『中世の旅』(N・オーラー)から〔19〕


○別れ・到着・帰郷


(1)旅人たちの祈り

 A.中世では誰もが様々な危険(飢えと渇き,炎暑と寒気,疲れ,病気,死)に脅かされていたのだが、旅人はその何倍もだった。だから、かなりの長旅を企てる人は死を覚悟した
 B.早手回しに作った遺書の中で「ミサを上げてもらう,讃美歌を歌ってもらう,乞食に食物を振る舞う,病人の面倒を見る,宿無しを泊めてやる,遠くの巡礼地へ巡礼を送る」こと、さらに「自らの魂の救済に役立ててもらうような行事の手筈」を整えた
 C.また出立前には「家を整頓する,,喧嘩別れした者を和解させる,非行に走りそうな者には『平和が一番』と諭す,留守中の代理人を決める,旅に必要な路銀・衣類・紹介状を揃える」のだった
 D.自分の手で出来ることをやり終えたら、今度は神&諸々の聖人に援助を乞うために「教会を訪れる,親類知己に道中の無事を祈ってもらう」のだった。権利者たちは「領内の修道院の祈りに身を委ねた」(代願)

【代願】
 E.人々は「代願を望み、祈る人間」と「代願する聖人」との大きな共同体に、自分が組み込まれていると感じた。これによって道中の孤独感・脅迫感を埋め合わせたのだ
〈例〉「修道士たちは旅立ちの前に、仲間の修道士・院長に祈ってもらう」「修道院内の人々は留守中の全ての修道士たちのことを日々忘れない」ように、とベネディクトは命じている

【自発的な祈りから形式化された祈祷へ】
 F.やがて定まった祈祷形式へと発展し、それは独自の随意ミサの中にも入ってきた。特別な願いを込めたこのミサは、旅人の守護聖人たち(東方の聖三王,ラファエル,トビアス,クリストフォルスなど)のために立てられた
 G.「旅人を肉体と魂の危険、特に盗賊・嵐・蛇・野獣・(海上では)海賊と時化、総じて狡猾な人間と悪魔から守りたまえ」という神への祈願には、旅の現実が映し出されていた


(2)別れ

 A.別れのために胸を引き裂かれた愛する人々の心情は、ニーベルンゲンの歌にも描かれている
 B.仏貴族ジョアンヴィルは聖王ルイのお供として十字軍に参加した(1248年)。「死を覚悟した病が治った時には十字軍に従軍する」という約束があったからだ
 C.ジョアンヴィルは別れにあたって、友人縁者を4日間の宴に招待した。5日目に彼は列席者に対して、加えた悪事の赦しを乞い償いをした。しかる後に彼は「贖罪者のシャツを身に付け、手には巡礼杖を持ち、裸足で」出立した
 D.諸聖人の墓では道中の保護を願った。彼の記録では、旅の途中常に祈りの場面が現れている


(3)挨拶と到着

 A.親しい人々は道中で(馬に乗った時も)熱い抱擁とキスで挨拶を交わし合った
 B.修道院内での挨拶はもっと冷静で、身分によって差を付けていた。「ノックして院内に入ることを願う、いかにも君主然としたお偉方には、門番は出迎えて祝福を乞わなければならない」「嘆願する乞食には、門番は『神に感謝あれ』と答えなければならない」。着いたばかりの客は「平和のキスと祈り」によって修道院特有の平和を義務づけられた

【高位の者の到着】
 C.一般に然るべき歓待を受けたい者(特に君主とその従者)は、ずっと前から訪問を知らせた。知らせを受けた側は「皇帝,王,教皇,司教,(時には)伯その他権力者,カリスマ的人物(例:クレルヴォーのベルナール)」が到着する時には、盛大な準備を整えた
 D.新来の客を「行列して出迎えた」が、どこまで遠くに出迎えるかは人によって差があった。その際には「客に贈り物を渡す,讃歌(聖者の名を唱えながらの頌歌〔ようか〕)で歓迎する,そして賑々しく出迎える」のだった
★この行列は後に「聖体行列」に受け継がれた。十字架を先頭にして蝋燭・乳香・聖遺物が、その後から聖職者・修道女・俗人が地位と名前に従って2人ずつ、という具合である
 E.行列を組んだその中ほどの一番いい場所で「王or皇帝とその妃が、天蓋の下で駒に跨がったり悠然と歩く」のだった。沿道の人々が「呼びかける,歌・応答歌を唄っている」ところを、賓客は祝祭気分あふれた鐘の音とともに、教会の儀式へと導かれた

【もてなし】
 F.「客の地位,彼がどれほど重んじられたか」について。それは「出迎え場所の遠近,客があてがわれた部屋・召使い・道具」を見れば明らかだった
〈例〉皇帝オットー3世は、以前の師ベルンワルトをローマから2マイル離れた場所まで出迎えた。師が故郷へ発つ時、皇帝は丸々2日の旅程の地まで随行し、その後も別れを告げた後には側近の中からお供をつけた
 G.地位の高い客には極上のものをあてがうことになっていたから「謙譲と控え目を義務づけられた模範的生活」を手本とする聖職者は、矛盾に陥った。しかし教会の上の方では、世俗の権力者に引けを取らない贅沢ぶりを擁護していた
〈例〉ヴェローナの司教ピエトロはザンクト・ガレン修道院を訪れたが、そこで差し出された聖福音集が安物と思えたこと(修道士たちはかなりいい物と考えていた)、ミサに並べられた聖杯にも納得できなかったこと(それはかなり上等な銀の聖杯だったが)、食事がお粗末だったこと(修道士たちには贅沢に見えた)に対して不満を漏らした。修道院側は「これが修道院内で一番上等のものです」と言って司教を納得させた


(4)旅人の帰郷

 A.旅立ちと同じような準備が整えられた。「誰々が無事帰る」の報せはすぐに広まった
 B.それが職人ならば「市門で仕事仲間が出迎える」、国王ならば「町から数マイル先で、高官と名門の人々が1人残らず出迎える」のだった。儀礼は「挨拶,教会での個人的な感謝の祈り,公的な感謝のミサ」によった
 C.ベネディクトは「修道士が帰ってきたならば、一切の過ちに関して、目で・耳で・無駄口で犯した全ての罪に赦しを乞う」ように定めた。生きて無事帰国した十字軍兵士は時には、教会に太っ腹の寄進(例:修道院の建立)をして感謝の念を表した


(5)旅人の死

 A.「疲労困憊の果てに,病死,溺死,斬殺,落雷,誤って犯罪者として処刑される」といった理由で命を落とす旅人は多かった
 B.巡礼たちは「道中過労で倒れた」としてもそれを不運とみなさずに、逆に「旅のきっかけっなった聖者が、彼らを天上の故郷へと導いてくれるだろう」と考えることもよくあった

【葬り方】
 C.旅先で死んだ旅人のために、各地に特別な墓地があった(例:ローマのピエトロ大聖堂の裏手にあるトイトニコ墓地〔8世紀~〕)
 D.亡くなった旅人は「普通は現地で埋葬された」。船上で死んだ者は「布に縫い込まれて海中に沈められた」。お偉方の屍はたいてい「相続人などによって、指定された場所へ運ばれた」
〈例〉オットー3世は厳かな葬列を成して、中部イタリアからアルプスを越えてアーヘンへ導かれ、その地のマリア大聖堂で最後の憩いの地を見つけた(1002年)。ただし、地中海沿岸諸国の炎熱と長い道中という悪条件に注意!

【テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の場合】
 E.彼は十字軍従軍のために、シュマルカルデンを発った(1227年6月24日:洗者ヨハネの祝日)。十字軍の軍隊は「アルプスを越え、イタリアの7月の猛暑の中で」平均して1日40kmという、記録的な速度で行軍した
 F.皇帝フリードリヒ2世と合流した後にパレスチナ向けの船に乗ろうとした矢先、ブリンディシで恐ろしい疫病が発生し、ルートヴィヒ4世は重病となった。死を覚悟し「エルサレム総大司教から聖体拝領・終油を授かって」死去した(9月11日)。しめやかな死者ミサの後、屍は堅い豪華な布にくるまれ、差し当たりオトランドに埋葬された。その後に忠実な臣下たちは、十字軍のために聖地ふ向かった
 G.ルートヴィヒの臣下は聖地からの帰途、主君の屍を再び墓から取り出した。屍は上流の士が故郷から離れて亡くなった際の定法通りに整えられていた
 H.屍は腑分けし、肉が骨と離れるまで長いことゆでた。その後に骨以外の軟らかな部分はその場に埋められ、心臓は折を見て教会内の特に高貴な場所に埋められた。ルートヴィヒの真っ白な遺骨は立派な匣に納められて、荷馬に運ばれ、夜は教会内で祈りをあげながら見守られた。朝になると、ミサをあげ捧げ物をしてから、一行はさらに故郷へと向かった
 I.ルートヴィヒの妻エリーザベトの伯父であるバムベルク司教は「葬列が彼の町を通る」との報せを聞いた。そこで司教・司祭・修道士・修道女が厳かな行列をして、葬列を迎えた。「祈りをあげ、弔歌を唄い、暗い鐘の音が響くなか、匣は大聖堂へと運ばれ」て、エリーザベトの目の前で開かれた
 J.この間に、ゴータ市の南西にある方伯家の修道院ラインハルトブルンに、たくさんの民衆が集まっていた。ここでも聖職者・修道士が厳かな行列をして、祈りを捧げ弔歌を唄いながら葬列を迎えた
 K.葬式は「貧者が肉体的幸福になるよう関心を持つことが、故人の魂の救済に配慮することになる」とする、大昔からのキリスト教のしきたりに則り「ミサ,祈り,夜の讃美歌,修道院への寄進,貧者への施し」が行われた。最後に未亡人・母・兄弟たちに見守られ、ルートヴィヒ4世は一族の墓地に埋葬された