『中世の旅』(N・オーラー)から〔8〕


○旅にとっての宗教・情報制度の意味


(1)宗教と旅

 A.教会は(特に婦人に対して)旅路で諸々の危険に遭わないよう警告する一方で、数百万の人々が外国へ行くことを奨励した。このように矛盾した姿勢を示しつつも、全体的には旅を肯定する面が勝っていた
 B.教会と旅との関連を示す例:
「ベネディクトは修道士たちに一所定住を求めたが、旅する修道士のことも考慮して『彼らをよそに派遣する時は必ず2人でやるように,修道院長はよそから来た修道士に紹介状を要求するように』と定めた」
「クリュニー修道院と法的に結びついた各地の修道院の僧たちは、クリュニー修道院長に修道誓願を立てなければならなかった」
「公会議・教会会議は何千もの人々を動員した。その最たるものは、コンスタンツとバーゼルの改革公会議だった」
「シトー派の修道院長には、大勢の従者を伴い武装した召使いに付き添われて、シトーの総会へ旅する者も少なくなかった」
「敬虔なキリスト教徒は聖地を訪れるのみならず、出来るだけ聖遺物を持ち帰ろうとした」
 C.教会は旅の辛苦を認めなかった。特に布教について「旅が辛い」と言わせなかったが、それは「司教を叙階する,教会を奉献する,信者に堅信礼を与える,教会会議に出席する,書物を手に入れる」などの旅もそうだった
 D.「司祭は自分用の携帯祭壇を作る」「司教は教会収入の1/3~1/4を、旅行者の扶養・貧者への援助のために準備することを義務付けられていた」ことからも分かるように、教会は常にキリスト教徒の旅行者に照準を合わせていた


(2)情報制度

★「使者:たいてい代理権を持たない下層出身者」「使節:往々にして貴族・聖職者・富裕な商人であり、委任者の名で契約を結ぶ権限すら与えられている」
 A.支配層(大小を問わず)は、敵方や同盟国の行動を正しく読んで無駄な出費を節約しようとしたから、できるだけ「完全で,正確で,当面の急を要する」情報に関心があった
 B.ところが「金をかけた使者が、長い旅をした後に情報をもたらす」「相手方の支配者がとっくに死んでいた」「使いを出した相手がこの間に失脚する」という、まずい事態もあり得た
 C.古代の諸帝国における情報伝達の制度は、ペルシア帝国の仕組みを起源とする。その後、ギリシア・ローマ・ビザンティン・イスラム・オスマンの権力者たちは、それを自国の状況にマッチさせて運用した。モンゴルとムガールでは、ペルシア帝国の伝統の上にずっと効率的な仕事をする「使者の役」制度を築いた
 D.西洋では国家が運営する使者の役は、ローマ帝国の没落とともに絶えた。やがて新たな使者制度が生まれた(10・11世紀~)が、古代の帝国とは異なり、世俗権力が複数に分散している状況下だった
〈例〉リムブルク修道院の封臣は皆、修道院長の命じた所へ毎日旅することを義務付けられていた(1035年)

【世俗権力以外による活用】
 E.クリュニー修道院は、同派の数多くの修道院との連絡を確保するために、独自の使者の役を作り出した(11世紀)
 F.大商会・大銀行はどこも、本店-支店間の連絡を確保するのに機能的な使者制度に頼った
 G.大都市にもそれは当てはまる。諸大学の学生にとって、規則的な送金のために家族との連絡は不可欠だった。そこで教師と学生は「大学独自の急使を組織し、そのために国王による保護&特権を得た」

【情報組織と教会】
 H.西洋の教会は次第に教皇庁へと集権化され、フランシスコ会・ドミニコ会(どちらも自ら集権システムに組み込まれた)が教皇庁の強力な管轄下に置かれた(中世盛期)。このことは、情報組織における教会の地位をますます重要なものとした
 I.教皇庁が使者組織を確立することで、ローマは中世キリスト教世界の情報都市となった。人々は多くのルートを使ってローマに情報を集め、それは手を加えられ狙いを定めてまた広められていった
 J.幅広い権限が次第に教皇庁に集中したので、ますます多くの聖職者・法律家が、職務上or個人的理由から否応なしにローマに向かって旅立った。それが更に情報の集中をもたらしたようだ
 K.大修道会はローマに館を持ったが、そこから伝道者(しばしば教皇と直接連絡を持っていた)が各地に派遣され、彼らの情報がまたローマの中枢に届いた
 L.古代からローマは巡礼者を惹きつけたが、巡礼に混じった伯・公・国王・修道院長・司教らの情報は、注意深く利用された
 M.逆に教皇庁は、司教たちを定期的にローマに来させたたけでなく、ローマから全権使節を各地の教会に派遣し「教皇の決定事項の伝達,俗人・聖職者・司教・国王たちの生活に関する情報提供」を行わせた。これら教皇特使は教皇の衣と象徴に飾られて登場した(例:馬の鞍はローマの慣習に則り、教皇の鞍のように緋色の敷物に覆われていた)。もちろん教皇自らも出馬し、教会改革(11世紀)以降には巡回しながら司牧職を務めたこともある(例:クレルモンの教会会議でのウルバヌス2世)


(3)駐在使節と、使者の経費について

 A.駐在使節はヴェネツィアから始まった。派遣された使節は「帰国後15日以内に、外国における彼らの活動・体験・観察を漏れなく報告する」ことを命じられていた(1288年の布告から)。それはつまり「赴任先とその途上で公式・非公式に探り出した一切」を意味していた
 B.ヴェネツィアでこうした改革が行われたことには伏線があった。それは「第4回十字軍に関係した列強の全権が、君主の印璽だけを押した白紙委任状を持ってヴェネツィアに参集した」(1201年)ことだった。その後この白紙委任状には、ヴェネツィア総督と交渉して取り決められた契約が書き記された

【経費の問題】
 C.独自に使者の職を維持するには金がかかった。「賄賂とその他雑費,馬・宿泊・道路・渡し船利用のための経費」は、給金として支払われた。雑費は「船主に渡して、何とか予定よりも早く、また時化の時期にも出帆する気にさせることで、旅のスピード化を図る」という使い方だった
 D.個人では支出を賄い切れない。諸都市・大学・国王にとっても支出は重くのしかかったので「専任の」使者職を維持する金が無いことも少なからずあった
〈例〉ヴェネツィアがローマへ特使を送った時(16世紀初頭)には「市の高官の1カ月分の給与」or「大人3人家族の年間のパン代に相当する金額」を要した
 E.経費の問題を解決するために、関係者は「同盟を結ぶ」or「臨時雇いの使いを探す」などの対策を講じた
 F.商人は商売敵よりも早く、ある船の沈没や無事帰港の報を知るかどうかで、利益を得たり失ったりする。そこで協力関係が設けられた
〈例〉フィレンツェ(1357年)では17の商社が“フィレンツェ商人の使い袋”と称する共同の使節団を設けた。やがて各地に似たような組織が続々と生まれた
 G.あらゆる旅人は、口頭or書面で知らせを届ける「臨時の使い」に適していた。それは「商人,御者,修道士,巡礼者,遍歴の歌い手,羊飼い」だった