○中世フランスの粉引き業


(1)粉挽き場の使用料

 A.古くから「水車税or風車税」と呼ばれ、その額はたいていは早い時期から固定されたままで、その後はほとんど変化しなかった(だから呼び方も変化しなかった)。中世以後も長らく現物による支払い方式が採用され、その量は「粉挽き場に持ち込んだ麦の量に対する割合(中世には穀物量の1/12~1/24が通常)」で決まった
 B.使用料の徴収は「客が持ち込んだ穀物からこの分を予め取り除けてから、残りを挽いて粉を客に返す」方式で、これは近世になっても変わらなかった。最も一般的な使用料は1/16・1/20で、ごく例外として1/8・1/10・1/30が存在した。同じ水車ならば、使用者が「都市の住民か農村の住民か」によって差を付けられるようなことはなかった
 C.しかし使用料は地域ごと・都市ごと・領地ごと(同一領主の支配下でも)で異なっていた。同一の慣習法(ある村落共同体に与えられたものが、他の所にも広められたケース)が支配する集落でも、必ずしも同一の使用料が課されたわけではない
(例:互いに数km~20kmしか離れていない3つの村で、使用料が1/16・1/13・1/18となっている。13世紀ピカルディー)

【季節によって変化する使用料】
 D.「聖ペテロの鎖の記念日(8月1日)からクリスマスまでは1/16、クリスマス以後は1/24」という取り決めもある(同じく13世紀ピカルディー)
 E.8月1日はフランス北部で収穫が始まろうとする時期であり、そのあたりから農民は「刈り入れが終わり、麦を穀物倉に入れ、種蒔き用に一部を取り分けた後」、家族の食事に必要な量だけをその都度粉にした(穀粒のままで貯蔵する方が、粉にした場合よりも長持ちするため)
 F.また農民は、クリスマスの時期以降は出来るだけ穀物を節約しようとした。次の収穫はまだ先のことであり、春の終わり(とくに『つなぎの時期』)に困難が待ち構えていることを、彼らは経験上知っていたから。このため、領主(粉挽き場の所有者)からすれば、かなりの量の麦を使用料として徴収できる最後のチャンスがクリスマスだったので、このような使用料設定になった
 G.深刻な食糧危機を引き金とした穀物価格の高等など、特別に困難な事態の場合には使用料が引き下げられることもあった。しかし、都市当局による使用料引き下げの決定に対して、粉挽き場の所有者である施療院が抵抗した事例もある(リール、1437~38年)

【一部の使用者に対する優遇】
 H.パン屋は利用時に、かなりの使用料の割引が認められた(通常の半額:パリ、13世紀)。都市当局がパンの試作実験を行う場合にも、パン屋と同じ割引が認められていた
 I.パン屋は一度に大量の麦を挽く必要があるため、粉挽き場の長時間独占的な使用が多くの都市で認められた
(例:「パン屋は一度に8スティエ〔約1250L〕の麦を挽ける。その次にパン屋が続く場合には、その間に一般客3人分だけが割り込むことができる」〔コルビ、15世紀半ば〕)
 J.国王の官吏・領主の役人にも特権が認められていた(優先使用権・使用料を自分で決定できる権利)。「国王の地方代官・城塞の護衛官の使用人>大司教の奉公人」というような、こうした権利を持つ者の間での優先権の調整もある

【使用料の支払い】
 K.中世以後も長い間、現物支払いが続いた。しかし大都市では少なくとも14世紀以降、少しずつ貨幣での支払いに変わっていくが、しかし18世紀になってもまだ普及していなかったようだ
 L.貨幣支払いの方が便利だし、何よりも粉挽き人の不正(余分に穀物を取る)を防ぐことができる。しかし粉挽き人にとっては、穀物価格が高い時には「報酬を再販売する」ことでかなりの利益が得られたから、現物支払いの方が好都合だった。2つの支払い方式が並存していたこともある
 M.貨幣による粉挽き料は、一定ではなく穀物価格の変動に合わせて上下した(例:3スティエの小麦を挽く場合の割引料金は2~12ドゥニエの間で変動した。アミアン、15世紀)。しかしその料金の決定は、都市当局が全て決定したのではなく、かなりの部分が粉挽き人の裁量に委ねられていたようだ。また川の凍結・大水・水位低下時にも追加料金を請求できたようだ(都市当局が認めた粉挽き人たちの規約にも定められている。ただしそれを逸脱した範囲の値上げは、役人によって訴追の対象とされた)


(2)粉挽き人と粉挽き場

 A.「嘘つきで怠け者の粉挽き人、怒りっぽくいかがわしい粉挽き人」に対する客たちの苦情は、訴訟記録に満ち溢れている。他方で「重労働にも関わらず実入りが少ない」ことを嘆いた粉挽き人からの陳情書も数多くある

【粉挽き場の実情】
 B.粉挽き小屋が粉挽き人の住居を兼ねる場合もあれば、小屋のすぐ横に住居が建っている場合もある
 C.粉挽き人は1人では働いていたのではなく、彼の妻と第一職人が共に働いていた。大きな粉挽き場になると徒弟がいて、客の家に麦を取りに行く・出来上がった粉を届けるのが彼の仕事だった
 D.穀物や粉の運搬には、荷駄としてロバ・牡ラバを用いた。家畜は夜の間は家畜小屋に入れられるのが普通だが、外に放っておかれる場合もある。運搬料は通常は追加徴収されたが、粉挽き料に含まれる場合もある
 E.麦が粉挽き場へと運ばれる時、その麦の持ち主orその使用人が一緒についていき、作業の確認をした。特に農村では「利用客が自分で穀物を持ってくる」のが普通で、さらに粉挽き人は(都市に比べて)1人で働いていることが多かったから、もし間違いを起こせば、傍で見ている農民からゲンコツを喰らわされることにもなった
 F.粉挽き場はいつも混んでいたから、優先権を持たない客は、自分の番が来るまで長い間待たされることになった。しかしそうした順番待ちの人たちによって、粉挽き場はコミュニケーションの場にもなった。人々は「噂話をし、仕事について議論し、密かな謀りごとを練ったりし、また男たちを誘惑にやってくる性悪女もいた」
 G.粉挽き場は、日曜・教会暦の祝日(合わせて、トゥールーズでは年間約80日、ナルボンヌでは約100日の営業禁止日となっていた)以外は毎日、日の出から日の入りまで営業していた。特に許可された場合にのみ、夜にも粉を挽いた
 H.都市では、仕事時間の終わりを告げる鐘が鳴るまでに粉を挽いてもらえなかった客は、その場に穀物を置いて帰った。そのため毎晩「穀物の番をする」という仕事があった。また、その翌日にも自分の番が回ってこなかった利用客が発生する場合もあり、その客が「領主権で粉挽き場の利用を義務付けられている人々」ならば、他の粉挽き場に行ってもよいとされた
 I.日曜・教会暦の祝日以外にも、臼のメンテナンス(これは2,3カ月に一度必要)あるいはアクシデント(大水による水門の破壊・水車の車輪が壊れる・氷結により水車の装置が動かない・風が吹かないので風車が回らない・鉄の部分が割れた)により営業できない日があった

【技術的なこと】
 J.臼は、表面が滑らかになってしまうと、穀物が滑ってよく挽けなくなる。定期メンテナンス(手直し)では、臼の接触面に専用ハンマーで凹凸を付ける「跡つけ」という難しい作業を、粉挽き人自らで行った。「作業の前に丈夫な綱で臼を持ち上げてずらし、終わった後は臼のだがを確かめてから元に戻し、上下の噛み具合を調整しなければならない」のだった
 K.上等の臼は、性質上凹凸が多く「きわめて硬い」石灰岩(単に臼石と呼ばれた)で作られていた。これが無ければその土地の石を使った(どんな石でも臼に使えない訳ではない)。臼は一定間隔をおいて、粉挽き場の所有者の支払いにより新しい物と取り替えられた


(3)粉を挽く

 A.「上と下の臼をどの程度きつく合わせるか、特に上側の臼(『回転する臼』『移動する臼』と呼ばれた)をどう置くか」により、製粉の具合や挽かれた粉の組成が違ってくる
 B.実際には18世紀まで、粉挽き人は「穀物を臼で1回挽くだけの『粗びき』」しかやっていなかった。『粗びき』と対になるのは『経済的な粉挽き』(18世紀以降に現れ、何度も挽いて粉を多くとる)こと

【粉挽き作業】
 C.小麦の穀粒は「ふすまになる種皮、でんぷんとグルテンからなる種子(胚乳部)、胚芽」と、それぞれ固さの異なる成分からなる
 D.上下の臼(回転臼と固定臼)の間に隙間をおけば、出来た粗びき粉には、本来の意味での粉以外に「屑粒(十分粉砕されなかった固い種子の破片)とふすま」が大量に含まれる。反対に上の臼を下げて隙間を小さくすれば「穀粒は十分潰されるから粉が多く取れるが、ふすまも細かく砕かれて粉に混ざり込んでしまう」。この2つの方法の違いは、粗びき粉をふるい分けた時に明確となる
 E.粉挽きの際のスピードは、早くても遅くても良くない
 F.上下の臼の間隔は、入れる穀物の種類(小麦・ライ麦・混合麦・大麦・オート麦)に合わせて、粉挽き人が調整した。都市の粉挽き人の場合には、パン屋が「作るパンの質に合わせて、粗く挽くか細かく挽くか」を粉挽き人に指示したらしい。農村では、客の中心である農民たちが家でどんなパンを作り消費したのがが判らないから、農村の粉挽き人がどのような粉を客に返したのかも判らない

【粉挽きでの目減り】
 G.麦を挽く前に、粉挽き場で穀物をふるいにかけて、残っている藁・割れた穀粒・出来損ないの粒を取り除いた(脱穀後の麦打ちでも不純物は取り除かれるが、より丁寧に行われた)。ここで取り除かれた量は「穀物の重さの0.6~1.5%」だが、これは粉挽き人のものとなる。その中で使えそうな部分があれば挽いて粉にし、残りは家禽の餌にした
 H.「粗びき」の場合には、最初に臼に入れた穀物の重さとほぼ同じだけの粉ができる(もちろん、ごくわずかの目減りは認められた)。しかし疑り深い客は「(挽かれた粉が落ちる)臼の下に置いてある槽にきちんと粉が入っているかどうか」と、目を皿のようにして調べた
 I.粉挽き作業が終わると「粉を袋につめ、丁寧に麻紐で口を縛った後、客やその使用人が持ち帰った」。それは間もなくパン生地に練り上げられる