『異人歓待の歴史』(H・C・パイヤー)から[23]


○狩猟歓待


(1)貴族の生活における狩猟歓待

 A.都市での領主歓待への抵抗に比べて、中世の君主・貴族の狩猟においては歓待が最も長く維持された。それは「かつての狩猟が人里離れた場所で行われ、集落が少ないために宿泊の機会をめったに得られなかった」から、支配者による支配関係がどうしても必要なために長く維持されたのだった
 B.支配者のスポーツとしての狩猟の楽しみには、明らかに「あちこち歩き回る・獲物を追う」ことにあり、その楽しみは支配者の暮らしの中での最重要の要素(=旅をする)の1つだった。君主はお供(猟師・猟犬・鷹)を従えた旅の道中で、自ら普通の猟師と同じような働きをすることも多かった
 C.支配者は「数多くの獲物がいた森にある複数の館,その他の投宿先」を自由に使って森へ向かった。いくつかの極めて重要な館には「狩猟用囲い地」「動物苑」があり、これらは“沼地”と呼ばれていた
[例:ドイツのザーリア朝の皇帝たちは、少なくとも1年の1/3を狩猟館で過ごした]

【聖職者の狩猟】
 D.司教・修道院長・教皇にはアグドでの教会会議(南フランス、506年)以降、狩猟は厳禁された…筈だが、これらの者すらも中世を通じてずっと狩猟にふけっていた。中世初期から後期の公会議ではずっと「狩猟の禁止,狩猟要員・猟犬・鷹を用意しておくことの禁止」が繰り返されていたのは、禁止がまともに達せられなかったことの証である
 E.モンペリエでの教会会議(1215年)は「猟をする司教が自ら、鷹を自分の握り拳の上に乗せて運ぶ」のを禁止したほどだった。教会法では「犬と猟笛を伴った騒々しい狩猟」と「鷹と捕鳥を伴った静かな狩猟」を区別するようになり、聖職者に対して前者を禁止し後者は許すようにした

【狩猟特権の持つ意味】
 F.「狩猟をする,狩猟夫役を求める」領主・貴族の特権は、中世では貴族による保護義務(農民を猛獣から守り、農民の畑に危害を及ぼす野獣から畑を守る)として認識されていた。実際のところ、中世後期における貴族の狩猟特権に対する農民の非難は「貴族による保護義務がなおざりにされている」という点から繰り返されていたのだった
 G.もちろん「スポーツとしての楽しみ,宴会の料理を充実させること」も、貴族の狩猟には重要な動機だった


(2)狩猟歓待の由来

 A.これは明らかに領主歓待の変種であり、その由来としては「国王,土地領主,裁判領主,教会守護職,領邦君主」の歓待権にあった
 B.「狩猟歓待が国王の所領で行われた,国王・有力諸侯に対するレーエン法上の義務となっていた」場合には、その由来は国王の歓待権にあったことは明白となる。しかし現存する史料では、狩猟歓待はヨーロッパのかなりの地域で主に司教領・修道院領に集中している。この場合には全て「狩猟歓待は在地の教会守護が行う歓待要求に由来している」と考えられる
 C.ただし、広く見られた「領主の森林禁制権,野獣禁制権」との関連性ははっきりしないという
 D.こうした背景には「1.司教と修道院はかなりの保有地を持っていた」「2.両者は貴族とは違って、国王・守護職・領邦君主の歓待にあまり抵抗しなかった」「3.その保有地は特に獲物が豊富であまり利用し尽くされない狩り場だったから、貴族・領主を特に惹き付けた」ことが考えられる


(3)狩猟歓待の内容

 A.狩猟歓待の中身は「狩猟をする領主とその従者・客人・猟師・猟犬・鷹が、宿&食糧を提供される」ことにあった
 B.これは領主が狩猟を行っている間だけでなく、領主不在時にも「領主の猟師によって求められ」、さらには「猟犬を農民の家で飼育し世話をするために収容することを求める」ようになり、間断なくなされることになった。多くの場合「犬の1日の餌はパン1個」「鷹は鶏1羽」だった
 C.しかし、領主たちは裁判・行政のための旅でも「猟犬&鷹を連れて行くのを常とするのが極めて多かった」から、結局のところ狩猟歓待は一般の歓待と区別がつきにくかった


(4)狩猟歓待の制限、現物・貨幣貢納への転換

 A.最も早い時点で狩猟歓待に触れた、カール大帝の王領勅令‘Capitulare de villis’では「1.伯は国王の森林にある臣下の家で、自分の犬のために歓待を求めてはならない」「2.猟犬の一部は領地で・一部は宮廷人によって、飼育され餌を与えなければならない」とされた
 B.ヴァレーの法(10世紀)では「国王の家人は、国王の猟師・鷹匠・犬を年に1度自分の家に迎え入れて食糧を提供することを義務付けられていた」。イングランドの農民は「大型野獣を国王が狩猟するために」2人で1匹の犬に餌を与えなければならない(11世紀初頭)。ザールフェルトの国王の森(ケルン大司教に寄進された)では「農奴は猟犬を飼い餌を与えなければならない」「荘園を授封されていた者は、自分のところにやって来る猟師を迎え入れなければならない」(11世紀後半)
 C.重荷となっていた狩猟歓待についての「苦情,そのための紛争,狩猟歓待の買い戻し・(現物or貨幣)貢租への転換・免除」に関する記録は、中・近世ヨーロッパに夥しく存在する(9~18世紀、12・13世紀に急増した)

【幾つかの実例から】
 D.イングランドのアビンドン修道院長は国王に対して、狩猟歓待の代償に多額の支払いを申し出た(819年)
 E.ブルゴーニュ公はサン・ジェルマン・デ・プレ修道院を「自分の馬,犬,それらの飼育人の歓待」から免除した(1042年)。教皇はザールフェルト修道院の負担で「犬が飼育される,猟師が扶養される」のを禁止した(1125年)。ポンメルン公は自分が建立したヒルダ修道院を、自分の犬飼育係の歓待から免除した(1194年)
 F.ティロル地方のラント議会では、主任司祭や修道院が「諸侯の犬・猟師の宿泊を割り当てられていること」に対して苦情を申し立てた(1478年)。また、ティロルの農民戦争の前には「修道院・修道院荘園は70匹の犬を5週間も養わねばならない」こともあったりした
 G.ティロルのシュタムス修道院の場合は「大公不在時の狩猟歓待の乱用を防ぐ」大公の保護状を与えられた(1369年)。さらに毎年一定額の支払いで狩猟歓待の一部を代償した(16世紀)。後に完全に免除される(17世紀)
 H.バイエルンでは「大公,大公の猟師・犬・猟鳥の狩猟歓待」が大公の修道院領内で強く主張され(14・15世紀)、そのことで修道院はコンスタンツとバーゼルの両公会議で苦情を述べた。その後狩猟歓待の一部は貨幣貢納に転換され、猟師金の一部については「厳密に枠を決めて個々の農家に割り当てた」。荘園での大公の狩猟(15世紀)の規模は「約60人の人員,260匹以上の犬,ほぼ20羽の猟鳥,その他」にも及んだ

【ヴュルテンベルク公領の場合】
 I.ヴュルテンベルク公の狩猟(16世紀)の規模は「30~40人の人員,同数の馬,600~800匹の犬」にのぼり、それらの宿泊&食糧のかなりの部分は公の修道院とその荘園が負担していた。ある村落・荘園では「1年中、馬・犬・鷹と共に猟師が配置されていた」「数匹の犬しか配置されていない」などバラバラだった。これを固定した貨幣給付へと転換するのが何度か話題となったものの進まないどこらか、逆に現物負担は繰り返し引き上げられた(16・17世紀)
 J.“犬給養”は大公の猟師によって「農民負担で自分の犬を育て上げた後でそれを売却する」といった悪用が繰り返された
 K.1日当たりの食料費(17世紀)は「猟師1人につき40~60クロイツァー,馬1頭につき5クロイツァー」と見積もられた。犬1匹の飼育費(1782年)は「1年当たり13グルデン」と算出されている


(5)山岳地帯での狩猟歓待

 A.ティロル,サヴォワ,ヴォージュでは「鳥食と乳食=毎日の獣乳と鳥」に関しての現物貢納が問題であった。それらは個々の「アルプ(夏季放牧用の高原の牧草地)」に対して現物貢納として課せられていた。毎年領主に対して、アルプで収穫された毎日の乳を「乳,バター,凝乳,チーズの形で」引き渡さねばならなかった
 B.元々は「狩猟を行う領主に食糧を給付する,猟鳥に餌を与え飼い育てる」義務が存在していて、それが解体されたという
 C.多くの場所で「この貢納が狩猟と結びついていた」ことが、中世後期になってもハッキリと知られている。それどころかスイスの一部地方では、これのために「領主によって野獣が根絶される」ことに甘んじざるを得なかった