいなもので、私は幕末の江戸城無血開城にこのネットワークが大きな働きをしたのではないかと思っている。そのことはあとで書きます。


長局配置図

長局(ながつぼね)は奥女中の居住エリア。4棟あり、長い1棟をいくつもの局(女房の部屋)に区切って使っていた。「一之側」が上臈から御中臈までの1人一部屋。30坪の庭付きで池、樹木、築山などが配置され料亭の庭のようであったという。私的な使用人も住んでいた。

「二之側」と「三之側」は、それ以下の御目見(おめみえ)以上の女中たちの、四之側は御目見以下ときまっていた。中~下位の女中たちは数人が一部屋を使い、入口に住人の名を書いた紙が貼られていた。間取りは間口3間奥行7間(70平方㎡)で2階造り。

 

「長局」

 

 

奥女中はどんな人に仕えたか?

奥女中の働き方がテーマなので、その前に、仕える将軍と御台所について。

ドラマやマンガでは、描かれない仰天のしきたりも紹介しましょう。

 

将軍の一日

 

家光の時代には老中や大名と政務を行っていたが、時代が経ると運ばれた書類に決裁するだけ。2~3時間かかった。余暇も学問、武芸、趣味など2~3時間。1日の2/3は中奥にいた。奥入り(大奥に渡る)は午前、午後、夜。夜寝るのは大奥ではないときは、中奥で1人で寝る。

 

監視付きの将軍の寝室

寝る時間は決まっており、1人で寝ない場合は、大奥の将軍専用寝室。側室を夜の相手に指名するのは予約制。昼間に大奥に連絡する。側室は指名されると準備をし、身体検査を受けて寝所に入る。寝所では、お添い寝役として御中臈(同じ同僚の側室の場合も)とお坊主が2人を挟むように寝ていた。耳をそばだてて、聞いたことをあとで御年寄に報告した。次の間では監視役の御年寄と御中臈が控えていた。側室のおねだり監視のためのしきたりだが、御台所の場合は監視はない。

 

●御台所のトイレの様子

御台所の一日は、ほぼノースケジュール。公務もなく、訪問者と会うこともなく、外出といえば、大奥の庭を散歩することぐらい。御台所は公家や皇族出身者が多く、京風の習慣で女中の手伝いがなければ何もできなかった。手を洗う時も手を出すだけで、お付きの者が洗って拭く。トイレも一緒に入ってお尻も拭いてもらう。御台所のトイレは「万年」といい、一生に1か所で汲み取りはなく、一代限りで埋められた。入浴は朝と夕方の2回(なんと洗髪は年に数回)、着替えは1日5回。唯一、自分自身でやるのがお化粧で、顔から胸元まで白粉をこってり、お歯黒(鉄漿:かね)、眉描き、口紅は自分で。着せ替え人形の日々。自由時間はたっぷりで、小倉百人一首をやったり和歌を詠んだり…。飾り物的存在。

 

奥女中が仕えるのは、将軍と側室だけじゃない。14代家茂(いえもち)は家茂付きが185人、その他、正室和宮付き、家茂生母(実成院)付き、13代家定の正室(天璋院)付きで、合わせて400人。上級女中は、幕府から禄をもらう中から、部屋方と呼ばれる女中を私的に部屋あたり10人以上雇っていたというから、女中密度が高いね。

奥女中というと、すぐに側室を連想する人が多いが、妾奉公と奥奉公を混同している。奥女中は将軍と御台所の生活を支えるお側衆と事務処理や政治的交渉をする役人系に大別され、お側衆から側室がえらばれて、お側にいなかった役人系が側室になることはなかった。

 

大奥の御殿女中たちは、シンデレラを目ざして奉公したのではなかった。当時、女性がキャリアを追及できる唯一の場が大奥だった。将軍の子を産めなくても、給金は民間よりずっと高く、武士や数百石の大名も及ばない役職もあった。

 

次回は、大奥奉公への応募から、出世競争、将軍や御台所に仕える誇らしさなどについて、江戸のキャリアウーマンの生き方を探ります。私は町人の女性のほうが気楽でいいと思うんだけどね…。(koki)

 

これまでの投稿は、以下でご覧になれます。

 

(Narashino gender1~41)

 

(Narashino gender42~)


 

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