何をやっても食べていける

●シカゴ美術館 喜多川歌麿「婦人手業拾二工」

下の図鑑は約500の仕事が解説とイラストで紹介されている。現在のハローワークで紹介してくれる職種は18725種だが、近代化されていない江戸時代に500種もあるなんておどろき。職業の由来や恰好、所作までわかる。

●人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)表紙とまえがき。元禄時代の職業図鑑

●本文 7巻あり、1公家、武家、僧侶関係 2以下は能芸、作業(農工)、商人、細工人、職人、遊郭・演劇、民間芸能

この図鑑には、かなりの女性が描かれている。起業して小商い、職人、製造業、農業、漁業。子どもをおぶったり、子連れだったり。Kokiが古書店で手にいれた東洋文庫版から女性が載っている挿絵を一部紹介しよう。

人倫訓蒙図彙より、女性の仕事1

左上から右下へ

柴売女 石売女1/汐汲 あま人/乳子買(ちごかい) 酢屋/粉や 扇折

町人女性の仕事

江戸時代はハローワークという公共の職業紹介所はない。「口入屋」という斡旋業者はあるし、「桂庵・けいあん」という主に奉公人の斡旋をしてくれるところもある。自分で探すよりも大家さんにたずねた方がいいね。悪徳業者に引っかかって売られちゃたまらないからね。

江戸の社会経済は、物を売る商人と、物をつくる職人が主役。あと、演芸関係、奉公人。そして近松門左衛門流にいえば「慈悲に仕える遊女」。女性の仕事の選択肢は多かったかも?現在よりバラエティーに富んでいるね。幕府が町人に男尊女卑を押し付けようと、町人の女性を武家の妻みたいに家に囲い込んだりしない。

うそ?と思うかもしれないが、何をやっても食べていける。当時は学歴や資格みたいなものもないからね。農民だった女性が江戸にでて町人となることができるのは、農民と町人に身分の差がないからだ。村に住むか、町(城下町のような大都市)に住むかの差であり、都市近郊で農業をやり、その収穫物を町に売りにいくのは、百姓でもあり商人でもある。逆に大工、鍛冶屋、木こりなどは百姓はやってない職人だが村に住む。

流動性のある社会で、平和。税金や社会保険料なし、家賃はタダ同然。奉公がいやなら、チョットした手間賃仕事はいくらでもあるし、気に入れば努力して天職になる。江戸は将軍様のお膝元だからお侍も無茶はできない。女性は独身でも、子持ちでも、後家でも仕事をみつけて働いた、女性活躍社会。

現在みたいに、この仕事できるなと自分で決めても、子持ちだ、母子家庭だ、後家で年寄だからと冷たくないからね。男は正規、女はパートもない。労働時間短いので、みんなパート。家庭持ちでも男は家事、育児やるのは当たり前。今の派遣会社のように、口入屋は仕事を紹介するだけで、中抜きはしない。扶養者控除だの第3号年金だの女性を専業主婦にさせるための税や年金制度もない。男女の賃金差もいまほどない。「この仕事、コキさんにまかせたよぉ~」「アイよ!」という気持ちのいい雇用関係。仕事は給金よりもメンタルヘルスが大事。

 

では江戸の女性の仕事を紹介しましょう。労働形態を8つに分類したよ。

①   家政労働

●歌川豊国 「絵本時世粧」商家で下働きをする下女

おもに上層・中層の町人の妻が、夫が家業をおこなうなかで下女たちと家政を行う。大きな商家の経営は同族経営が基本で、奉公人は男ばかりで構成されていた。家業の決定には妻は参加できない。妻の役割は家族・縁戚・近親者・使用人に配慮して夫を盛り上げることで、妻次第で家業の盛衰が決まるといわれていた。

大店(おおだな)の使用人(奉公人)は、男性の終身雇用制。正規採用には中途採用はない。本店は近江や伊勢にあり江戸は出店(支店)。10歳くらいの少年が小僧(丁稚:でっち)として採用され、昼は雑用しながら挨拶や行儀を習い、夜は読み書き算盤を鍛えられて、5年の奉公でいったん解雇され実家に戻る。目をつけられた者だけが再雇用されて、江戸の出店で再雇用。この段階で残るのは約半数の狭き門。

18歳の元服で「手代:てだい」→これからは商売に関わることができて有給(ほとんどを店が預かり退職まで積み立てる)→10年程度で「番頭」→さらに10年→妻帯が許されて40歳くらいの晩婚で住み込みから解放される。さらにお礼奉公し、支配人になるか暖簾(のれん)分け。過酷な生き残り競争で、日本の終身雇用や年功制度、人事評価なども、これが源流。同族経営の大店はなかなか支配人にはなれない。口入屋を通じて採用された奉公人は、「中年者」といわれて、台所関係の雑用に従事し、昇進はなかった。

●歌川広重 三井越後屋

●歌川豊春 浮絵駿河町呉服屋図

●三井高利と妻・寿讃(かね) 三井グループは去年、創業350周年。原点は三井越後屋。間口60mの巨大店舗。かねは15人の子どもを産み、男子8人、女子3人を養育し、決して衣類や食べ物は贅沢をせず、狂言や遊山(旅行)には興味を示さず、賢夫人で、後世の人は「女人の鑑」と讃えた。

●大黒天・恵比寿天 高利は、妻の内治について「人之女房は大黒、男は夷(えびす)」と述べた。大黒と恵比寿は今も三井家の守護神。

 

②   夫婦協業の家業労働

●深川江戸資料館(清澄庭園)の江戸の街並み説明図 実物大で江戸を体験できる

夫婦で家業を営むのは、中・下層の町民たちで、大通りには大店が繁盛していたが、大店の脇には中程度の商店、横丁に入ると間口の狭い小商いの店があった。生活用品や食品などを扱い、雇人も雇えないので、夫婦で切り盛りした。

八百屋 深川江戸資料館の展示

食料品や日用品は、商店ではなく、行商人から買うことが多かった。産直や製造直売で、長屋にいながら手に入る。独特の売り声や掛け声が楽しい。

七色唐辛子売り 魚屋 竹細工売り

 

意外なのは、商家では、血筋をひく男子がいても、娘に婿養子を迎えて家業を相続させることが多かった。家付き娘は、経営の差配や家政、教育、交際などを取り仕切り、婿は店の名義だけで、町内会にでるくらいしか仕事がなく、ヒマだったのもいたみたいね。

髪結床 式亭三馬「浮世床」の挿絵

床屋は出店が多く、家の上り口(上がり框:かまち)に後ろ向きに腰をかけて背後から髪を切ったり結い上げてもらったりした。家の奥は客の待合所で社交場。碁や将棋、小説本(草双紙)があり、世間話に花をさかせて、気晴らしや情報交換。髪結代は約300円程度。

湯屋(銭湯)は大店でも内風呂がないので大繁盛。入浴料は30円。町民は毎日入浴した。番台は夫か妻で、サービスは今のスーパー銭湯並みで、入浴後は2階の座敷が社交場。江戸初期は混浴だったが、痴漢が横行するため、中期から男女別浴。

風呂場で背中をあらってくれるのは三助(さんすけ)。垢をこすり、かゆいところに手が届くプロ。軽いマッサージもやってくれて、最後に背中をパンパンと叩いて景気をつけて一丁あがり。10分で100円。
湯女(ゆな)は男湯で身体を洗ってくれて、風呂上りには髪を結ってくれる。湯女のいる湯屋は、朝から営業し、夕方4時にはいったん店を閉めた。それから座敷で準備をして夜の部がスタート。湯女は三味線で小唄を披露して、セックスワーカーとして、今のソープ嬢のようなサービスをした。

三助 女湯で

●湯女 男湯で

 

③   問屋制のもとでの賃仕事(内職)

●国会図書館 「百人女郎品定」針仕事を習う町人の娘 

下層町民の女性たちは、長屋などの家のなかで、請け負ってきた内職をやっていた。数珠、組紐、鹿子結、水引、扇、針、紙漉き、素麺などの職人仕事。機織。

問屋仕事ではないが、賃洗濯や賃縫など女の仕事とされていたものを男性の独り者から請け負ったりした。「熊さん、その着物、ほつれてるよ。あたいが縫っておいてやるから、脱ぎな」。落語なんかでこんなセリフがあるが、ただの親切ではない。着物を返すときに「はい、1文!」と請求が来る。江戸の男は、簡単な針仕事も料理もやったから、着物を渡すのは、一種のカンパ。

 

④   女性の自立経営

●歌川国芳 「幼童席書会」寺子屋は女性が開いていることも多かった。書初めは個別指導で、現在は冬休みの宿題で指導なし。

手に職をつけるということで女性は自立することができる。内職(問屋制家内工業)といっても、モノを材料から加工して商品として仕上げる。あるいは半加工品を完成させると、そのまま売ることができ、独立が可能になった。また、女俳諧師、女右筆(ゆうひつ)、按摩、医者(江戸時代は資格がなかった)という男女差別なし腕一本の仕事も違和感なく存在した。寺子屋の先生は、男性より女性のほうが多かった。音曲(琴、三味線、小唄、長唄、都都逸:どどいつ、など)や踊り、武芸(薙刀:なぎなた、など)の師匠などを生業としている女性もいた。女性の髪結い(女髪結)は奢偧(しゃし)禁止令で禁止され、転業が命じられたこともあったが、需要が多く、女性の職業として定着する。今でいうヘアスタイリストで5000円くらいした

江戸時代の代表的ヘアスタイル 花魁(おいらん)はもっと芸術的

 

⑤    奉公人(家内労働)

大店は男社会で、女性の奉公人(下女)は表(店)にいず、奥で店の主人の妻の管理下にあった。下女の雇い入れや解雇の判断は妻の役目。4つの係があり、①針妙・しんみょう、上女中)➁中居(家事の雑用係)、③飯炊、➃子守。子守だけが10代で無給。衣類だけが提供される(仕着施・しきせ)。他の①、②、③は20代で、役目により給料が違う。嫁入り前の腰掛けで長くても勤務期間は5年程度。男女関係や物の取り扱い、私的流用などでも簡単に解雇されていた。

 

⑥   奉公人(女工)

江戸周縁の農家の女性が、江戸に住み込みの奉公人として働くこともよくあった。食品(味噌、魚加工など)。繁忙期だけのこともあり、なかには仕事の内容が定まらず、なんでもさせられる厳しい労働環境にあった女性も多かった。女性の賃金は、江戸時代後期から幕末まで次第に上昇し、人手不足であれば、男性100に対し、女性は95の支払もあった。男性労働者に配慮し、同賃金にはならなかったらしい。ただ男性は100~150くらいの幅がある場合も女性はいつも100で、これが最低賃金を意味した。現在は最低賃金は同じだが、男女の賃金格差は正規で100対75。男性正規対女性パートで100対44。明らかに江戸時代のほうが男女平等。

男性奉公人にはほとんどないが、女性奉公人だけにあるのが、セクシャルハラスメント。他人の家で働き生活する女性奉公人の生活は、性暴力や性的嫌がらせの脅威と背中合わせ。雇い主は独自に「奉公人規則」をつくり、「女性の寝起きする部屋に男衆は入ってはいけない」「衣類をはぎ取って裸にしたり、悪さをしてはいけない」、「女の奉公人に手をつけて妊娠させた場合は、代わりの働き手を連れてくること」。など、スケベ男対策。

奉公人は独身者を対象とし、働かせ放題。健康やメンタルヘルスには配慮してくれなかったので、20代から40代で退職する者も多かった。今でいうブラック。現在、直面する人手不足や少子化下でもブラックはなくならない。労働者は奉公人ではない。

 

⑦   遊女奉公

⑧   大奥奉公

⑦と⑧については、遊女と大奥のそれぞれの回で述べることにする。

 

日雇い労働は現在のほうがきびしい

江戸の庶民は、決まった職場で奉公人になるのではなく、日雇い労働が多かった。場合によっては複数掛け持ち。現在でも派遣で短時間のスポット労働で一日に複数の職場で働く人が増えている。雇う側は人手不足の労働需要をカバーできるが、細切れ労働で働く側は、ロボット並みの扱いだから、職場や職業に愛着をもてないだろうし、移動の交通費が支払われないことも多い。低賃金労働者がどこまでも搾取されるのが、今の政府の「働き方改革」。あなたは今月、何時間働いて、いくらの報酬を手に入れ、それで生活できますか?

江戸時代、幕府は町人に「日用座・ひようざ」という組織を作らせて、日雇い(日用)を管理していた。日用労働者は日用座に登録させられ、役銭(やくせん・登録料)を納めると、日用札(営業許可証)が交付された。それを札頭(日用の親方)に示し、入口(いれくち・差配業者)を通じて、日雇い仕事に従事した。もともとは、工事現場の土木作業や米つき(臼に玄米をいれて杵でつく精米作業)などの単純肉体労働で、公定で一日の工賃は決まっていた。自由競争にすれば、工事費や米価格の高騰を招き、幕府財政に影響するからである。

それが、江戸後期になると農村からの流入が増え、役銭を払わず、裏ルートでの日雇い労働が増えて、1797年に日用座は解体される。

 

町奉行発行の商店の営業許可証の表と裏

 

日雇い仕事(日傭取・ひようとり)は、単純肉体労働だけじゃなく、あらゆる雇用仕事に広がり、口入屋が爆発的に増えた。給金や労働時間などの条件は雇用側と被雇用側で決めていたのが、雇用側が一方的に決めるようになった。幕府が労働基準法や最低賃金を決めることはしなかった。日本で初めて労働者保護の法律ができたのは、1947年の労働基準法。労働基準法は労働者と企業の間で中間搾取することを禁じているが、派遣という労働形態を認める派遣法が成立したのは1986年。派遣法は対象職種を拡大したり、派遣期間を延長したりして改悪を繰りかえしているが、派遣は行政職員の現場でも一般化しているというような状況で、国家事業も派遣事業が請け負い、人件費支出を高騰させ、利権を悪徳議員が裏金として受け取る構図。

竹中平蔵(1951~) 和歌山の小さな下駄屋さんの息子。子どものころ、「お父ちゃんは朝から晩まで一生懸命働いているのにどうしてお金持ちになれないんだろう」と、経済の道に進んだ。

元経財大臣の有力派遣会社のボスである竹中平蔵氏は、政府の審議会などで、「社会保障は不要。代わりに全国民に月7万のベーシックインカムを支給」と発言し、反発がでると「所得が一定以上の人には後で返してもらう」という。他に年金支給と生活保護を混同している発言もあり、財政と税制の問題にはふれない段階でインチキ。

派遣は、派遣先からさらに派遣される二重派遣など、江戸時代より巧妙になっている。

江戸時代後半、農民は一揆という手段で、町民は打ちこわしという手段にでたが、今の日雇いはどうする?

 

人倫訓蒙図彙より、女性の仕事2

挽茶や 湯熨や・ゆのしや/白粉師 餅屋/風呂屋 紺屋

江戸の社会経済は、物を売る商人と、物をつくる職人が主役。武士や寺社は、自らは何の価値も生産できず、町人や百姓の労働者が生み出す富を収奪し寄生することで、初めて存立できた。都市の職人においては、脳と筋力に蓄積された高度な技術と能力。博物館などで当時の工芸品、衣装などを見ると圧倒される。その周辺に商人がいた。

近代化以前は、手工業の時代。女性が一人でも働くことができ、自立できたのは、近代化されていないからである。家で機織の内職をやれば、その賃金で生きていける。しかし、織物工場の時代になれば、「女工哀史」だ。女性の工夫や販路開拓で、起業できたし、子どもを養育することもできたのが江戸時代。同じ長屋に住む男性労働者の着物の繕いや洗濯をやれば、手間賃をもらえた。商店に頼まれて、商品を入れる箱や袋づくりをする仕事。山から山椒やワサビ、葛や山芋を取ってきて、籠に入れて行商すれば、お金になる。朝顔市、ほおずき市、菊人形。金魚、鈴虫、七味唐辛子、アサリのむき身、飴細工、餅、饅頭、せんべい、なんでも商売になった。

 

日本は近代化して、庶民の生活は豊かになったのだろうか? 火打石や薪、井戸や外便所は不便だろうけど、江戸の町歩きは楽しそうだ。日本橋の三井の越後屋は呉服屋だが、売るだけではなくイノベーションで、コスパがよく、買った反物を一日で仕立ててくれた。三井さんの今は、防衛庁跡地を再開発した三井不動産の六本木ミッドタウン、kokiにはお金が足りないせいか、楽しめない。東京の再開発のまちづくりはオフィスビル需要中心で、日本の経済が衰退したら、東京のまちはタワービルとスラムだけになる。まちの空間、外観(ファサード)は公共のもの。設計会社のものではない。だから計画段階からの住民参加が必要なのだ。神宮外苑再開発の樹木の大量伐採は多くの人が反対している。歴史的な愚行だよ、三井さん。

●東京再開発マップ

 

タイムスリップして江戸の町を歩いてみたい。芝居見物をしたい。寿司、てんぷら、蕎麦(そば)、うなぎも屋台で安く食べられるファストフード。これなら奢ってあげるよ。1日に4~5時間働けば、懐が寒いビンボー人でも暮らしていける江戸は、最高だ。(koki)

 

(Narashino genderの過去の記事は、以下でご覧になれます。)

 

 

 

 

 

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