『中世の旅』(N・オーラー)から〔3〕


○乗用・輓曳用・荷物運搬用の動物


(1)ロバ(アラビア・北アフリカ原産)

 A.早くから飼い慣らされ(AD4世紀)、隊商の動物として出てくる(AD3世紀)。地中海圏だけでなく、アルプスより北のより寒冷な地域や極東でも好まれ広まった
 B.ロバの有利な点:「アザミや麦藁を食って生きられるほど無欲」「山岳で身につけた、しっかりとした足取り(多くの地方で馬より愛された)」「馬より小さいので乗りやすい」
 C.荷物運び・乗用として利用され、輓曳用にはあまり使われなかった。150kgの荷を運べる(ラクダに積める量のほぼ半分)ので、大人が幾つかの荷物とともにロバに乗って行けた
 D.聖書やキリスト教の著作では、馬からはしばしば「贅沢,思い上がり,戦争」が連想されるのに、ロバからは「謙虚さ,慎ましやかさ」が思い浮かぶ。清貧運動の信奉者たちは、徒歩で行けなければロバに乗って出かけた


(2)馬

 A.ロバより速い&強い、輓曳用・荷物運搬用動物として家畜化された(遅くともAD3世紀)。これは西欧・南西アジア・モンゴルで同時期の可能性がある
 B.キチンと馬具を着ければ、1t以上曳くことが可能。荷馬としては約170kgだった。ゲルマン初期の馬はモンゴル馬と同様、今日の馬より相当小さかったようだ(馬高130cm程度か?)
 C.中世初期の西欧では、馬はむしろ稀だった。中世盛期になると、組織的な飼育のおかげで軍馬がいつでも使えるようになる(これはイスラム色の強い東洋と事情が同じ)。「速力,反応の速さ,鎧兜に身を固めた騎士を運べる強靭さ」によって、軍事における利用が拡大した
 D.種馬は重要な「軍需品」とみなされたので、敵となるかも知れない国々への輸出は度々禁止された。数十年にも及ぶザクセンの反乱軍の抵抗が著しく弱まったのは、フランク王が彼らに毎年馬を差し出すことを強要したせいもある(ザクセン人はそれまで通常500頭だった牝牛の代わりに、年間300頭の馬をフランク人に供給するしなければならなくなった:758年~)
 E.中世盛期以降にもなると、市民層も飼育の恩恵を蒙るようになり、馬は次第に「貴族の乗用動物」としての性格を失っていった

【馬の有利な点】
 F.技術的改良(より良い馬具,蹄鉄の打ちつけ)によって、車・農具の牽引用により多くの力を出すのが可能となった。中世盛期の人口増は、農業に馬を投入したことと深い関係があったと考えられる。これによって「多くの収穫量を約束するローム質の土」を耕すことが可能となった
 G.この点に関して、三圃式農業によってカラス麦(燕麦)の栽培が増えたことは、馬の飼育を促進した
 H.馬は牡牛はもちろんロバよりも足が速いので、乗用・輓曳用として有用だった。さらに以前よりも大量供給を可能としたので、急成長した都市へ腐りやすい品(例:魚,野菜)をかなり遠くから運搬できるようになった。このことは長い目で見ればより重要だった

【マイナス点】
 I.近代に至るまで、馬は貴族・騎士・司教のステータスシンボルであり、贅沢な乗用動物だった(例:ドミニコ修道会は修道士に馬と車の所有を禁じた)。このため、経済全体に有用な農業・交通用と需要が重なってしまった
 J.馬はロバより欲深く、下層民の常食として欠かせない燕麦をガツガツと食らった。特に中欧の馬は餌についてうるさかったという
 K.馬の飼育に成功したものの、抜かりなく飼育した動物というものは概して病気にかかりやすい。フランク人のアヴァール遠征(791年)が失敗したのは、ほとんどの乗用馬が病気に倒れたからだった
 L.日々の糧も馬鹿にできない。ふんぞり返って馬で旅する人は、馬に関する出費(燕麦,干草,厩舎,橋の通行料など)が、少なくとも自分の食費・宿代などとどっこいどっこいになることを覚悟しなければならない。その上、金持ちと思われたので「貧者に対する特典(例:修道院宿泊施設での無料の宿泊)」を要求できなくなった


(3)ラバ(牡ロバと牝馬の後裔)

 A.ラバとケッテイ([馬夬][馬是]:牝ロバと牡馬の交配による雑種)は、逞しい荷物運搬用動物であった。ラバはケッテイより大きく、かつ強い
 B.ラバは馬と同様に力持ちだが、ロバのように無欲で、忍耐強く、病気に対して抵抗力もあった。「一生の労働時間,重労働に対する忍耐力,重荷を負った荷馬として道もないような山国の困難な小径でのしっかりとした足取り」については、馬を凌いでいる


(4)ラクダ

 A.ヒトコブラクダ(西アジア・南アジア・北アフリカによくいる)と、フタコブラクダ(中央アジアに広まっている)は区別しなければならない
 B.極端な環境にうってつけで、人の嫌う乾燥地帯・熱帯への旅には乗用・荷運び用として、他に類を見ないほど適しており“砂漠の船”なる名称が与えられた:
[1]棘のある固い砂漠の植物を食っていける点は、ロバより優れている
[2]何日間かは餌なしで、いざとなれば1週間は水も飲まずにしのげる
[3]ラクダは人間に乳・毛・肉を供給し、さらに乾いた糞は貴重な燃料となる
[4]体温が1日に7度ほど上がることもあるが、その時にはごく僅かの水を汗として出す。暑さ寒さからは皮の柔らかな下毛によって守られる
[5]足の裏のたこのおかげで砂漠地帯の炎熱から守られ、石のゴロゴロした地方の固い小径でもじっくりと歩ける
 C.ラクダの隊商は古くから文献中に現れる(AD1100年頃~)が、飼い慣らされたのはずっと遅い(AD2世紀~)
 D.民生用にも軍事用にも同じように適している。「負荷能力,忍耐力,その他の利点」に関していえば、ラクダは馬・ロバ・ラバより明らかに優れている。ラクダは1日に150km進むことができ、荷は270kgまで運ぶことができる
〈例〉イブン・バットゥータは「足の速いラクダを使えば10日でカイロからメッカ(直接距離は1,300km)まで行くことができる」としている
 E.ラクダはアラブ人によってスペイン・シチリア島にもたらされ、メロヴィング期のガリアにも投入された。しかしロバや馬とは異なり、ヨーロッパでは正式には定着しなかった
 F.皇帝フリードリヒ2世は、神聖ローマ帝国内へ未知の動物(象1頭,数頭のヒトコブラクダとフタコブラクダ,豹,シロハヤブサ,ハイタカ)を連れて行った(1235年)。後にはヴェローナにあるサン・ツェノ修道院に招かれた(1241年)が、この時も「象1頭,ラクダ24頭,豹5匹」を連れて行って、ホスト側の顰蹙を買った
 G.ちなみに象は、中世ヨーロッパではもっと珍しい
〈例〉カリフからカール大帝への贈り物としてアーヘンの宮廷に到着した象(802年夏)


(5)牡牛

 A.中世では車・農具の輓曳用として最も普及し、貧乏人にとって欠くべからざるものだった。ただし間違いなく現在よりもずっと図体が小さく虚弱だったので、輓曳動物としての評価は難しいという
 B.牡牛はたいてい2頭ずつ左右or前後に繋げば、引っ張り易いし見張りも楽だった。ただし歩みはのろく、忍耐力も馬よりずっと劣るので、1日あたり15km以上歩むことを期待できない


(6)動物の運用について

 A.まあまあ通れる街道や道が無い限りは、中世では人間・物資の輸送は荷物運搬用動物に頼った。高山に限れば、ヨーロッパではこれは近代にも当てはまった(~19世紀)
 B.これらの動物はしばしば非常に狭い小径でも、確実&しっかりとした足取りで歩むことができる「忍耐力,無欲,大きな運搬能力,固い蹄」を持っていた。特にラバとケッテイは山岳駄載用動物として、他の動物より好まれた
 C.それに負わせられる重量(ラスト)は、各地で計量単位となった。1ラストは地方によってかなり違いがあるが約150kg、つまり1頭の積載可能量だった
 D.牡牛はたとえ馬2頭の運搬分(≒約2ラスト)を車で引くことができるとしても、牛歩のために「牛追いの手間賃,牛の餌代」が決して馬鹿にならない。このため、山岳駄載用動物の方が平地でも牛車よりも経済的だった
 E.一方で山岳駄載用動物を使うのに不利な点は「荷を積んだ車ならば、夕方には止めておいて朝にまた一緒に出発できる」のに対して、一手間がかかることだった。駄載用動物ならば1日の旅が終わると、人はどんなに疲れていようと「荷を下ろして、餌を与え飲み物もやり、翌朝にはまた改めて荷を積み込まなければならない」のだった。その際には「動物がバランスを失わないよう、荷物を均等に分ける配慮」が必要だった


(7)その他の荷物運搬方法

【荷物運搬人としての奴隷】
 A.彼らはおそらく戦争の捕虜or奴隷であり、中世の不本意な旅人だった。道無き高山地帯でさしもの駄載用動物でさえお手上げの時も、出動を求められた
 B.‘奴隷’の語は‘スラブ’から派生している。スラブ人の居住地方で囚われ人となった奴隷たちは中世初期には、ヴェルダンを経由してイスラム化していたスペインへと取引で送られた。“もっと有利に連中を使おう”として、東欧諸国から皮などの荷物を彼らに背負わせた
 C.ただし、ビザンティンの皇帝への贈り物とされたような貴重な奴隷たちは、道中では他の“品物”同様に慎重に扱われたと考えられる
 D.ドナウ河畔のラッフェルシュテッテンの税関判例集(10世紀初頭)では“奴隷,牛,馬,その他の乗り物”について触れている。この規定から判断すれば、人は荷物運搬用動物に積む荷物の1/4を運んだ

【その他の動物】
 E.いざとなれば(例:十字軍)、山羊・羊でも荷獣として利用した。どっちみち「生きた肉の貯え」として携行していき、徐々に屠殺したので、荷獣としてもうってつけだった。ただし旅の辛苦のために、動物たちの肉・脂肪の貯えが消耗するにつれてメリットは減った
 F.北欧・東欧では、犬が軽い方の橇を、半ば家畜化されたトナカイが重い方の橇を引いた


(8)婦人はどのように馬に乗ったのか?

 A.「幼子イエスを腕に抱いた聖母が女乗りでロバの背に座っている」(オータンのさる柱頭に描かれた聖家族から)ように、女性風の横掛けが礼儀作法にかなっているとされた。「婦人が公の場で股を広げた姿を見せる」のは、ヨーロッパでは不作法と思われていた(~20世紀)
 B.しかし、馬・ロバは股の圧力の代わりに鞭がくると、それほど御しやすくなくなる。側対歩で歩むどの馬も温和なので、堅い木製の婦人用鞍を着けるのを喜ぶとは限らない。また、どの婦人も遠乗りする際に、そのような鞍が手に入るとは限らない
★側対歩:馬術で、左〔右〕前肢と左〔右〕後肢が同時に動く馬の歩み。騎乗したとき上下の揺れが少なく、荷馬車などでは荷崩れを起こさずに山道を移動できた。またほとんど反動がなくて乗りやすく、長時間乗っても疲れない
 C.安全性が問題となる時には、西洋でも礼儀作法の面は無視されたようだ
〈例〉ハインリヒ7世のローマ行の絵入り年代記によれば、王妃はアルプス山中を男乗りで跨がって行った