○子供の生存に厳しい時代

(1)必ずしも守られていたわけではないが禁欲が課された期間があり、避妊の試みがあったにも関わらず、大部分の結婚生活は極めて多産だった。しかし子沢山の家庭が当たり前だったわけではない
(2)女性の骸骨の恥骨を計測した結果では、女性1人につき平均4.2人産んだという。しかしこれは平均でしかなく、多くの女性が分娩時のリスクのために早死してしまい、その他の女性が平均以上の子供を産んだ
(3)家族における実際の子供の数は、死産や高い乳児死亡率が原因でさらに下がった。7歳以下の被埋葬者が50%に及ぶ墓所がいくつかある
(4)しかし、受洗以前に亡くなった乳児は、少なくとも10世紀以前にまともに埋葬されたかは怪しいという。後の時代でも、洗礼を受けなかった者は受けた者と異なる扱いをされた(墓が東向きにされなかった)
(5)7~12世紀のチューリヒの3つの墓所で調べた結果では、54%の子供が成人できたという


○平均的な家族は、両親と2人か3人の子供から成り立っていたと考えられる。

(1)嬰児殺し(とりわけ女児)の話は伝わっているし実際にもあったが、その数を高く見積もり過ぎてはいけない。子供を睡眠中に誤って殺してしまった親たちの問題が、公会議で取り上げられている
(2)扶養できない乳児の遺棄は頻繁に見られたが、教会の扉の前に捨てられることが多かった
(3)孤児の数は相当だったが、それは両親が亡くなったためだけではない


○奉献(オブラートゥス)の子

(1)修道院で養育される「奉献の子」と呼ばれた、神に捧げられた子たちがいた
(2)その一部は、教会関係に利権を持つ一族から送り込まれた。しかし大部分の奉献の子は捨て子だった
(3)前者の例はギベール・ド・ノジャン(ベネディクト会士のラテン語著作家)、後者の代表は教皇シルヴェステル2世高位聖職者や識見高い聖職者の中にも、稀に出身・生年が全く判らない者がいる


○避妊と堕胎

(1)これは村の加持祈祷師(教会からは魔女と呼ばれるようになる)たちの領分で、教会が厳しく禁じた。伝わっている方法の実際の効果は不明だが、人々がそれを望んだことは確実
(2)密通した聖職者の中には、妊娠を心配する相手を「避妊の霊薬」と称する怪しげな薬で安心させてものにする、不届きな輩がいた
(3)中世の若い男女は、いともたやすく身体の交渉に走り、そのことでさして心に咎めた様子はない。一方で結果として子供ができると、それを恥と考えたらしい。だから新生児を殺すことを人々は選びがちだった
(4)聖王ルイの勅令によれば、嬰児殺しの母親は教会法によってのみ審理されるが、一時の禁獄に止まった(ただし累犯の者は火刑)。その意味するところは「13世紀になってようやく、教会の圧力によって嬰児殺しが殺人罪になった」ということ。人々はこれをあまり罪として意識していなかったらしい!
(5)「間引き」に相当する話は、実はヨーロッパ史には見当たらないという。しかし、とりわけ生存の状況が厳しかった中世初期には確実らしい。中世初期ガリアでは「幼児遺棄の悪習」が広く行われていたという記述がある。また「農民の慣習では、嬰児がまだ大地に由来する食物を食べていなければ殺すこともできた」という記述もある
(6)中世初期サン・ジェルマン・デ・プレ修道院では、領民の男女比率が著しく男に偏っていたという。極端な荘園では「成人で2.52倍、未成年者で1.56倍。しかも土地保有の面積が小さくなるほど男の比率が高くなる」。流入労働力の存在・産褥死により女性が少なくなる、という理由だけでは説明がつかず、労働力としての価値が劣る女児を選んで排除した結果だという
(7)中世の人々は、幼年期を「できるだけ速やかに通り抜けるべき悪しき時期」と考え、この危険な時期を過ぎて初めて社会的関心の対象になったという
(8)ここでも教会の努力があった。教会は新生児にできるだけ早く洗礼を受けさせるように頑張り、12~13世紀になって定着させることにほぼ成功した。生存権を神の認知の下に置くとともに、壊れやすい生命に「死後の救い」を保証しようとした


○以前は「一般に子供は負担であると思われて、愛情を注がれることが余りなかった」と考えられていたか、今では否定されている。

(1)墓碑を建てて埋葬したり、子供を失った両親宛ての悔やみ状が残されている
(2)遅くとも10世紀からは、幼児も「一人前の社会の成員」とみなされるようになる。子供は「小さな成人」として扱われたという
(3)全体として見ると、子供が愛情を込めて扱われ、年相応の遊びを許されていたのは確実
(4)子供に出来るだけ早く大人に育て上げなければならなかったから、少年時代が終わるのは早かった。そのため、教育には重要な役割が与えられていた。遅くとも6歳か7歳で幼年期は終わり、教育が始まった。
(5)しかし教育は、12世紀以前には最も高い階層の家族だけに限られていた。農民層では、子供が小さいうちから親たちと一緒に働くよう仕込まれたことは明らか
(6)サリカ法典によれば、12歳で成人と認められ、貴族の息子は刀礼によって騎士に叙任され、王子は支配権を受け継ぐことができた
(7)聖職者だけはかなり長い間の教育が必要だった(教会法に基づいて、通例30歳以下では司祭に叙階されなかったから)


〔抜き出した記事を合成〕