江戸のまちづくり

太田道灌(1432~1486)と当時の江戸の集落と地形 

江戸は平安時代後期から存在した小地名で、秩父から進出してきた桓武平氏が住み着き、「江戸太郎」と名乗った。室町時代に上杉家家老の太田道灌が江戸城を築く。その後「江戸湊」と称され、江戸湾の海運と利根川水系を結び付け、東海道・奥州街道・甲州街道の結節点として、交通の要衝となっていた。ただの草ぼうぼうの湿地帯ではなかった。

 

1590年に家康が駿府から移ってきて江戸城を居城として江戸城を大改築し、城下町を整え、治水工事を始めとする江戸のまちづくりをやった。約70の大名に千石あたり一人の夫役(千石夫)を供出させるという「公儀御普請(こうぎごふしん)」で、山の切り崩しや堀の掘削などの自然改造、大名の江戸屋敷を中心とした「六十六の町普請」まで行わせた。町普請をやった町には「尾張町」、「加賀町」などと国名がつけられた。

伊達政宗が「諸大名の妻子をすべて江戸に集め、箱根・足柄に番を付ければ『広き籠』と同じになる」と進言し、参勤交代制度も始め、大名集住のため、膨大な家臣団と武家奉公人が全国から江戸に移住してきた。大名はまるで自分の町を作った気分かな? 大きな大名だと、江戸に定住する家臣は3000人。それに参勤交代で単身赴任する者、江戸で雇用する年季奉公人(一季居・いっきおり)もいた。武家奉公人のうちには小農民出身の者も多く、屋敷は家臣の一部を除いては長屋暮らし。今の番町、麹町、駿河台などは下級家臣の表長屋だったという。江戸には領地替えなどで仕事を失った武士=浪人(牢人)が仕事を得ようと全国から流入してきた。

家康が江戸入りした時は茅葺の町屋が100軒ほどしかなかったのが、家康入国後、短期間に巨大城下町として整備されて、20年後には江戸人口は15万人に増えた。(ドン・ロドリゴ「日本見聞録」)。1693年(元禄)の町民人口は35万三千人(武家人口以外。諸藩の江戸在住者と御家人、その家族や使用人、それに旗本の数は公表しない)。享保年間からは6年ごとに町民人口を集計するようになり、江戸の町人人口は55~57万でピーク、末期、大政奉還のあった1867年には53万人に若干減少。推測武家人口は町民と同じくらいだったので、それを加えると、江戸人口は110~140万。この時代で世界で100万都市は江戸だけ。二番目はロンドンで63万人。都市とは呼べない小集落が1世紀後に100万都市になる、もちろん自然増加ではない。全国各地からの移住や奉公、出稼ぎで流入する人たちによる。よそ者が多かったということ。よそ者は30%近く。その上に出稼ぎは年間を通して3万人、冬期は5万人(町人の1割)に達していた。

武州豊嶋群江戸庄図(1633) 西を上。右上部にある城が江戸城。右下隅のあたりが浅草。江戸図としては最古と言われている江戸は、最初の都市計画のときに、武家地と町人地と寺社地の区域が決められた。

江戸の用途区分

 

町人地は最初の開発地の日本橋から始まって、北は神田から芝あたりまでが繁盛する(江戸古町:こちょう)。つぎに浅草、下谷、墨田川対岸の本所、深川…。200年にわたって拡大した。下町といわれる地域だね。

でも、土地利用からいえば、幕末期の江戸は武家地が1170万坪(全体の70%)、町人地と寺社地がそれぞれ270万坪で15%ずつ。(明治2年調査)

江戸の総人口は120万人。町人は58万人で、町人は狭い地域にごちゃっと住んでいた。人口密度にして1㎢に約4万人。現在の東京区部が人口973万人、人口密度1.5万人(2020年)だから、どれだけ超過密だったか。せいぜい2階建てだったんだし…。

 

江戸庶民の住まい

●  ベルリン国立アジア美術館「熈代勝覧(きだいしょうらん) 江戸日本橋の大通りのにぎわい。立派な大店の前の路上には簡単な台を置いた店(仮店・かりだな)や屋台店がある。大店の路地の奥は裏長屋。(1.4倍の複製画絵巻物は地下鉄三越前駅コンコースで鑑賞できる

●表長屋と裏長屋

 

整然と並ぶ町は、通りに面した四方が商家や職人の店舗で、その内側の路地を入ると小商人(こあきんど)の店舗兼住宅の「表長屋」。それの路地を入ると「裏長屋」。江戸に流入してきた貧農、職人や日雇い人夫、最下層の武士、浪人などが暮らしていた。

 

裏長屋

この割長屋のワンルーム物件、間口2.7m、奥行3.6m。水道(井戸)、トイレは共同。風呂は銭湯 家賃3600円

●洗面台 コンロつき

江戸庶民の7割は裏長屋と呼ばれる4畳半一間か、6畳一間で、家族でもこの広さ。4畳半一間(9尺2間)で月300文(1文=12円で換算すると3600円)、めちゃ安いね。長屋の住人の高収入クラスの大工の一日の日当が500文~600文だから、日銭で1か月の家賃が払える。

 

●井戸は上水道 洗濯、水浴びはここで行う。水道代(墨田川より西部は長屋の井戸は神田上水からの上水道)もタダ。

 

江戸時代の町人にとって税金は裕福な者だけが払うのは当たり前と考える。長屋住まいの庶民は無税。所得税も住民税もかからない。(もちろん消費税もない)。裕福なのは地主・家主で、社会事業マインドがある。その日暮らしの人でも住めるように粗末だけど月3000円くらいで住める長屋をつくり、大家という生活の面倒をみてくれる人を雇ってくれる。

 

町は自分たちで守る

町木戸と自身番 江戸市中では町と町は木戸で区切られて、木戸番小屋が治安維持のために設けられて夜間は閉鎖された。自身番は役所の出張窓口と消防詰所を兼ねたようなもの。屋根にハシゴと半鐘。

町内の木戸番・自身番の費用とか、井戸や道路の普請などの費用は幕府でなく、町人の自治組織で賄われた。経済、インフラ、交通、防犯、教育…、現在の国や自治体の仕事のほとんどは町人自らやっていた。幕府がやるのは刑罰くらい? 現在、貧乏人でも情け容赦ない税金を科せられて、政治家、公務員が仕事をせず、血税は政治家の裏金になっていても納税もしないありさまで、江戸時代のほうがよっぽどいいよ。

 

江戸幕府職制 これは今の「霞が関」

江戸の町政は町奉行と配下の与力・同心が支配するが、江戸の町を守るのは町人の自治組織。3人の町年寄(江戸開府以来の奈良屋・樽屋・喜多村の3家の世襲)と250人の町名主(地主・家持から選挙で選ばれた町の代表者)250人が治安維持だけでなく、産業振興、土地管理、町触(町令発布)、訴訟を行った。町年寄役所は日本橋本町にあった。

自治組織については次回に書くが、町人に自治組織があったから、江戸幕府のお膝元は平和が保たれ、町人は繫栄し、人口が増えていった。江戸初期には、女性の人口割合は男性の4分の1だったのが、だんだん増えていった。1867年には男性は女性の1.02倍。ほぼ同じになっている。

よく、江戸の女性の増加は「遊女が増えたため」と言われるが、性比の高さが遊女町の形成の動因となっても、遊女は子どもを産まないので、女性を継続的に増やすことは難しいし、江戸じゅう、吉原だらけなんてことはありえない。遊女は3000人程度で一定している。

女性が増えたのは、江戸に女性の仕事があって定住でき、その仕事がどんなにきつい賃労働であっても、「慈悲のごとき資本家的倫理と庶民大衆の寛容な倫理的連帯感」(高尾一彦「近世の庶民文化」)があり、井原西鶴のいう「世の仁義」、「物の道理」「天」「天命」「天理」がこれに当るという。庶民はわかりやすく、「人情」と言った。女性は人情ゆえに生きのびることができた。江戸には人として扱ってもらえる社会があった。

 

大家という存在

落語に「大家といえば親も同然、店子(たなこ:店は店舗ではなく借家のこと)といえば子も同然」というセリフがあります。現在のアパートの管理人(この存在も今では絶滅状態)とはちがうし、世話好きの御隠居さんでもない。自治組織には欠くことのできない存在。

長屋の人間関係

大家さんを雇っていたのは、地主、家持という町人身分。江戸時代の土地は基本的には幕府の所有物だったが、江戸の町人地だけは土地の所有が認められていて売買されていた。地主・家持は大店の経営者がほとんど。地主は主に表通りに家を建てて住み、裏長屋を建てて貸していた。地主は本業の商売だけでなく、町政治に関わり、家族や多くの従業員で手一杯。長屋の住人になにかあると商売の評判も悪くなるし、五人組の一人として、他の4軒にも迷惑がかかる。

そこで、代わりに徹底的に管理してくれる有能な代理人が、大家というわけ。大家は裏長屋近くに家を提供され、仕事の内訳は長屋管理業務だけでも、店子の身元調査と身元保証人、上下水道や井戸の保全、道路修復、建物管理。家賃集金、店子の生活指導、扶助。病人や怪我人の救済、冠婚葬祭に悩みごと相談。今なら、不動産業、公証人、弁護士などに依頼して自前でどうにかしなきゃならないものを、すべて大家さんが無料で世話を焼いてくれる。

これだけの業務をこなした収入だが、地主から給金(平均100万円前後)、家賃集金手数料(家賃の5%程度)、店子からは、訴訟や願書代筆の礼金(これが現在の賃貸手数料のはじまり)が入る。それに、裏長屋の共同便所からの下肥料(共同便所に溜まった糞尿を近隣農家が買ってくれる。ひと樽300円。年間で大工の2倍の年収)。で、月収はすごい。何やかやで250万くらいはあるだろうという高給取り。

 

下肥買い 江戸庶民の大量の糞尿はリサイクル。川柳「肥取りに しり(尻)が増えたと 大家言い」

地方の農民が生活の苦しさから、江戸に出てきても、大家さんがいれば、宗門人別帳に記載され、無宿人にはならない。口入屋(くちいれいや)という人材あっせん業、人材派遣業者がいるけど、人さらいや人買いやってる業者でやくざとつながってるのも多いから、だまされちゃだめだよ。就活も大家さんに頼ろう。

大家さんは、実務者でもあると同時に、人を見抜く眼力もあり、人格者。

江戸という知らない土地でも大家のアドバイスがあれば生きていける自信がつくだろう。大家さんは田舎者に偏見がなくてやさしいし、仕事のことも相談できる。

女性がどうしようもなくなった家のしがらみから地方から離れ、江戸に移住する。仕事はみつかるだろうか? その仕事は長続きするだろうか?努力すれば、思いはかなうだろうか?人に騙されないだろうか? 不安がいっぱい。生き馬の目を抜くと言われた江戸だったが、女一人で生きていくことは意外と気楽だったかも? だから江戸に女性が増えたんだろうね。

 

戦後の住宅政策は大まちがい

●上田篤「住宅すごろく」

江戸の家賃は法外に安い。粗末なワンルームとはいえ、土地持ちは長屋を建てて、安い賃料で住まわせる。その日暮らしでも失業しても、家に住めるような家賃設定。江戸は家賃を始め、ワーキングプアは許さない。

住宅政策は、江戸のほうが今より圧倒的に勝れていた。日本の戦後の住宅政策は「持ち家主義」。戦前の都市部では借家暮らしが一般的で、借家でも十分な質も量も足りていた。戦後の復興の住宅建設で、政府だけでは需要に追いつけず、民間資金や国民の家計を動員して住宅を増やしていった。住宅は住まいのセーフティネットであり、人権保障の基本であるという住宅政策の根幹が抜け落ち、経済が成長する時代で膨れ上がった中間所得層に向けた「持ち家政策」がとられた。これまで家を買う層でなかった人々まで、競って住宅ローンで家を買うようになり、住宅開発による住宅そのものの質や広さも充分でない「うさぎ小屋」と揶揄される住宅が乱造され、郊外の乱開発や環境破壊もおきた。政府は住宅建設を景気指標とし、その刺激となる政策に予算をつぎ込んだ。

人びとは、高度成長期に借家から持ち家へという住まいの「はしご」を登ることが人生のゴールになり、長期のローンをかかえて奴隷的な労働に甘んじた。給料が上がっているうちはいいが、現在のように、経済が落ち込んで実質賃金が低下しローン破綻になれば、持ち家のリスクは大きい。政府は国民の「住む権利」を放棄し、住まいを「金融化」し、住宅ローンまで「市場化」してきたが、住宅の困窮には目を向けない。住まいのはしごから外れた人々、単身者、低所得者、借家人に対する住宅政策はほとんどない。

公営賃貸住宅も全住宅の3.6%(先進各国は30%くらいはある)で、公営の入居応募は30倍から100倍の倍率で、圧倒的に不足。老朽化したら、住人を追い出して民間並み高家賃住宅として建て替えるか、民間デベロッパーに跡地を売る。公営住宅であっても、オリンピックやるときは、居住者は追い出す。

住宅価格の推移

生活実感賃金の推移

東京区部では、住宅はマンションでさえ、家族向けは1億円前後~。若い人々の平均年収は300~400万で、賃貸でも分譲でも住宅費が占める割合は半分を超す。東京の寒空の下、弁当支給のボランティア団体の列に並ぶホームレス(ネットカフェ利用者も広義のホームレス)の苦渋は、労働問題だけでなく、半分は住宅政策の問題。

 

欧州の「空き家不法占拠(スクウォット)」は「命を救うセーフティネット」

 

コロナの後、ドイツ、オランダ、フランスなどで、失業や収入低下にあえぐ人々が使われていない空き家住宅を占拠(スクウォット)することに対して、政府や自治体は強制排除せず黙認し、さらに合法化する動きがある。欧州では、不法占拠は「命を救う活動」で、セーフティネットだという認識が人々にある。

 

 

土地や住宅所有者の私権より「住む権利」が優先する。不法占拠がおきると、占拠者が自主管理し、建物や室内はきれいになり、バリアフリー化、交通の利便化が行われ、医療施設や食堂、子どもたちへの教育、保育所などもできる。土地や住宅所有者は資産価値が上がるので反対しない。たとえ裁判になろうと占拠者が負けることはない。住宅とは住むためのもので、儲けるためのものではない。日本では住宅価格や家賃があまりにも高く、住宅は今では富裕層の投資向けに供給されている。なんという違いか?

せめて、先進国では当たり前の住宅政策、例えば質のいい公営住宅、家賃補助、中古住宅活用の補助などをやれないものか?

人々はひと昔のように「マイホームに向かって一本道」という価値観はない。江戸のように、人生どのようなことがあっても、住まいはあり、家族はなくとも隣人はいるという住宅やまちづくりが必要だと思う。

 

●ベルリン国立東洋美術館 絵巻物「煕代照覧」 十軒店の雛市 

この図、一部を詳しく見てみよう。有名な雛祭りが行われている。雛人形を売っているのは路上のよしず張りの仮説店舗。十軒店(じっけんだな)といわれる表店(通りに面した店)が並ぶ。左からお茶漬け屋「あさひ」、薬種屋「藤木」、大福帳を商う「槌屋」、そばとうどんの「三河屋」、大黒屋、万屋、藤屋(京糸)。その他、路上では棒手振(ぼうてふり・天秤棒を担い行商する商人)の花屋が桃の花を売っている。

 

籠、荷車、身体障碍者の台車…も行き交い、武士も町民も農民らしき人も、女も男も子どもも往来している(概ね左側通行?)。平和で繁栄した江戸の風景。でも信号も歩道もなくてもよくぶつからないものだね。

江戸の町人、江戸一番の大店の三井越後屋という権力者から、着物の裾を尻からげしている棒手振りの商人まで、社会が繁栄してした陰には、商人の力が大きい。

江戸時代の土地を媒介とする武士と農民の封建支配関係からすれば、商人の貨幣や商品を媒介とする契約関係は、対等・平等な社会システム。封建社会では異端であるともいえるが、近代的。幕藩体制の解体を予見させる。

武士は商人から法人税を取らなかった。「御用金」とかいって税を取ることは可能だったのに、商人の経済的権力は強く、取れなかった。「御用金」は商人から借りて、幕府は財政難になった。

農民が農村という収奪の支配関係から逃れて、江戸で手振りでも商人として経営者になる。

これは一種の近代化。女性が江戸で職業を選択して働いたのは、男性より先に近代化をやってたわけだ。

ちょっとそんな意識をもって、江戸の女性の仕事をみていきたい。(koki)

 

 

 

 

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