『中世の旅』(N・オーラー)から〔4〕
○陸の旅
(1)中世初期の陸の往来
A.ローマ人たちの街道は、そもそも市民の通行のために建設されたのではない。さらに道の表面は濡れるとツルツルになるので「動物は足が滑りやすくなり、蹄鉄を打っていない蹄は傷みが早くなる」から、車や輓曳動物にも滴さなかった
B.国境の防備がいったん突破されると、侵入者たちは街道を通ってあっという間に帝国内部へ入ってくるという欠点があった。それゆえに古代末期には、帝国の辺境地域では「ローマ人街道をわざと破壊した」「石切場として利用した」「農場を街道から離して作り、農場間は新たに生まれた道路網によって互いに結んだ」のだった
C.中世初期の帝国では、聖俗の権力者と商人は道路建設には冷淡だった。しかしそのくせに、整備された交通網には関心を寄せた(それによって秩序・統治が維持でき、よい考えや商品も広まるから)
(2)諸々の障害を乗り越えて
A.一方で「戦士,伝道者,贅沢品を扱う遠方商人」は、人や乗用動物が通れる場所ならば狭い道をものともせず、外へ出掛けた。良い道の有無は論外で、とにかくある場所から別の場所へ行けるのならば、たいていの旅人には充分だった
〈例〉フルダ修道院長はロバに乗って、フルダ地方の道無き場所を通って行った(8世紀)。彼は毎晩木を切り倒し、それでロバを野獣から守る垣根を作らねばならなかった
B.歴史的な道路の消長は、河川のそれよりもずっと激しい。新しい関税が徴収されるようになって橋が架けられ、その前には重要な街道が再び耕地に戻っているのだった
〈例〉ハインリヒ獅子公はイザール河に架かる橋を、オーバーフェーリングから5km河上のミュンヘンへ無理やり移し(1158年)、以後のミュンヘン発展の重要な礎を築いた
C.小川を渡る歩行者のためには、せいぜい角材を1本渡すだけだった。無い時には川の瀬を渡るように、小川を歩いて渡った。水が通行人の頭上まで達するケースもあったから、向こう岸へ張った綱を一時凌ぎにせよ掴めるのなら御の字だった。小川でも、洪水時には手の付けられない障害と化した
D.橋の建設・維持にはそもそも金がかかった。渡し船を設けるのは、(本来は貪欲な)渡し守とその家族がこの仕事で暮らしを立てていける時にしか意味が無かった。もちろん渡し守がごく無欲で、自分の財産で食ってゆける場合もあった
【道路の状況】
E.“街道”と呼ばれる道でも、道幅はせいぜい5~6m(2台の馬車かすれ違えるほど)はなかったと考えられる。いざという時のための道路の維持は、一部の例外を除けば中部ヨーロッパではずっと後まで行われなかった(18世紀末・19世紀初~)
F.それまでは道路の穴ぼこは、土くれ・柴で応急的に埋められていた。これでも石を敷いたローマ人街道に比べて「霜にも平気だったので維持しやすい」「蹄鉄を打った輓曳動物や乗用動物のいい足掛かりとなる」という利点があった
G.岩石に亀裂が走り、水がそこから流れ込んで沼地となった谷底には「洪水時にはいつも橋・堤が危険に曝される」恐れがあるので、たいていは道路を通さない。加えて人々は悪い空気を恐れたから、なるべく溜まり水には手を出さなかった(もちろん、蚊がマラリアを伝染させることは知らなかった)。こうして道路は「谷底の上方,山脈の麓」に建設された
〈例〉黒森・ヴォージュ山脈・アペニン山脈の麓,かつてカール大帝に利用された“塩の道”(※北ドイツの“塩の道”とは別)
H.“塩の道”は、沼地となったリッペ河峡谷の遥か上方、ハール丘陵地帯の麓にあった。この後に続いているのが、フランク人による征服時代に遡る“軍道”(ヘルヴェーク)にあった兵站地で、せいぜい1日の旅程の間隔で設置されていた。ここでは「旅する王と彼の全権代表たち(9世紀),後には一般の旅人」が全て、「シュテーレ,ボフム,ドルトムント,ヴィッケーデ,ヴェルル,ゾースト,エアヴィッテ」などで、宿・作業場・食料品の貯え(特に自分と馬用の飲料水)を手に入れられた
(3)中世盛期 ~交通の活発化と道~
A.ようやく、聖俗の権力者による道路建設の記事が文献に登場するようになり、以後増加していく(1000年~)。道路を作り橋を架けた人は、時には列聖されることさえあった
B.「多くの教会の新築・増築用,宮殿や橋梁の建設用の石」のような、重く割れやすい品物を運ぶ道は「均され」ねばならなかった(1000頃年~)。馬車・車からの荷下ろしや道路の保護のために、石切場ではかなり早くから石が切り出された。さらに、仕事中に発生した砂利を利用して道の穴ぼこを埋めた
C.この頃に、状況の改善が幾つも重なった結果として「交通の革命」が起こった。それは「農場でお払い箱になった乗用動物,輓曳動物」「より適切な馬具・蹄鉄,より良い車」「わりと拡張された道路,増えてきた橋」を、旅人が自由に使えるようになったことだった
D.農業生産性の向上によって食料がより安く生産されるようになり、さらに「僅かなエネルギーで,用具を消耗することなく」食料を発展する都市へ搬入できるようになり、多くの人々は以前よりましな食物を口にできた
【徒歩で旅しない人々】
E.車で旅するのは「男らしくない」と思われた。その理由には(様々な改善があったにもかかわらず)「車は依然として乗り心地が悪い」こともあったと思われる。車に乗って旅したのは「女性,老人,病者,囚われの犯罪者のようにどうしようもなかった男」であった
F.聖俗のお偉方は堂々と馬に乗った。そうした方々が病人・老人・目立ちたがりの時には、駕籠で運んでもらった。豪華絢爛な駕籠での登場は、人々を唖然とさせたという(12世紀中頃のエピソードから)
(4)旅立ちの準備
A.旅人の社会的身分が高くなればなるほど、準備に要する時間は長くなり、また入念に行われた。王・教皇ともなれば、概して旅のルートは早くから周到に練られたが、それは「行く先で援助を出させる,内外の人々にどこで連絡が取れるかを知らせる」ためだった
【装備と所持品】
B.手荷物はなるべく少ない方がよい(特に徒歩の旅人にとって)。マルコ・ポーロによれば「馬に乗ったタタール人は、飲料水の革袋2つ・肉料理用の鍋1つ・雨除けの小天幕1つを携行した」らしい
C.しかし大部分の旅人にとって、天幕は重すぎた。彼らは泊まれそうな納屋でも見つからなければ「風雨除けの場所を探して、そこで外套にくるまって寝る」のだった
D.巡礼者たちの外見・所持品は「長い外套(夜に毛布代わりとなる)をまとう」「つば広の帽子:陽光から顔を守る,雨が首筋に入らないようにする」「手に持つ杖:川を歩いて渡る時や山中で身を支える,襲い掛かる獣から身を守るために使う」「長靴とかなり堅い靴,証明書や他の書類を忍ばせた袋,何枚かの貨幣(時には相当な大金のケースもあった),食料の貯え少々,卓上ナイフ,(もしかすると)皮の盃,火打ち石(道中網で捕らえた魚を焼くため),水筒(※下記)」 だった
E.知人・縁者への紹介状は、多くの手荷物の代わりになり得た。それによって「タダで飲食できる,宿に泊まれる,渡し船に乗れる」とすれば、まさに旅人がよく夢見るるグリム童話の『魔法の食卓』のように貴重だった。そのような書き付けは、有効性に対して追い剥ぎは見向きもしなかったので、現金・貴重品の代わりとなる
【飲料水】
F.規則的な降雨と長く延びた森のおかげで、中欧では旅人たちは容易く渇きをいやすことができた。人々は「城を包囲された時,十字軍に加わった時,中欧から出た時」には、喉の渇きに苦しめられた
G.1人旅の人はたいてい「くり抜き瓢箪,獣の膀胱,石の壺,ガラス瓶」に水を入れて携帯した。特に南緯地方での団体の飲料水運搬用には、軽くて割れない容器として革袋が便利だった
H.たとえ中欧でも、飲料水がどこで手に入るかを見極める必要があった。『ザンクト・ガレン修道院史』によれば、修道士たちが対ハンガリー人用の砦を築いた際に、“以前一帯にいぐさが生い茂っていた所をかなり深く掘り下げて”極上の澄んだ水を手に入れたという
I.ベーダの『イギリス教会史』(8世紀)によれば、エドウィン王は路傍の泉につるべを取り付けて、旅人に役立たせた
J.船の場合には、飲料水の補給のために規則的に陸に向かうことが必要だった
【食料】
K.炭水化物・動物性タンパク質・脂肪をとれるパンとチーズが人気だった(元気のいい仕立て屋の小僧も、道中食にチーズをポケットへ突っ込んだ)。木の実では、クルミ・ブナ・ハシバミが重要だった
○陸の旅
(1)中世初期の陸の往来
A.ローマ人たちの街道は、そもそも市民の通行のために建設されたのではない。さらに道の表面は濡れるとツルツルになるので「動物は足が滑りやすくなり、蹄鉄を打っていない蹄は傷みが早くなる」から、車や輓曳動物にも滴さなかった
B.国境の防備がいったん突破されると、侵入者たちは街道を通ってあっという間に帝国内部へ入ってくるという欠点があった。それゆえに古代末期には、帝国の辺境地域では「ローマ人街道をわざと破壊した」「石切場として利用した」「農場を街道から離して作り、農場間は新たに生まれた道路網によって互いに結んだ」のだった
C.中世初期の帝国では、聖俗の権力者と商人は道路建設には冷淡だった。しかしそのくせに、整備された交通網には関心を寄せた(それによって秩序・統治が維持でき、よい考えや商品も広まるから)
(2)諸々の障害を乗り越えて
A.一方で「戦士,伝道者,贅沢品を扱う遠方商人」は、人や乗用動物が通れる場所ならば狭い道をものともせず、外へ出掛けた。良い道の有無は論外で、とにかくある場所から別の場所へ行けるのならば、たいていの旅人には充分だった
〈例〉フルダ修道院長はロバに乗って、フルダ地方の道無き場所を通って行った(8世紀)。彼は毎晩木を切り倒し、それでロバを野獣から守る垣根を作らねばならなかった
B.歴史的な道路の消長は、河川のそれよりもずっと激しい。新しい関税が徴収されるようになって橋が架けられ、その前には重要な街道が再び耕地に戻っているのだった
〈例〉ハインリヒ獅子公はイザール河に架かる橋を、オーバーフェーリングから5km河上のミュンヘンへ無理やり移し(1158年)、以後のミュンヘン発展の重要な礎を築いた
C.小川を渡る歩行者のためには、せいぜい角材を1本渡すだけだった。無い時には川の瀬を渡るように、小川を歩いて渡った。水が通行人の頭上まで達するケースもあったから、向こう岸へ張った綱を一時凌ぎにせよ掴めるのなら御の字だった。小川でも、洪水時には手の付けられない障害と化した
D.橋の建設・維持にはそもそも金がかかった。渡し船を設けるのは、(本来は貪欲な)渡し守とその家族がこの仕事で暮らしを立てていける時にしか意味が無かった。もちろん渡し守がごく無欲で、自分の財産で食ってゆける場合もあった
【道路の状況】
E.“街道”と呼ばれる道でも、道幅はせいぜい5~6m(2台の馬車かすれ違えるほど)はなかったと考えられる。いざという時のための道路の維持は、一部の例外を除けば中部ヨーロッパではずっと後まで行われなかった(18世紀末・19世紀初~)
F.それまでは道路の穴ぼこは、土くれ・柴で応急的に埋められていた。これでも石を敷いたローマ人街道に比べて「霜にも平気だったので維持しやすい」「蹄鉄を打った輓曳動物や乗用動物のいい足掛かりとなる」という利点があった
G.岩石に亀裂が走り、水がそこから流れ込んで沼地となった谷底には「洪水時にはいつも橋・堤が危険に曝される」恐れがあるので、たいていは道路を通さない。加えて人々は悪い空気を恐れたから、なるべく溜まり水には手を出さなかった(もちろん、蚊がマラリアを伝染させることは知らなかった)。こうして道路は「谷底の上方,山脈の麓」に建設された
〈例〉黒森・ヴォージュ山脈・アペニン山脈の麓,かつてカール大帝に利用された“塩の道”(※北ドイツの“塩の道”とは別)
H.“塩の道”は、沼地となったリッペ河峡谷の遥か上方、ハール丘陵地帯の麓にあった。この後に続いているのが、フランク人による征服時代に遡る“軍道”(ヘルヴェーク)にあった兵站地で、せいぜい1日の旅程の間隔で設置されていた。ここでは「旅する王と彼の全権代表たち(9世紀),後には一般の旅人」が全て、「シュテーレ,ボフム,ドルトムント,ヴィッケーデ,ヴェルル,ゾースト,エアヴィッテ」などで、宿・作業場・食料品の貯え(特に自分と馬用の飲料水)を手に入れられた
(3)中世盛期 ~交通の活発化と道~
A.ようやく、聖俗の権力者による道路建設の記事が文献に登場するようになり、以後増加していく(1000年~)。道路を作り橋を架けた人は、時には列聖されることさえあった
B.「多くの教会の新築・増築用,宮殿や橋梁の建設用の石」のような、重く割れやすい品物を運ぶ道は「均され」ねばならなかった(1000頃年~)。馬車・車からの荷下ろしや道路の保護のために、石切場ではかなり早くから石が切り出された。さらに、仕事中に発生した砂利を利用して道の穴ぼこを埋めた
C.この頃に、状況の改善が幾つも重なった結果として「交通の革命」が起こった。それは「農場でお払い箱になった乗用動物,輓曳動物」「より適切な馬具・蹄鉄,より良い車」「わりと拡張された道路,増えてきた橋」を、旅人が自由に使えるようになったことだった
D.農業生産性の向上によって食料がより安く生産されるようになり、さらに「僅かなエネルギーで,用具を消耗することなく」食料を発展する都市へ搬入できるようになり、多くの人々は以前よりましな食物を口にできた
【徒歩で旅しない人々】
E.車で旅するのは「男らしくない」と思われた。その理由には(様々な改善があったにもかかわらず)「車は依然として乗り心地が悪い」こともあったと思われる。車に乗って旅したのは「女性,老人,病者,囚われの犯罪者のようにどうしようもなかった男」であった
F.聖俗のお偉方は堂々と馬に乗った。そうした方々が病人・老人・目立ちたがりの時には、駕籠で運んでもらった。豪華絢爛な駕籠での登場は、人々を唖然とさせたという(12世紀中頃のエピソードから)
(4)旅立ちの準備
A.旅人の社会的身分が高くなればなるほど、準備に要する時間は長くなり、また入念に行われた。王・教皇ともなれば、概して旅のルートは早くから周到に練られたが、それは「行く先で援助を出させる,内外の人々にどこで連絡が取れるかを知らせる」ためだった
【装備と所持品】
B.手荷物はなるべく少ない方がよい(特に徒歩の旅人にとって)。マルコ・ポーロによれば「馬に乗ったタタール人は、飲料水の革袋2つ・肉料理用の鍋1つ・雨除けの小天幕1つを携行した」らしい
C.しかし大部分の旅人にとって、天幕は重すぎた。彼らは泊まれそうな納屋でも見つからなければ「風雨除けの場所を探して、そこで外套にくるまって寝る」のだった
D.巡礼者たちの外見・所持品は「長い外套(夜に毛布代わりとなる)をまとう」「つば広の帽子:陽光から顔を守る,雨が首筋に入らないようにする」「手に持つ杖:川を歩いて渡る時や山中で身を支える,襲い掛かる獣から身を守るために使う」「長靴とかなり堅い靴,証明書や他の書類を忍ばせた袋,何枚かの貨幣(時には相当な大金のケースもあった),食料の貯え少々,卓上ナイフ,(もしかすると)皮の盃,火打ち石(道中網で捕らえた魚を焼くため),水筒(※下記)」 だった
E.知人・縁者への紹介状は、多くの手荷物の代わりになり得た。それによって「タダで飲食できる,宿に泊まれる,渡し船に乗れる」とすれば、まさに旅人がよく夢見るるグリム童話の『魔法の食卓』のように貴重だった。そのような書き付けは、有効性に対して追い剥ぎは見向きもしなかったので、現金・貴重品の代わりとなる
【飲料水】
F.規則的な降雨と長く延びた森のおかげで、中欧では旅人たちは容易く渇きをいやすことができた。人々は「城を包囲された時,十字軍に加わった時,中欧から出た時」には、喉の渇きに苦しめられた
G.1人旅の人はたいてい「くり抜き瓢箪,獣の膀胱,石の壺,ガラス瓶」に水を入れて携帯した。特に南緯地方での団体の飲料水運搬用には、軽くて割れない容器として革袋が便利だった
H.たとえ中欧でも、飲料水がどこで手に入るかを見極める必要があった。『ザンクト・ガレン修道院史』によれば、修道士たちが対ハンガリー人用の砦を築いた際に、“以前一帯にいぐさが生い茂っていた所をかなり深く掘り下げて”極上の澄んだ水を手に入れたという
I.ベーダの『イギリス教会史』(8世紀)によれば、エドウィン王は路傍の泉につるべを取り付けて、旅人に役立たせた
J.船の場合には、飲料水の補給のために規則的に陸に向かうことが必要だった
【食料】
K.炭水化物・動物性タンパク質・脂肪をとれるパンとチーズが人気だった(元気のいい仕立て屋の小僧も、道中食にチーズをポケットへ突っ込んだ)。木の実では、クルミ・ブナ・ハシバミが重要だった