高市氏、アメリカの新聞に「ただの無給インターンだった」と報じられ、自身も著書で認めていた!
高市氏の経歴詐称問題。最初は「米連邦立法調査官」だった、と「露骨な」ウソを平然と語っていました。
そのウソがバレると、「私の名誉にかかわります。私が米国連邦議会のコングレッショナル・フェローであったことは事実でございます。文書もございます」などと言い換え、トーンダウン。
しかし、最近になって「Westword」や「The New York Times」などの米国紙で、「ただの無給インターン(お茶くみ、電話番)」だったことをバラされてしまいました。
「Westword」紙の記事
今日、高市早苗は日本で最も強い影響力を持つ人物だ。超保守派の政治家であり、日本史上初の女性首相に選出された。10月下旬のアジア訪問では"ドナルド・トランプ"大統領と意気投合し、さらに自身の率いる連立政権を歴史的勝利へと導いた。
しかし、"キップ・シェルーツ"(元パット・シュローダー事務所スタッフ)の記憶にある彼女は、デンバーの彼のオフィスで働いていた、聡明で社交的なインターンだ。速い車とアメリカのピーナッツバターが大好きで、上司だった民主党所属の米国下院議員"パット・シュローダー"(アメリカ合衆国下院議員)から多くを学びたいと熱心に考えていた女性だった。
1987年、当時26歳だった高市は、シュローダー議員が大統領選への不出馬を"シビック・センター・パーク"(デンバー, コロラド州)で涙ながらに表明した演説に心を動かされ、議員に連絡を取ったと報じられている。高市は「いつかもう一度挑戦してください」とシュローダーを励まし、その後、シュローダーは彼女を連邦議会のインターンとして採用した。高市はその仕事のためにワシントンD.C.へ赴き、その後、シュローダーの地元選挙区事務所で働くためデンバーへ移ったと、シェルーツは振り返る。
「早苗は親しみやすく、好奇心旺盛で、学ぶ意欲にあふれていました」と語るのは、18年間シュローダーのもとで働き、当時は広報部長を務めていたシェルーツだ。「デンバーという現場で、力強い女性政治家がどのように活動しているのかを学びたいという思いが、彼女にははっきりとありました。」
「The New York Times」の記事(全文)
高市早苗氏は打ちひしがれていた。1980年代後半、現在の日本の首相である高市氏は、コロラド州選出の民主党下院議員であり、先駆的な女性政治家だったパトリシア・シュローダー氏のもとでインターンをするため、ワシントンへ移り住んだばかりだった。
当時26歳だった高市氏は、テレビで見たフェミニズムの象徴的存在であるシュローダー氏のもとで働くという夢をかなえるため、恋人と別れ、両親とも衝突した。しかしワシントンでの生活は波乱の幕開けとなった。アパートでは平らにした段ボール箱の上で眠り、当時アメリカ最大の経済的ライバルだった日本の出身であることから疎外感を味わった。
彼女は後にこう記している。
「私は誰にも恥ずべきことをしていないのに、日本社会からもアメリカ人の同僚からも疎外されました。遠い異国の地で、本当にひとりぼっちでした。」
それでも高市氏は努力を続け、昨年、日本初の女性首相に選出された。木曜日にはトランプ大統領との重要な会談のためワシントンを訪れる。高市氏にとって今回の訪問は、一種の「帰郷」とも言える。1988年にシュローダー議員事務所で過ごした9か月間で、政治家としての自分の声を見いだしたからだ。これは、高市氏の関係者5人への取材と本人の著作の分析から明らかになった。
厳しいスタートにもかかわらず、高市氏は献身的な補佐役となった。電話応対、地元有権者への手紙の作成、法案作成の補助などをこなし、英語力向上のため新聞も読み続けた。折り鶴、日本のお菓子、教育や国防に関するメモが並ぶ彼女の机は、アメリカの政治権力を間近で見られる特等席だった。
シュローダー氏の元広報部長キップ・チェルーツ氏はこう語る。
「彼女はスポンジのように、政治家がどう振る舞い、どう対応するのかを吸収していました。議員はどう話すのか、誰と握手するのか、どのドアをたたくのか――そうしたことを知りたがっていました。」
高市氏は、この経験によって女性でも政治の頂点に立てることを実感し、自身の政治家人生を志すようになったと語っている。2023年に亡くなったシュローダー氏の写真は長年、英国元首相マーガレット・サッチャー氏の肖像画と並んで、高市氏の執務室に飾られていた。
日本の主要与党を率いる高市氏は現在、筋金入りの保守政治家として知られる。しかしシュローダー氏の下では、女性の医療へのアクセス拡充や性差別撤廃など、進歩的な政策の推進にも携わっていた。
同僚たちは、当時の彼女の個人的な政治信条をうかがわせるものは何もなかったと振り返る。
シュローダー氏の元補佐官バート・ラムロウ氏は語る。
「彼女がどんな政治的傾向を持っているのか、私たちには分かりませんでした。自信があり、自分を過信することなく、あらゆる立場から問題を学ぼうとしていました。」
高市氏が初めてシュローダー氏を知ったのは1987年、日本の若手指導者育成機関で学んでいた時だった。シュローダー氏の大統領選出馬を報じるニュースを目にしたのである。
高市氏は1992年の回想録でこう振り返っている。
「私はテレビにくぎ付けになりました。なんておしゃれで、セクシーで、魅力的な女性なのだろうと思いました。首元の鮮やかなスカーフ、上品なイヤリング、そして輝く笑顔が脳裏に焼き付きました。軍事問題についても威厳と力強さをもって演説していました。」
数か月後、シュローダー氏が選挙戦から撤退すると、高市氏は「今でもあなたを尊敬しています」と書いた電報を送り、協力を申し出た。シュローダー氏は返事を送り、高市氏をワシントンへ招いた。
高市氏は、日本の研究機関から支給される月約1,200ドルの奨学金で苦しい生活を送り、住んでいた建物の管理人から使い古しの毛布を借りていた。また、この頃にスキッピーのピーナッツバターを好むようになった。
当時の連邦議会では、日本がアメリカを追い越すのではないかとの懸念が広がっており、高市氏はシュローダー氏を「ジャパン・バッシング運動の中心人物」と表現している。同僚の中には、高市氏を「敵国」のスパイであるかのように扱う者もいたという。しかし彼女は、朝7時から夜11時まで働く日もあるほどの仕事ぶりで信頼を勝ち取っていった。
高市氏は著書の中で、低賃金にもかかわらず献身的に働くスタッフたち(「ある種のアメリカ人は日本人以上に『働きバチ』だ」)、毎日何百通もの有権者からの手紙に返事を書くために費やされる長時間労働(「アメリカ民主主義の原点を見た気がした」)、そして公務員の質素な生活(シュローダー氏が肉やバターのクーポンを切り抜いている姿を目撃したことなど)に感銘を受けたと記している。
コロラド州への訪問では、集会や戸別訪問で見せるシュローダー氏の精力的な選挙活動を学んだ。シュローダー氏は高市氏に対し、女性にも男性にも迎合せず、自分らしくあるよう助言した。
高市氏によれば、シュローダー氏はこう語った。
「みんなに好かれるために誰にでも迎合しなければならないのなら、私は政治家を辞めます。」
高市氏は日本へ帰国後、ワシントンでの経験について各地で語り、アメリカの民主主義と日本の密室政治や縁故主義を対比した。また、日本もいずれ薬物問題や移民問題など、アメリカと同じ課題に直面するだろうと警鐘を鳴らした。
1993年に日本の国会議員に初当選した後、高市氏は元同僚たちに手紙を送り、そこにはイラストの落書きやサイン入り写真、自著などを同封した。
1995年にチェルーツ氏へ送った手紙では、自らの成功について振り返り、「ワシントンでの経験が、今の私をつくりました」と記している。
そもそも高市氏自身が「アズ・ア・タックスペイヤー」という著書で「無給のインターン」だったことを認めていた!
自分でインターンだと書いてるんですね。 https://t.co/lCfz9cVsFY
— 渡辺輝人 🇺🇦連帯 (@nabeteru1Q78) June 27, 2026
高市氏、経歴詐称だけでなく、「秘書も私も(中傷動画拡散の松井氏と)面識ありません。秘書を信じます」などとあちこちでウソをつき過ぎて、どこでどういうウソを言ったか、自分でもわけがわからなくなってしまったんでしょうね。
人間は肩書じゃありません。「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」、ウソはいつかバレます。
ウソの肩書で、無理して自分を大きく見せようとすることの虚しさに、いいかげん気がついて欲しいですね。
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