『森が語るドイツの歴史』カール・ハーゼル(築地書館)から〔8〕


○木材の流通

(1)19世紀初めまで、ドイツの交通は未発達で道路状況は劣悪だった。このため、木材は水路を利用しない限りは、その地域ごとの需要を満たすしかできなかった
(2)ドイツで材木の筏流しについて、初めて史料に登場するのは13世紀。この頃からバルト海の海上木材輸送についても報告がある(ダンツィヒからオランダ、スペイン、イギリスへ)
(3)水運の最も簡単な方法は「小川や小さな河川上の運搬」「短い距離を急流に乗せて流す方法(トゥリフト)」だった

 A.トゥリフトでは、鋸でバラバラにした丸太や薪を水に投げ込んで、洪水の波で運んだ。作業は当然、降雨量の多い月に限られた
 B.曲がりくねった水路の中を流されるので、材木は岸へと打ち寄せられ傷ついたり、断崖に引っかかったものを外す作業が必要なこともあった。川底は傷つき、その後の洪水はさらに危険なものになった
 C.輸送を容易にするため、森には水を 貯めて一気に流す水止めの堰が設置されたが、その作業時に多くの人が死んだこともあった
 D.小川までの材木の運搬は、斜面を蹴落としたり、木材搬出用の木製の滑り道を使って行われた
 E.薪材は、そりに乗せて運ばれたり、大きな空洞のある木で作られた水を通す溝で運ばれた
 F.かなり小さな小川でも、都市や製鉄所の薪炭材の供給を確保するために、急流に乗せて木を流すために整備された

(4)大きな河川では、長大な丸太の筏流しが行われたが、これはたいへんな熟練を前提とする危険な商売だった

 A.はじめに丸太と丸太が繋がれ小さな筏になり、さらにそれらが、筏流しのために1つにまとめられた
 B.しばらく流れてから河幅が広くなって流れが緩やかになると、1つ1つの筏がさらに大きな単位に結び合わされた。その上に載せられて、上荷(樽・板・角材・木炭・屋根葺き用の板・鉄・岩塩)や人間が運ばれた
 C.ある筏の例(マンハイムでライン川に合流するある川について)
「長さ732フィート(1フィート=30cm)・幅84フィート・厚さ7フィート、櫂は53あり、450人の漕ぎ手と80人の錨使い、さらに筏親方と舵取りと賄い方などが加わり、600人がオランダまでの12週間を筏の上で生活した」
 D.バーゼル~ロッテルダム間のライン川には、平均して10kmに1つの関税徴収所があった(ドナウ川やエルベ川でも同様)。諸国の支配領域が細切れになっていたことの表れで、これによって物資の価格は関税で押し上げられた
 E.筏は中世以降、鉄道が完成するまで間、遠距離の木材交易の真の担い手だった
 F.決められた場所で筏は分解され、売られた。筏流し業者や配下の者は故郷へと歩いて帰ったが、中には異国の地に永住する者もいた
 G.領邦国家君主は、農民が木材に関する生業や筏流しに専念することを嫌った。農業がおろそかにされる可能性があったため

(5)筏流しの最初の隆盛期は、30年戦争が始まる頃まで続いた

 A.ライン川・ネッカー川・ヴェーザー川・エルベ川・イザール川・ロイスバッハ川・レヒ川など、ドイツ中で行われた。レヒ川(1600年頃)では毎年3500組以上の筏がアウクスブルクへと向かった
 B.領邦国家の支配者は、財政的な理由から筏流しに関心を持った。盛んになっていた諸都市の商工業もそうだった
 C.森の地域では、筏流しの同職組合が形成されたが、原則として森は所有しなかった(例外は中世末期にできたムルク川船主組合)
 D.しかし30年戦争が、全ての遠距離交易を挫折させ、筏流し業も崩壊させた。その後18世紀になって新たな頂点に達する


○近世オランダと木材

(1)17世紀以降の西ヨーロッパ諸国は、通商大国へと発展していく。とりわけオランダとイギリスでは、艦隊の建造と維持・港湾の整備にともなう巨大な木材需要に対して、自国内ではほとんど供給できなかった
(2)古くから西ヨーロッパへ木材を供給していたスカンジナビア諸国やロシアは、戦争の影響で18世紀初めにストップした。そこでオランダはドイツの市場、とりわけシュヴァルツヴァルトから獲得しようとした。その理由は「円滑に輸送できること」「長期的な通商関係を可能とする、樹齢の高い太い木の蓄積がたくさんあったこと」
(3)領邦諸侯側の事情は、30年戦争の後遺症による財政難や住民の貧困化だった

 A.少しでも金銭を獲得するために、北シュヴァルツヴァルト地方に所有していた、木が利用されたことのない未開とも言える森を、資本主義的な事業家のために開放した
 B.領邦国家が利益を上げることが前提だったから、森を所有する村に対して、オランダ相手の儲かる取引を禁止した
 C.オランダへの最初の材木の販売は1691年。18世紀に入り、バーデン辺境伯国とヴュルテンベルク国の双方にまたがるシュヴァルツヴァルト地方で、オランダとの木材貿易がスタートした
 D.木材貿易の重要な拠点はプファルツハイム、カルフ、ナゴルトなどの諸都市。オランダが特にもとめていたのはミズナラの材だったが、重くて筏そのものでは流せず、筏に乗せて運ばれた

(4)山地内部の川は、曲がりくねっていて断崖絶壁や岩礁に富んでおり、長い丸太の筏流しのためにはまず整備が必要だった。しかし諸領邦国家は財政的・人的・技術的理由からこの課題に挑戦できず、その役割は木材貿易会社が果たした

 A.これらの会社は、起業家精神が豊かで富裕な商人によって担われた
 B.彼らは、木の伐採・筏流し施設の整備・筏流し事業・材木の販売まで全ての仕事を引き受けた。このおかげで領邦諸侯はノーリスクで多額の利益を約束された
 C.これらの会社は巨額の資本を投下して川を整備した。それだけこの事業は収益か期待できた。その結果、ムルク川流域の急斜面の山地には森が完全になくなった

(5)森の破壊は1750~1800年にかけて頂点に達した。18世紀末から人々は、完全に放置されていた裸地に再び木々を茂らせることに取りかかった。それは数十年かけて達成されたが、一方でこの造成作業は森の姿を一変させ、木の種類を著しく偏らせる結果となった

(6)ミズナラは、オランダ・フランス・イギリスにおいて商船や戦闘艦の建造に必要とされた

 A.中型の軍艦1隻だけでも4000本のミズナラの幹材を必要とした。海戦が発生して多数の軍艦が失われると、木材需要やミズナラの森に影響が及んだ
 B.ケーニヒスベルク、ダンツィヒなどバルト海の諸港からも、造船用木材がオランダ・イギリスへ向けて輸出された
 C.30年戦争後のドイツでは、広葉樹の森についてオランダとの木材貿易のために優遇措置が頻繁にとられた
 D.プロイセンでも、フリードリヒ大王の下で高齢のミズナラの木立が、相当の規模で樽や造船用の材木としてオランダ・イギリスに売られた


○どのようにして森から木を運搬したのか

(1)19世紀までは水運を別として、木材の搬出は、決められたものもなく無秩序に行われた
(2)手押し車や荷車(牛か馬に曳かせた)が使われたが、荒天によって森に深いわだちができたり、時期によって道が通行不可能になると、人々は木立の中を抜ける全く新しい道を探した。その後に他の車両は、その痕跡の上を通れなくなるまでたどった
(3)農民の森では、人々は「天国への梯子段」と呼んだ急勾配の路を下りたり、木を単に投げ落とした
(4)比較的森の所有規模が大きなところや、長い距離を越えて行かなければならないところでは、滑落路やそり路の施設ができた

 A.雪の上や夏の滑落路の上をそりを使って薪材を運ぶことは、山地の未開に近い森では20世紀中頃までよく行われた、危険な方法だった
 B.距離が遠い場合には、地面そのものに造られた滑り路に木をじかに滑らしたり、木馬(キウマ)用の路が造られた
 C.木馬用の路は技巧に富む木造建造物で、造るには熟練が必要だった

(5)シュパイアー司教座の所有する森には直線の路網があり(18世紀初め以降)、狩猟の路にも用いられた。オランダ向けの重いミズナラの搬出のために、領民の賦役によって砂利が敷かれた。ゾーンヴァルトでは最初に、路面を固めた林道が開設された(1788年)


○木材の売買の始まり

(1)王が所有する森&後の領邦国家が所有する森は、自分の森を持たない臣民の需要をまかなわなければならなかった

 A.臣民は森の産物と引き換えに、現物で貢租を支払わなければならなかった(例:開墾の場合の1/10税、後にはカラス麦・野鶏・蜂蜜・卵・チーズなど)
 B.そもそも、領主の森の産物を臣民に許すことの起源は、臣民たちが行う賦役に関係していたらしい
 C.木材に対して最初に金銭の支払いを求めたのは、建築用材の場合だった
 D.対して領邦諸侯の所有する森から引き渡される木の大部分は利用権に基づいたもので「初めは無料・後には僅かな貢租と引き換え・時代が下れば貢租は販売価格まで引き上げられた」
 E.マルク共同体の森でも事実は似通っていて、建築用や手工業用の材木のために割り当て金が徴収された

(2)15世紀以降、都市住民や特に木の乏しい地域の農村地帯の住民のために、木材市場が開設され、貯木場が設けられた。シュパイアー司教は、ライン川を筏流しで運ばれてきたシュヴァルツヴァルト産のモミの木の角材・厚板・半丸太を扱う貯木場をウッデンハイムに設置した(1442年)
(3)近世の領邦国家が所有する森では、利用権を持たない者に対して金銭と引き換えに木を引き渡すようになる。また木の持ち出しを管理するようになっていく
(例:ザクセン選定侯国「薪材をクラフター単位[4立方メートル]の量で売る」「建築用材は専門家によって等級区分ごとに査定されて本数売りする」)
(4)重商主義的経済政策を採用した諸領邦国家は、国内への金の蓄積を最優先するために、工業用の原材料を安く国内へ供給し、作られた製品をできるだけ輸出することに力を注いだ(原材料の輸出・製品の輸入は禁止された)。このため、主要な原材料である木材の国内価格は完全に統制されるようになった(「査定価格」の導入)
(5)18世紀を通じて、次第に市場での取引価格が用いられるようになっていく。種類によってその時期は異なり、先に建築用材の査定価格が無くなったが、薪材は19世紀まで査定価格が残っていた