日本人にはまだまだなじみの薄いクルド人難民問題。
2003年に作成されたレポートでご紹介します。かなり長いレポートですが…
 

クルド・苦難の歴史と現在   

ハラブジャの虐殺(イラク・クルド)→クルディスタンのヒロシマ・ナガサキ

 

 

1988.3.16 イラン・イラク戦争の中でイラン国境に近いハラブジャでアリ・ハサン・アル・マジード(化学のアリ)率いるイラク軍がマスタードガス、サリン、タブン、VXなどを混合した「カクテル・ガス」で5000人のクルド人を一瞬にして殺害、1万人の負傷者を出した(75%は女性と子供)。当時はドイツの化学会社がフセインに化学物質を売り続け、イラクを支援していたアメリカなど欧米諸国も戦後の「復興特需」への参入をねらい、この事件を問題にしなかった。イラクへの制裁をブッシュ(父)は拒否した。1983~1988年アメリカはフセインに間5億ドルの信用供与、89年からは2倍の10億ドルにした。ハラブジャ事件の翌年バグダッドで「国際武器見本市」開催。

(アンファールأنفال※作戦1988.2~9の一環)

※  クルアーン第8章「戦利品」から名づけた

 

女性議員レイラ・ザーナの投獄(トルコ・クルド)

1991    ディヤルバクル選挙区の総得票数の87%を獲得、圧倒的な人気で当選。

しかし国会の宣誓式でクルドの三色旗を模したスカーフを着用し、クルド語を話したため、「国家反逆罪」で15年の刑、1994年に投獄され現在も獄中。(1995年欧州議会からサハロフ平和賞を受賞。PKKの武装闘争について「手段は異なるが目標は同じ」と発言。夫のメフディ・ザーナは1977年からディヤルバクル市長だったが、トルコの1980年クーデタ後15年投獄、現在ヨーロッパに亡命中)

 

クルド人戦士はペシュメルゲ(死に向かう者)と呼ばれる。

 

クルド人とは

アッシリア語で「戦士」を意味する「ガルドゥ」から来た、と言われ、イランのある部族から派生したと言われている。総人口は2500~3000万人と言われ、中東ではアラブ人、トルコ人、ペルシャ人に続く第4の民族。

クルディスタンは「クルド人の土地」という意味だが、地域的にはイラク、トルコ、シリア、イランなどの他アルメニア、アゼルバイジャンにもまたがる。

(トルコ52%、イラン25%、イラク17%、シリア5%)

クルド語の状況

トルコ 「山岳トルコ人」と呼び、クルド人の存在すら認めていない。

そのため、2世、3世はトルコ語しか話せない者も多い。

PKKのオジャラン党首もトルコ語しか話せない、と言われる。

1991年までクルド語を使うこと自体が犯罪。

1991年オザール大統領の時代に法律改正で「私的な場」でのクルド語使用だけは許可されるようになった

イラン パーレビ時代から今日まで「ペルシャ語の方言にすぎない」としてクルド語の存在を認めていないが、現在トルコやシリアのクルド人に向け、クルド語のラジオ放送で情報宣伝を行っている。

シリア クルド語の存在を認めていないが、クルド語のラジオ放送もクルド音楽も認めている。

イラク 1961~75の武装自治権闘争の成果として、クルド人居住地域(4県)でクルド語を公用語の一つとし、クルド語放送、出版物も公認。

 

クルド人の宗教

75%がスンナ派ムスリムで、ナクシュバンディ教団(KDPのバルザーニ)、カーディリー教団(PUKのタラバーニ)など神秘主義(スーフィー)教団に属す者が多い。15%はシーア派ムスリムでイランのケルマンシャー付近に多い。

 

豊かな天然資源

鉱物資源ではイラクの石油の1/2、イランの石油の1/3、シリアの石油の全部がクルド人居住地域に属す。トルコ内クルディスタンには鉄・銅・クロムなど。

水資源ではトルコの70%、イランの60%、イラクの70%、シリアの60%がクルディスタン。

穀物生産ではトルコの15%、イランの35%、イラクの30%がクルディスタン。

 

歴史

紀元前8世紀末、インド=ヨーロッパ語族のメディア人がイラン高原でメディア王国を建国。クルド人はメディア人を自らの祖先と考えている。

紀元前612年、メディア・新バビロニア両王国連合軍がアッシリア帝国を打倒。

アッシリアの暴君デハックは、ある日両肩から二匹の蛇が生まれ、その蛇と共生する運命となる。蛇をなだめるため、毎日二人の若者を選んで殺し、その脳みそを蛇に食べさせた。デハックの家臣の一人が哀れに思い、二人のうち一人は逃がし、代わりに羊を殺した。逃げた人たちはやがて「クルド人」と呼ばれ、その中から鍛冶屋のカワという英雄が現れる。彼はデハックに対する抵抗運動を組織し、612年3月21日民衆蜂起で王宮に突入、商売道具のハンマーでデハックの頭を叩き割り、息の根を止めた、という建国神話に基づく

この年をクルド暦元年、3月21日をナウロージュ(新年祭)として祝う。90年代を通して毎年ナウロージュの祭りにはトルコ治安部隊が激しい弾圧。92年には無差別発砲で109人のクルド人を殺害。それでも阻止できないと見たトルコ政府は95年から「ナウロージュは元来トルコ民族の伝統行事である」とし、「政府主催のナウロージュ」を行うようになった。一方「無許可ナウロージュ」は徹底的に弾圧、監視に来た欧州の議員・ジャーナリストに暴行、強制送還を行った。(ナウロージュの起源は紀元前612年、トルコ人がアナトリア半島に移動してきたのは紀元後11世紀なのに「トルコ民族の伝統行事」とは!)

 

その後ペルシャ、ギリシャなどの支配を経たのち、紀元7世紀、イスラム軍がササン朝ペルシャを倒し、クルド人もゾロアスター教からイスラムに改宗。

750年に成立したアッバース朝が力を失う中で、10世紀後半には4つのクルド候国が成立。その後トルコ系のセルジューク朝に併合されるが、1150年スルタン・サンジャルは現在のイラン西部に「クルディスタン」県を設置。(歴史上初めて地理用語としてクルディスタンが登場)

セルジューク朝が倒れ、1169年クルド出身のサラーハッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を開いた。(クルド王朝ではないので、クルド人の彼に対する評価は低い)彼は1187年十字軍を包囲、エルサレムを解放した。

 

チャルドゥランの戦い

モンゴルやティムールの支配を経、16世紀にはクルディスタンをはさんで、サファビー朝ペルシャとオスマン・トルコが対峙することになる。

オスマン・トルコのスルタン、セリム1世の顧問だったクルド人イドリスィー・ビトリスィーは「クルドがオスマン帝国側に立って国境線を防衛する代わりにクルド候国に自治と特権を認めよ」と進言し、1514年チャルドゥランの戦いではオスマン帝国側に立って戦った。これにより、16のクルド候国が自治を獲得したが、1639年エルズルムの和議により、クルド人はトルコ側とペルシャ側に分断されてしまった。しかし平和を得たことにより、以後300年間クルド文化の黄金時代を迎え、歴史書「シェレフナーメ」、詩人エフメデ・ハーニの詩集「メームー・ズィン」などが作られる。

 

19世紀クルドの反乱

19世紀に入るとオスマン帝国が帝国を再建すべく、クルド候国からの自治権剥奪に動いたため、反乱が相次いだ。

ルアンドスの反乱 

3万人の軍隊をつくり、1826年クルド人国家として独立を宣言するが、鎮圧される。指導者ミル・ムハンマドは処刑。

ベディルハン・ベイの反乱

 クルド候国のベディルハンは1842年までにオスマン帝国軍を次々に打ち破

り、独立を宣言。貨幣も発行したが鎮圧され、いわゆる自治候国はクルディスタンから消滅する。

シェイフ・ウバイドゥッラーの反乱(「部族主義」から「民族主義」へ)

 1877年からの露土戦争でオスマン帝国は現地調達の名で略奪、クルディスタンに深刻な飢饉をひき起こした。各地で反乱が勃発、シェイフ・ウバイドゥッラーはオスマン朝派遣監督官の処罰を求める一方、部族長220人を集め、1880年蜂起を開始。イランに「民族国家」を樹立しようとした。イランの首都タブリーズに迫ったが、オスマン帝国、イランの挟撃に遭い、鎮圧される。イスタンブールに送られたウバイドゥッラーは脱走、再度決起しようとするが、逮捕、メッカに送られ、客死。最初のクルド民族運動は鎮圧された。

 

第一次大戦後の「クルド復興委員会」

 第一次大戦でドイツ側についたオスマン帝国は降伏。イスタンブールで「クルド復興委員会」が結成される。(議長はウバイドゥッラーの息子セイド・アブドルカーディル、副議長はベディルハン・ベイの息子エミン・アリ)

 「トルコ人が苦難に直面しているときクルディスタンの独立で彼らに致命的な打撃を与えるのはクルド人の名誉に値しない」としたアブドルカーディルはムスタファ・ケマルに裏切られ、絞首台に送られた。

 

セーヴル条約(1920年)の「クルド自治領」、ケマルとの約束

 オスマン帝国と連合国との間で締結されたセーヴル条約ではトルコをズタズタに分割する中で、「クルド自治領」と「アルメニア共和国」の設置が決められた。しかしトルコ建国の父(アタチュルク)ムスタファ・ケマルはこれを認めず、クルド人との間で、「トルコ人とクルド人の国家をつくる」と合意し、祖国解放運動を闘った。(革命軍の最初の部隊はクルディスタンで結成された。)クルド人は粗末な武器で10ヶ月もフランス軍に対するパルチザン戦争を戦い、そのおかげでムスタファ・ケマルは西アナトリアでギリシャ軍などと戦い、1922年最終的に打ち破った。

 

ローザンヌ条約(1923年)で消えた「自治」、ムスタファ・ケマルの裏切り

 この条約でセーヴル条約は無効とされ、「クルド自治領」案は破棄される。

 アンカラ政府代表はローザンヌで「兄弟民族であるトルコ人とクルド人の代表」として発言するが、「対等のパートナーだから条約の『マイノリティ保護』条項の適用を受けない。」とされ、「対等のパートナー」だからということで、北クルディスタンがトルコに併合された。ケマルは「トルコ人とクルド人の国家」という合意を反故にし、1924年憲法で「トルコ共和国の全住民をトルコ人と見なす」とし、クルド語使用禁止、トルコへの同化政策を強行した。

 こうして1925年末にはクルディスタンはトルコ、イラン、イラク、シリアに分割併合された。(ここに、地理用語としてクルディスタンは消滅し、現在に至るクルド問題の原型ができた。)

イラク→シェイフ・マハムットの反乱

 1919年からイギリス軍とシェイフ・マハムットのクルディスタン政府軍が衝突。イギリス軍はスレイマニエを空爆、マハムットを捕捉。捕囚を解かれたマハムットは再び蜂起するが鎮圧され、インドに追放される。

イラン→スィムコの反乱

 1920年、イスマイル・アー・スィムコが弱体化したカジャール朝に対して蜂起。パーレビ時代までスィムコはウルミエ湖西側一体を制圧していたが、彼がパーレビ朝との交渉に出かけた時、そこで暗殺された。

トルコ→コチギリ、シェイヒ・サイト、アララット山、ディルスィム

コチギリ 

1920年コチギリのクルド人はアンカラ政府に反乱、翌年に鎮圧された。110人が死刑判決を受けるがトルコのケマル政府も弱体だったため、恩赦をくだした。

シェイフ・サイト

 1925年ナクシュバンディ教団長老のシェイフ・サイトが7000人で蜂起。「スルタン=カリフ制の復活とその保護下での独立クルディスタンの建設」を掲げたが、鎮圧され、52人が絞首刑。数千人の農民が殺され、数百の村が焼き払われた。

アララット山の蜂起(民族主義)

 レバノンで結成されたクルド人の民族統一戦線「ホイブーン(独立)が1929年、アララット山周辺で蜂起。リーダーはトルコ軍の将軍だったイフサン・ヌリ・パシャ。1700人のトルコ兵を捕虜にし、12機の戦闘機を撃墜、など善戦したが、1930年トルコ軍が鎮圧。指導者は処刑、知識人は袋に詰められ、湖に捨てられた。トルコは、鎮圧期間中のいかなる行為も罪に問わないとする法律を制定し、残忍な行為を繰り返した。

ディルスィムの抵抗(ゲリラ戦争)

 1932年トルコ政府は集団強制移住によるクルド人の同化を目的とした特別法を制定。数十万のクルド人をクルディスタンから追放し、トルコ人の入植を進めた。(パレスチナと同じやり方)

 「自治」を維持し、第一次大戦もトルコ独立戦争もボイコットしていた最後の拠点ディルスィムをトルコ軍が包囲、武装解除を要求したがセイド・ルザをリーダーにゲリラ戦で徹底抗戦、弾薬が尽きるまで戦った。トルコ軍は無差別虐殺を行い鎮圧。これ以降「クルド人」と「クルディスタン」という言葉はトルコではタブーとなった。1980年代PKK登場までクルド民族運動は押さえ込まれた

第二次大戦後

バルザーニ兄弟の反乱

 1930年イラク王国がイギリスから独立したが、クルドは無視された。インドに流されていたシェイフ・マハムットが抗議運動を組織したが、イギリス軍は彼を逮捕、バグダッドに連行。

これに呼応し、バルザン地方のクルド人たちが蜂起(1932)。リーダーはシェイフ・アフメッド・バルザーニと弟モッラー・ムスタファ・バルザーニ。蜂起軍はイギリス軍の空爆を受けトルコ領内に敗走。トルコ政府は彼らをイラク政府に引き渡し、以後10年間兄弟は故郷に帰れなかった。

1943年、バルザーニ兄弟はひそかに故郷バルザンに戻り、再び蜂起。3万のイラク軍とよく戦ったが、またもイギリス軍の空爆で敗走。イランに逃げ込んだ。

 

マハーバード共和国とバルザーニの長征

第二次大戦でイランは中立を宣言していたが、シャー・パーレビは親ナチである、ということで、41年には南部にイギリス軍、北部にソ連軍が同時進駐した。こうした中でイラン領内マハーバードでクルド知識人が「コマラ(復興)」を結成。コマラを中心に1945年8月「クルディスタン民主党」が生まれる。現在も活動を続けるKDPI(イラン・クルディスタン民主党)である。1946年1月KDPIはマハーバード市で「クルディスタン人民共和国」(通称「マハーバード共和国」)の樹立を宣言。イラクから逃げてきたムスタファ・バルザーニは軍司令官になり、知識人中心で軍事的に弱体だったマハーバード共和国を支えた。しかしソ連は石油採掘権と引き換えに撤退。イラン軍はマハーバードを占拠、カージ・ムハンマド大統領は絞首刑に処せられた。

 

共和国の命はわずか10ヶ月。イラン政府はバルザーニたちに対し、イラクに戻るか武装解除するか迫った。兄のシェイフ・アフメッドは部族民を連れてイラクに戻り、逮捕された。

弟のムスタファ・バルザーニは500人のつわものを連れ、雪山の国境を越え、ソ連への350キロの「長征」を行った。(バルザーニの英雄伝説)

スターリンは彼を中央アジアに流刑、ソ連で11年にも及ぶ亡命生活。

スターリンが死に、1958年カセム将軍のクーデタでイラク王国が倒れ、ムスタファ・バルザーニは「英雄」としてソ連から帰還した。しかし新政権も数年後から反クルド人政策をとる。バルザーニはイラクKDP(1945年結成、イランKDPとは別組織)の議長となり、1975年まで民族解放闘争を展開。「解放区」ではクルド語の教育・出版が行われ、自治政府が運営された。

イラクKDPはアメリカ・イラン(パーレビ)の支援を受け、イラク(フセイン)はソ連の支援を受けていた。1970年に両者は「クルディスタン自治に関する合意」を結ぶがフセインはこれを反故にし、1974年クルドに総攻撃、約50万のクルド難民がイランになだれこんだ。更に翌75年イラク・イランの間で「アルジェ協定」が結ばれ、イランは国境を閉鎖。バルザーニは降伏。

 

イラン革命とホメイニの裏切り

1979年イラン革命クルド人はフセインにクルドを売り渡したパーレビを倒すため、革命に積極的に参加。革命後マハーバード市で自治を宣言したが、ホメイニは「クルド人は反革命」というファトワ(裁定)を出し、クルディスタンに侵攻するが、戦闘は膠着状態、翌80年に停戦合意。

89年にウィーンでKDPI(イラン・クルディスタン民主党)のアブドルラフマン・ガッセムル議長が暗殺(秘密交渉に呼び寄せ、ホメイニの喪が明ける40日目のアルバイーンの日に凶行)、後継者のサーデグ・シャラフカンディ議長も92年ベルリンで

暗殺。2人ともパリのペール・ラシェーズ墓地に眠る。

 

イラン・イラク戦争

80年9月、革命後のイランの国際的孤立を突き、フセインは「アルジェ協定」を破棄、イランに攻め込み、以後8年間戦争が続く。フセインはイランKDPを、ホメイニはイラクKDPおよびPUKを支援。イスラム革命の拡大を恐れたアメリカはフセインに大規模な経済援助、武器援助を行った。80年代半ば、戦場は主としてイラク北部(南クルディスタン)になり、87年から化学兵器を使用し始め、88年3月16日には「ハラブジャ事件」が起こる。一連の化学兵器攻撃で殺されたクルド人は15~20万人と言われる。

 

PKK(クルディスタン労働者党)の登場

74年アンカラ大学の学生アブドッラー・オジャラン(ニックネーム「アポ」)を中心に結成。マルクス主義を掲げ、反地主闘争を行うが、80年のクーデタ後の「左翼狩り」で1790人が逮捕。シリアなどで組織の建て直しを図り、イ・イ戦争のさ中1984年に北クルディスタン(トルコ南東部)で武装闘争を開始。

これに対抗し、トルコ政府は85年に農村法を改悪、キョイコルジュラル(村落防衛隊員)というクルド人反革命部隊を組織。犯罪者やマフィアも、これに組織され、両者の武力衝突が激化。PKK支持のクルド人村への襲撃は逆にPKKへの支持を拡げ、更にイラクの化学兵器攻撃から逃れたクルド難民が流入し民族意識が高揚した。90年代に入ると都市部にまで支持が拡がった。

 

湾岸戦争と「セイフ・ヘイブン」

1990年8月イラクがクウェートに侵攻。停戦後、クルド人が反フセイン蜂起に立つが3週間で鎮圧される。約150万の難民がトルコ、イランに逃げ、国際的に問題になった。その後多国籍軍が「セイフ・ヘイブン」を設定、難民が帰還、92年に自治政府誕生。マスウド・バルザーニ率いるKDP(部族主義、北部山岳地帯)

(バルザーニ)

とジャラル・タラバーニ率いるPUK(イランが支持、南部の都市部、98年KDPと和解するまではトルコPKKと良好な関係)

(タラバーニ)

が半々の議席をとるが、94年個人的な土地争いをきっかけに武力衝突、500人以上の死者を出し、KDPはイラクに支援要請。自治政府は崩壊、イラク・クルドはKDPとPUKが支配する2つの自治区に分裂する。

 

トルコ・クルド人運動の高揚

90年代、PKKはクルディスタンで圧倒的な支持を受け、ゲリラ志願者が急増。

シリアをバックにレバノン・ベッカー高原などで軍事訓練を行う。

当時のトルコのオザール大統領は91年「クルド語の部分解禁」に踏み切り、PKKとの交渉を水面下で進めたが、93年の突然の「病死」で中断する。PKKは93年、95年、98年一方的停戦宣言を出すが、トルコ政府は弾圧の手をゆるめず(3000の村、町を無人化!ゲリラの死者2万8千、トルコ軍の死者5千、市民4千)、「ヒズビ・コントラ」と呼ばれる秘密部隊を使って活動家・ジャーナリストの暗殺誘拐を繰り返した。しかし、クルド人アイデンティティを掲げる合法政党がトルコ議会に乗り込み、解散命令が出るたび次々と後継政党を作った。94年にはヨーロッパの亡命クルド人を中心に「MED-TV」を開局、95年には「クルディスタン亡命議会」を成立させ、ヨーロッパ各国政府への「外交活動」を始めた。

 

98年アメリカはイラクKDPとPUKの和解を仲介し、イラクからのPKK排除を合意させる。トルコ政府もシリアにPKK支援の即時中止とオジャランの引渡しを要求。99年10月オジャランはシリアを出国したが、彼の動向はアメリカとイスラエル(イスラエルは96年トルコと軍事協定を結んでいる。)が把握、ケニアのギリシャ大使館に保護を求めた彼は、トルコ軍に引き渡される(逮捕時、世界中で抗議運動)、トルコ国家治安法廷(判事3人のうち1人軍人。壇上の検察官と判事が弁護士・被告・傍聴席を見下ろす。国際的批判で3人とも文人になったが、マルマラ海のイムラル島の映画館跡地で密室裁判)で死刑判決、現在もイムラル島に収容されている。オジャランは獄中から武装闘争の放棄、ゲリラ部隊のトルコ領からの退去を指示し、世界を驚かせた。

 

オジャランの発言

女性が革命的になればなるほど、革命闘争に多く加われば加わるほど、革命もラディカルになる。(PKKには女性ゲリラが多く、短期間でPKKが多数派になった理由は女性の参加に負うところが多い)

 

日本政府のクルド人切捨て

日本に滞在しているトルコ国籍のクルド人は500~700人いると言われ、そのうち難民申請をしているのは100人を超えるが、難民認定を受けた者は一人もいない。法務大臣によって強制送還された人たちには、深刻な事態が待ち受けていた。ムスタファ・クズマズという元小学校教師は97年難民申請を行い、彼に続いて20数名のクルド人が申請したが、仲間たちの申請が次々に却下され、絶望したムスタファさんはアゼルバイジャン経由でトルコに密入国、治安当局に見つかり、拘留、拷問を受け、99年7月に殺害された。

ハッサン・チカンさんは99年に難民認定を却下されトルコに強制送還、激しい拷問を受け、彼のからだには拷問のあとが生々しく残っている。2001年2月再び日本に逃げて来たが、成田で拘束、牛久収容所に移された。退去強制処分取り消し訴訟を千葉地裁に提訴。難民認定はされなかったが、さすがに自らのからだに証拠を刻み付けた彼を送還するわけにもいかず、難民申請者としては初めての特別在留許可がおりた。その他入管に多くのクルド人が収容され、2001年3月から3ヶ月間のハンストに決起した。

96年難民申請したが却下され、2000年11月から収容されていたAさんに対し、東京地裁は「退去強制の執行停止」の決定をくだし、20002年4月25日ようやく釈放した。しかし3ヶ月後の7月15日、東京高裁は「収容の執行停止を取り消す」決定を行い、7月31日Aさんは再び収用されてしまった。

(以上、2003年に作成されたレポートによる投稿です)