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兄がいつも使っていた部屋の中央で、しばらくの間佇み、そして決意したように彼女は目的の物を探し始める。本棚、机の上、窓辺、洋服ダンス。見つからない。悲しそうに唇を歪めた彼女がベッドに腰掛けると、枕元にそれはあった。自分たちがもっとずっと幼かった頃に、両親が兄妹揃いで買ってくれたペンダントだ。鎖に通された指輪に、小さな星が二つぶら下がっている。マナは肌身離さずつけていたのだが、兄は違った。彼は寝る時にしかペンダントをつけなかった。妹が一度その理由を訊ねると、彼は言った。
「とっておきの物は、とっておきの時にしか使わないんだよ」
今、その記憶が彼女の脳裏に蘇り、胸を錐(きり)で突き刺すような痛みを促した。マナはペンダントを右手に持ち、階下へ向かった。霧雨が、廊下の窓を細かい粒で覆っている。鉛色の重苦しい雲が広がり、地上の光を吸収し、分厚く成長していた。風が泣いている。生温い、粘着質な風だ。
マナは居間を抜け、そのまま外へ出た。傘も持たず、雨に濡れるのも気にせずに。
家の前は石畳の広場になっており、中央には相変わらず時の止まった噴水があった。他の子供たちの気配は全くない。だが彼女にとってはどうでもよいことだった。つかの間の平和は過ぎ去ったのだ。何が起ころうと不思議ではない。
噴水の端に腰掛けたマナの髪に、無数の雨粒が降り掛かり、濃い茶色に変わった。
ペンダントを握りしめる。兄と、両親。その不透明な記憶。
(あたしたち、どうすればよかったのかしら)
マナの心に、やりきれない後悔の念がわき起こった。
(もっと穏やかに暮らせなかったのかしら。もっと優しく、許し合って………)
突然、彼女は言い知れぬほどの焦燥の予感を覚え、顔を上げた。痺れるような感覚が胸を中心に、全身へと駆け巡った。
遠くの空に黒煙が上がる。霧雨の存在など、物ともせず。
マナは、街に子供の気配がない理由に思い至った。そして周囲に大人たちの死体がないことにも。
(焼いてるんだ!)
そして彼女は皆が例の遊戯に飽き、生きる目的を失いつつあることに気がついた。(大人たちを、みんな焼くなんて………)
古い世界を生きた大人たちの死体がなくなってしまえば、子供たちは二度と後戻りは出来ない。彼らにそれだけの覚悟はあるのだろうか?
(だめよ、だめ。みんな、やめて………)
マナは両手でペンダントを握りしめ、祈り始めた。
(何を祈ればいいの?)
しかし彼女にはわかっていた。この世界が、幻想に覆われたまやかしの世界が、子供たちの無邪気なエゴで創られた遊戯の舞台が現れてから、彼女はずっとこうすべきだと知っていた。
マナは祈った。
大人たちが生き返ってくれるよう、自らの命をあげて祈った。
(死体がなくなってはだめ。彼らは生き返るわ。そしてまたあたしたちと一緒に暮らすの。やり直せるわ。いつだって、平和はそうやって手に入れるんだもの………)
彼女の手のひらが、ちりちりとした熱を帯びた。全身にかかる重力が強くなったようだった。皮膚がざわつく。魂が、頭のてっぺんから浮遊していくような錯覚に襲われた。
(生き返って………)
マナは祈り続けた。つむった瞼の裏に、最後に見た兄の顔が浮かんだ。知らずに涙が流れ落ちてくる。
どのくらいの間そうしていたのだろう。
マナが目を開けると、幾度目かの夜が訪れていた。
変わらず、人の気配はない。
体を回して辺りを見渡してみると、彼女が座っている反対側に、いつか彼らが創った作品が、月明かりを受けて優雅に佇んでいた。雨は止んでいた。足音が、星屑の落下音のように空虚な街に響いた。
死体の顔面に埋め込まれた無数の宝石が、彼女に問いかけるようにちらちらと銀色の光を揺らした。
マナは、彼の足に触れた。
温もりがあった。
マナは黙って彼女を見上げた。周囲の世界が朦朧とし、輪郭を失っていくようだった。
(息をしてる………)マナはペンダントを握る手に力を込めた。(指が動いてる。血が、流れてる………)
その時、不気味な咆哮が夜空と、マナの心を引き裂いた。
苦痛と恐怖に満ちた、獣の声にも似ている。
彼女の口が、大きく開いた。
マナが、自分の祈りは叶えられたのだと気がつくと同時に、皮膚に宝石を埋め込まれた人間は、木箱で作られた台から下り、マナの前で四つん這いになって二度目の咆哮を始めていた。その姿は哀しかった。痛みのためだろうか、何かに耐えているのか、目の前の生き物は地面に爪を立て、割れたそれらの間から血を流している。
太い糸で荒く縫われた頭からは、怪奇的な美を放つ、黄土色の花が見えた。彼は咆哮を続ける。月夜が無音の返答で、彼の存在を承認していた。
マナは、悲劇の結末を目の当たりにし、悲しみの拍子を胸に刻み込まれているようだった。
三度目の咆哮。
マナは動いた。
四つん這いになっている彼の首に手をかけ、とめどなく溢れる涙の背後から、愛と後悔の念に満ちた声をかけた。
「ごめんなさい………」
そしてペンダントを首に掛けると、赤い涙で真っ赤になった彼女の頬に、自分の頬を重ねた。
「ごめんなさい………」
彼女の叫びは途切れることはない。
しかしマナは、彼女が口をつぐんでくれることを望んでいるわけではない。
ただ彼女に感じて欲しかったのだ。自分の温もりを。
街中で、悲鳴や泣き声、叫び声が上がる。
再び新たな世界が訪れた。
マナは、平和を願った。
心の中で兄の名を呼び、目をつむる。
瞼の裏の暗闇に、小さな希望の光が見えたような気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
だが彼女の胸は、奇妙な平安で溢れていた。
とうとう朝が来るのだ。
待ち望んでいた朝が。
(了)
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「とっておきの物は、とっておきの時にしか使わないんだよ」
今、その記憶が彼女の脳裏に蘇り、胸を錐(きり)で突き刺すような痛みを促した。マナはペンダントを右手に持ち、階下へ向かった。霧雨が、廊下の窓を細かい粒で覆っている。鉛色の重苦しい雲が広がり、地上の光を吸収し、分厚く成長していた。風が泣いている。生温い、粘着質な風だ。
マナは居間を抜け、そのまま外へ出た。傘も持たず、雨に濡れるのも気にせずに。
家の前は石畳の広場になっており、中央には相変わらず時の止まった噴水があった。他の子供たちの気配は全くない。だが彼女にとってはどうでもよいことだった。つかの間の平和は過ぎ去ったのだ。何が起ころうと不思議ではない。
噴水の端に腰掛けたマナの髪に、無数の雨粒が降り掛かり、濃い茶色に変わった。
ペンダントを握りしめる。兄と、両親。その不透明な記憶。
(あたしたち、どうすればよかったのかしら)
マナの心に、やりきれない後悔の念がわき起こった。
(もっと穏やかに暮らせなかったのかしら。もっと優しく、許し合って………)
突然、彼女は言い知れぬほどの焦燥の予感を覚え、顔を上げた。痺れるような感覚が胸を中心に、全身へと駆け巡った。
遠くの空に黒煙が上がる。霧雨の存在など、物ともせず。
マナは、街に子供の気配がない理由に思い至った。そして周囲に大人たちの死体がないことにも。
(焼いてるんだ!)
そして彼女は皆が例の遊戯に飽き、生きる目的を失いつつあることに気がついた。(大人たちを、みんな焼くなんて………)
古い世界を生きた大人たちの死体がなくなってしまえば、子供たちは二度と後戻りは出来ない。彼らにそれだけの覚悟はあるのだろうか?
(だめよ、だめ。みんな、やめて………)
マナは両手でペンダントを握りしめ、祈り始めた。
(何を祈ればいいの?)
しかし彼女にはわかっていた。この世界が、幻想に覆われたまやかしの世界が、子供たちの無邪気なエゴで創られた遊戯の舞台が現れてから、彼女はずっとこうすべきだと知っていた。
マナは祈った。
大人たちが生き返ってくれるよう、自らの命をあげて祈った。
(死体がなくなってはだめ。彼らは生き返るわ。そしてまたあたしたちと一緒に暮らすの。やり直せるわ。いつだって、平和はそうやって手に入れるんだもの………)
彼女の手のひらが、ちりちりとした熱を帯びた。全身にかかる重力が強くなったようだった。皮膚がざわつく。魂が、頭のてっぺんから浮遊していくような錯覚に襲われた。
(生き返って………)
マナは祈り続けた。つむった瞼の裏に、最後に見た兄の顔が浮かんだ。知らずに涙が流れ落ちてくる。
どのくらいの間そうしていたのだろう。
マナが目を開けると、幾度目かの夜が訪れていた。
変わらず、人の気配はない。
体を回して辺りを見渡してみると、彼女が座っている反対側に、いつか彼らが創った作品が、月明かりを受けて優雅に佇んでいた。雨は止んでいた。足音が、星屑の落下音のように空虚な街に響いた。
死体の顔面に埋め込まれた無数の宝石が、彼女に問いかけるようにちらちらと銀色の光を揺らした。
マナは、彼の足に触れた。
温もりがあった。
マナは黙って彼女を見上げた。周囲の世界が朦朧とし、輪郭を失っていくようだった。
(息をしてる………)マナはペンダントを握る手に力を込めた。(指が動いてる。血が、流れてる………)
その時、不気味な咆哮が夜空と、マナの心を引き裂いた。
苦痛と恐怖に満ちた、獣の声にも似ている。
彼女の口が、大きく開いた。
マナが、自分の祈りは叶えられたのだと気がつくと同時に、皮膚に宝石を埋め込まれた人間は、木箱で作られた台から下り、マナの前で四つん這いになって二度目の咆哮を始めていた。その姿は哀しかった。痛みのためだろうか、何かに耐えているのか、目の前の生き物は地面に爪を立て、割れたそれらの間から血を流している。
太い糸で荒く縫われた頭からは、怪奇的な美を放つ、黄土色の花が見えた。彼は咆哮を続ける。月夜が無音の返答で、彼の存在を承認していた。
マナは、悲劇の結末を目の当たりにし、悲しみの拍子を胸に刻み込まれているようだった。
三度目の咆哮。
マナは動いた。
四つん這いになっている彼の首に手をかけ、とめどなく溢れる涙の背後から、愛と後悔の念に満ちた声をかけた。
「ごめんなさい………」
そしてペンダントを首に掛けると、赤い涙で真っ赤になった彼女の頬に、自分の頬を重ねた。
「ごめんなさい………」
彼女の叫びは途切れることはない。
しかしマナは、彼女が口をつぐんでくれることを望んでいるわけではない。
ただ彼女に感じて欲しかったのだ。自分の温もりを。
街中で、悲鳴や泣き声、叫び声が上がる。
再び新たな世界が訪れた。
マナは、平和を願った。
心の中で兄の名を呼び、目をつむる。
瞼の裏の暗闇に、小さな希望の光が見えたような気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
だが彼女の胸は、奇妙な平安で溢れていた。
とうとう朝が来るのだ。
待ち望んでいた朝が。
(了)
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兄が呼んでいた。
マナは目を開いた。
変わらずの暗闇。しかし、彼女の心には変化があった。
マナは羽目板をずらし、部屋を見回した。誰もいない。射し込む陽光の具合から、時刻は早朝とわかる。
彼女は羽目板に手をかけてぶら下がり、手を離してベッドに下りた。途端に、部屋に充満した血の匂いに、マナの目の前は一瞬揺らいだ。薄緑色のカーペットには乾燥した血が、世界地図のようにも見える形でえび茶色にこびりついていた。それが誰の血かということはあえて考えず、彼女は部屋を出た。階下にも死体はなかった。リンタの断末魔が脳裏に蘇ったので、彼女は一度目をつむり、それらの記憶に蓋をしてから、死の匂いが支配する家を後にした。
早朝の空は白く霞んでいて、和毛(にこげ)のような光をふわふわと空に漂わせている。
朝日の道が眼前に敷かれ、マナはただ機械的に足を運んだ。
大人が死ぬことによって得られた静寂。
今ではそれは、彼女を狂わせんばかりに消耗させる。
数体の死体を越え、時を忘れて歩き続けると、そこはもう自分が住んでいた街だった。
兄の名を呼んだ。
誰もいない。
街に住んでいたであろう友人たちの名を呼んだ。
誰もいない。
マナは一人残され、水の止まった噴水の前に膝を抱えて座り、顔を埋(うず)めて泣いた。
どうしようもなかったのだ。ほかに何が出来よう。
マナの涙はとめどなく、熱を帯びて溢れ出した。
迸(ほとばし)る嗚咽は彼女の息を詰まらせた。それでも彼女は泣き続けた。
日が暮れ、夜が訪れた。彼女はそのままの体勢で、いつの間にか眠りについた。
朝に迎えられ、再び悲嘆と絶望の日が始まると、彼女はようやく立ち上がった。
(つづく)
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マナは目を開いた。
変わらずの暗闇。しかし、彼女の心には変化があった。
マナは羽目板をずらし、部屋を見回した。誰もいない。射し込む陽光の具合から、時刻は早朝とわかる。
彼女は羽目板に手をかけてぶら下がり、手を離してベッドに下りた。途端に、部屋に充満した血の匂いに、マナの目の前は一瞬揺らいだ。薄緑色のカーペットには乾燥した血が、世界地図のようにも見える形でえび茶色にこびりついていた。それが誰の血かということはあえて考えず、彼女は部屋を出た。階下にも死体はなかった。リンタの断末魔が脳裏に蘇ったので、彼女は一度目をつむり、それらの記憶に蓋をしてから、死の匂いが支配する家を後にした。
早朝の空は白く霞んでいて、和毛(にこげ)のような光をふわふわと空に漂わせている。
朝日の道が眼前に敷かれ、マナはただ機械的に足を運んだ。
大人が死ぬことによって得られた静寂。
今ではそれは、彼女を狂わせんばかりに消耗させる。
数体の死体を越え、時を忘れて歩き続けると、そこはもう自分が住んでいた街だった。
兄の名を呼んだ。
誰もいない。
街に住んでいたであろう友人たちの名を呼んだ。
誰もいない。
マナは一人残され、水の止まった噴水の前に膝を抱えて座り、顔を埋(うず)めて泣いた。
どうしようもなかったのだ。ほかに何が出来よう。
マナの涙はとめどなく、熱を帯びて溢れ出した。
迸(ほとばし)る嗚咽は彼女の息を詰まらせた。それでも彼女は泣き続けた。
日が暮れ、夜が訪れた。彼女はそのままの体勢で、いつの間にか眠りについた。
朝に迎えられ、再び悲嘆と絶望の日が始まると、彼女はようやく立ち上がった。
(つづく)
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