『食の歴史Ⅱ』第33章から


○飲料


(1)ワイン

 A.ブドウ作りの労働者は、ワインを全て売って、自らはピケット(ブドウの搾りかすに水を加えて搾った圧搾ワイン)を飲んでいた。ただし彼らは「市場経済」の枠内にいたのだから、一般の農民たち(自家消費を中心とする「地域循環型経済」に大部分が留まっていた)を代表している、とは考えられない
 B.農民が水を飲んでいた可能性は低い。特に人口密度が高いほど汚染は深刻だったから、水の日常の飲料としていたのは「水が澄んでいて、かつブドウが生育しない山岳地帯」と考えられる
 C.ラングドック(近世)の低地では、ブドウは穀物栽培に向かない、石の多い丘陵の斜面でしか栽培していなかった。さらに適当な販路が無かったから、生産品は全て地元で消費された
 D.プロヴァンスでは長い間、ワインを輸出するための立地条件が整わなかった。14~15世紀には「各都市・各農村で、誰もが自分のブドウから醸造したワインor隣人から買ったワイン」を飲んでいた。都市でも農村でもワイン関係の用具は相当見られ、樽のない家は実質的に皆無だった。住んでいる部屋さえ自分のものではない「貧しい羊飼いや雇われ農民すら、しばしばブドウ畑の1区画について、土地台帳に名が載っていた」
 E.アルザス(17~18世紀)では、農民も日常、自分が生産するワインを食事時に飲んでいた。所有者の社会的・職業的階級や農場面積に関係なく、ワインはほとんどの家の地下蔵に貯蔵されていた。しかし1730~60年は相対的に消費量が多かったのが、1760年代後半にはワイン所有者の割合低下・家1軒当たりの貯蔵量減少が起こっていた(理由は不明)。1人あたり消費量(女性・子供を含む)は0.5~1L/日だった
 F.シチリア(中世末期)でも農民のほとんどがブドウ畑を所有していた。成人の男性労働者は0.858L/日(313.5L/年)だが、この量は常に厳しい肉体労働(収穫・耕作など)に結びつき、彼らのカロリー源になっていた。一方で特権階級では男女ともにもっと少ない(修道女:108L/年、カーザ・プロフェッサのイエズス会士:226L/年)
 G.ワインはパンと同様に、少ない量&安価で多くのカロリーを供給できた。同一カロリーを価格換算すると、ワイン1に対して「小麦:0.8、チーズ:4、肉の中で最も安い牛:5」だった(フィレンツェ、1600~19年)

(2)ピケット

 A.アルザス(18世紀初)では「ワインと同じくらいピケットを生産している」という、同時代人の推定がある。そのためには、ワインを1度や2度ではなく、3度・4度・5度と搾った。ただし全てのピケットがそこまで水っぽかったわけではないと推測される
 B.現代と異なり、当時はアルコール度を計測できなかったから「ピケットとワイン=色の薄いワインと濃いワイン」の違いはそれほど意味が無かった(ピケットのことを『ブドウの搾りかすを搾った圧搾ワイン』と表現していた)。当時の基本は「色と渋み」にあった

【その特徴】
 「搾りかすが既に受けた圧搾の回数によって、かなりの量の水を含んでいた」
 「含まれる水が多ければ多いほど、保存が効かないことも知られていた」
 「『圧搾ワイン』であるがゆえに、皮や房の成分を多く含み、そのため色が濃くて渋かった」
 「一部の地域では保存を良くするために、種母となる搾りかすに第1回圧搾の果汁を加えた。また良質のピケットをより多く得るために、第1回の圧搾からすでに搾りかすに水を加えるところもあった」

【飲んだ人々】
 「ピケットはワインや水よりも渇きを癒し、酩酊の危険がなく、水よりも殺菌力が高い(ただし、ワインの方がカロリーは高い)。このため、炎天下で働く者には理想的な飲料だった。さらに渋みによる『喉への刺激』を農民は好んだという。農民はワインとピケットを、可能な限り状況によって飲み分けていた」
 「オーヴェルニュの富農の遺産目録(18世紀)にはワインとピケットがほぼ同量記録されている。ピケットは作男・日雇い農民専用だったのか、自分でも状況によってどちらかを飲んだのか?」
 「いくつかの記録では、牛飼い(1321年)はピケットしか与えられなかったが、別の牛飼い(1458~59年)はワインとピケットをともに受け取っていた」
 「恵まれた例では、ある使用人は一定量のワインと好きなだけのピケットを受け取った。また農業労働者(1480年)は、水で割っていないワインを1.7L/日も配給されていた」

(3)ビール

 A.ヨーロッパの北部・東部ではビールが主流だった(これらの地域では、ワインは肉体労働者のための安価なカロリー供給源ではなく、社会のエリート層の飲料だった)
 B.ビールは一般的にはワインほどアルコール度が高くなかったので、より大量に飲んだ(1日に1.2~6L、場所と時代により様々)
 C.ホップ添加のビール(16~17世紀には早くもヨーロッパ大陸全体を席巻した)は、専門の職人がビール醸造所で作り上げる『半工業製品』だった
 D.ホップを添加しない古いセルヴォワーズが"エール"の名で18世紀まで生き残ったのは、ブリテン諸島だけだった。これは保存に向かない(=すぐに飲まないといけない)ので、家内で製造され続けた

【ワインとビールの共存】
 E.アルザス(つまりヨーロッパ中部)では、ビールは農民の日常的な飲料ではなく「都会と酒場の庶民の飲み物」だった
。ビールは「ワインよりもアルコール度が低く、カロリーが高く、たいていはワインよりも安く製造でき、文化的ステータスが劣っていた」にも関わらず!
 F.これは「ワインが地域循環型経済の中で居場所を維持したのに対して、ビールは市場経済に属する」という特徴に由来すると考えられる(『ホップはよそからやって来る』と言われていた=広域の流通ベースに乗っていた)
 G.しかし18世紀後半にワインが高騰してから、ビールは農村地帯で存在感を増した

(4)ハイドロメルとシードル

 A.ハイドロメルはより古い起源を持ち、ロシア・ポーランド・リトアニア(いずれも野生の蜂蜜が豊富だった)だけで本当の重要性を保った。この飲み物はロシア皇帝の食卓にも上った
 B.中世には、野生or栽培した果実から作るポメ(?)・ポワレ(洋梨の酒)があり、これらは水で薄められていた
 C.良質のシードル(栽培リンゴから選んだ品種の果汁で、水を使わずに製造された)は、近世初めにバスク地方からノルマンディーとブルターニュに広まった。近世の間に、これらの地域からワインが追い出され、それまで飲まれていた(あまり質の良くない)古いポメやポワレがシードルに置き換えられた
 D.「小さなシードル」(リンゴの搾りかすに水を加えて、何度も搾り機にかけて作った)もあった。これはビールの搾りかすから「小さなビール」を、ブドウの搾りかすから「小さなワインorピケット」を作ったのと同じだった

(5)蒸留酒

 A.蒸留酒を飲む文化は16世紀以降、北部・東部の諸国から始まって農村地帯を含むヨーロッパに広がった
 B.ロシアのウォッカは原則として燕麦(パンにならない穀物)を原料として製造された。農民も他の人々と同様に祭日にはウォッカで酔っ払い、既に16世紀には、その酔いっぷりが西ヨーロッパからの旅人に強い印象を与えていた
 C.フランスのいくつかの場所では、農民以外の人々も含め、朝に出かける前に蒸留酒を飲んでいた(16~17世紀から)。当時の医師は「時に蒸留酒を飲み過ぎても、普段馴染んでいるコッテリした食事のせいで、健康に重大な影響は何もない」とし、さらに朝から良い体調で仕事を始めさせる効力を認めていた
 D.「穀物の蒸留を禁じて違反者に重い罰金を科す」国王の禁止令は、1697年以降、18世紀を通じて何度も出された(穀物価格への影響を考慮していた)。アルザスの人々はこれを受けて、ブドウの搾りかす・果物(特にさくらんぼ)・ジャガイモ(18世紀の終わり頃)を原料とするアルコールに目を向けた

(6)非アルコール飲料

 A.農民は「牛乳、乳清(雌牛・ヤギ・雌羊の)、バターミルク」など、チーズとバター生産の副産物を飲んでいた
 B.しかし農民の食生活で、乳製品が本当の重要性を持っていた地域を正確に示すことができるデータはあまりないという。牛乳・チーズ・バターの産地(ブルターニュ・ノルマンディー・フランドルの農村地帯)がそうだと推測できる
 C.茶は18世紀イングランドで、高価にもかかわらず(砂糖or粗糖をたくさん入れたせいもあった)農民の食生活に導入された。これ以外の植民地原産飲料は普及しなかった


○農民の料理-様々な地方料理の存在-


(1)調味の独創性

 A.中世の農民が調味に使ったのは「地物の香草、玉葱、リーキ、ニンニク(『農民の解毒剤』と言われた)、パセリ、ミント、ヒソップ」など。いずれもその土地で採れることが前提
 B.ところが16世紀になると「インド風スパイス:胡椒、生姜、シナモン、サフランなど」を、都市の住民のように取り入れた農民が現れる。イスラム世界の農民などはタップリとそれらを料理に用いたが、ヨーロッパの大半の農民がそうだったとは考えにくい
[例:アルザスでは、塩入れはかなり早い時代から確認できるが、スパイス入れ・胡椒挽きの登場は18世紀後半のこと]
 C.地方ごと・時には距離的に近い場所どうしでも、異なったハーブや加熱用の油脂を用いていた

【違いの例】
 [フランス南部ヴィヴァレ地方では、平野部では「野菜にオリーブ油or豚脂で味を付け、バターはほとんど使わなかった」。山岳地帯では「バターが多く、植物油を使うとすればクルミ油だった」]
 [アルザスの農民の食に対する悪口(1721年)では『サフランと香草をどっさり入れた、悪魔も毒殺するようなシチュー』『農民たちが細かく刻んだ、耐え難い臭いの塩漬けキャベツ』(シュークルート)が引き合いに出される]

(2)地方の名物

 A.アルザスのシュークルートは「塩とジュニパーベリーとコリアンダーと山査子で調味し、発酵させて酸味と臭味が出るのを待って」食べた。これは他のフランスの地方とは明らかに違うし、(樽に入れる香辛料のせいで)ヨーロッパ中部・東部のものとも完全に同じではない
 B.1819世紀にアルザスの名物料理となった大皿料理は「豚脂、フレッシュ・ソーセージなどに加えて、後からジャガイモも入れるようになって」完成の域に達した

【名物料理】
 [テュエツ:パンの薄切りを浸す代わりに栗と食べていたスープ]
 [リムーザン:他のどの地方でも作られていなかった多数のターニップ料理]
 [ガスコーニュ:ミレット(雑穀)の粉を使った"アロモット"(粥or牛乳粥)と"ミラ""ミック""ブラゼール"という3種類のパン、鵞鳥脂の中で火を通す塩漬けの鵞鳥"コンフィ"]

(3)加熱法の違い

 A.ヨーロッパのほとんどの地域で、貴族の料理は「ロースト、フライ、ソースをかけた肉」が主流だった。対して、農民に特徴的なのはボイルだった
 B.フライパンの存在が「オムレツや若鶏のフリカッセにさっと火を通したこと」を示す。しかし複雑な料理に必要なグリル・焼き串・ソトワール・カスロールなどは滅多になかった
 C.また農民の調理器具はどこでも「豚脂と野菜に水の中で火を通して、ポテやスープを作るための」ポットかマルミットだった。さらに「根菜や野菜に灰の中で火を通す」方法もあった
 D.これら穏やかな加熱法(灰の中で加熱・水の中でボイル)は、多忙な農村女性にマッチしていた-うっかり食べ物を焦がしてしまう危険は冒せない!-