【 騎士の日常生活 】


○騎士の日常生活において、祝宴や馬上試合はときおり行われた特別な催しでしかなく、騎士の「仕事」とは戦闘だったと考えるべき。そして戦いも日常的には発生しないから、農民に比べて余暇や楽しみに充てる時間はずっと多かったことは確実とみてよい。

(1)騎士はおしゃれ(?)に気を使い、耳や爪の手入れ道具・櫛・鏡を用いた
(2)入浴時には石けんや肌を磨くための道具を使ったらしい
(3)文学作品中では、騎士は初めて訪れた城に客として迎えられると「武具を脱ぎ、城主の娘に風呂に入れてもらい、髪をとかしてもらった上に香油を塗ってもらった」


○文学作品の食事場面は極端に豪勢すぎるにしても、実際数多くの料理が召使いによって運ばれてきて、食事には時間がかかったらしい。

(1)カール大帝は「酒は適量、食事は4品しか(!)なかった(ただし串焼き肉は数に入っていない)」という
(2)騎士の場合、肉(狩猟で仕留めた獲物も含めて)は農家よりも頻繁に食べたことは確実
(3)特別な行事の時には、食事時には音楽の演奏・曲芸師たちの演技が行われた。物語などを朗読したりもした
(4)テーブルマナーの本によれば「自分のスプーンで食べる」「げっぷをしない」「テーブルクロスで鼻をかむ・口や目を拭ってはダメ」「食べ終わった骨を(共通の)深皿に戻すな」などが、繰り返し書かれていた……つまり、あまりマナーが行き届いていなかったようだ


○騎士社会には服装の「流行」があった。

(1)中世初期には、貴族はエキゾチックな、特にビザンティン風の絹の服を好んでいた
(2)聖人たちの伝記では、地味な服装はしばしば禁欲的生活の象徴として讃えられた……貴族は派手好きが普通だったようだ
(3)カール大帝は、外国の(派手な)服よりもフランケン地方の民族衣装を好んだという。しかしハレの行事には「金糸を織り込んだ服を着て、宝石を散りばめた服を履いて悠然と歩いた。マントには金の留め金が使われ、頭には金と宝石で飾られた定冠を戴いていた」
(4)中世盛期の諸侯の宮廷では「詩人たちが最新の(もっぱらフランスの)流行の服をしばしば細かいところまで叙述し、聴衆はそれを聞いて喜んでいた」


○貴族の退屈しのぎのトップは「狩猟」だった。「狩猟にかまけて日曜日の礼拝を怠らないよう」教会が注意したほどだった。

(1)森林の狩猟権は領主が所有し、鹿狩り・猪狩り・熊狩りは領主の特権だった
(2)狩猟には「領民に地位と支配権を示す」「身体の訓練」「肝試し」という意味があった
(3)調教された鷹を使った狩りは、特に趣があるとされた


○城内では様々なゲームが人気だった。

(1)ダイスゲーム、磐上ゲーム(高価な、宮廷や文学作品の場面を描いた駒を使った)、トリックトラック(双六の一種)、チェッカー、チェス(城でのみ行われたのが特徴)など
(2)「戦う騎士の操り人形ゲーム」をする2人の少年を描いた細密画(12世紀末)が伝わっている。どういうゲームかは不明
(3)目隠し鬼ごっこ、標的ゲーム(紳士淑女が片足を上げ、お互いにぶつかり合って相手をひっくり返す)、目隠し鬼(男性が女性の膝に顔を伏せ、誰が自分をぶったのかを当てる)といったパーティーゲームも好まれた



【 宮廷・吟遊詩人・祝宴 】


○中世の祝宴はよく語られるが、無論ひっきりなしに開催されていたわけではなく、結婚・即位・旅や外征からの帰還・教会の重要な祝祭・若い騎士の刀礼など、開催する「きっかけ」が必要だった。

(1)華麗で豪奢というイメージは、少なくとも中世初期には部分的にしか現実とは一致していない。後の時代でも、せいぜい大宮廷での出来事だった
(2)きっかけがあれば、中世初期には司教が祝宴を張るのは当たり前だった。批判されたのは、豪勢さが度を越した場合だけ(例:皇帝を上回るような祝宴)
(3)宮廷では、音楽は祝宴だけでなく、普通の食事中・入浴時・旅の途中にも欠かせなかった
(4)中世には宮廷の娯楽として、文学作品の朗読を聞く・踊る・役者の演技や曲芸師を見る、などがあった
(5)娯楽の構成員には他にも、吟遊詩人・道化師・奇術師がいて、彼らは人目を引く色とりどりの服を着て現れた


○吟遊詩人は「自分や他人の作品を朗読する詩人」「物語の語り手」「たいてい自作のいくつもの楽器を使いこなす演奏家」等々を兼ねていた。

(1)最も好まれた楽器は、竪琴・リュート・三弦のバイオリン・フルートだった
(2)29種の楽器の存在が知られている。ひとつひとつ鐘を使った鉄琴・ オルガンの1種・角笛・太鼓・ツィター・1弦の琴など
(3)さらに吟遊詩人は「役者」「踊り手」「綱渡り師」「曲芸師」「奇術師」「猛獣使い」でもあった
(4)器用な彼らの中には、ナイフ投げ・操り人形を踊らせる・4つの輪を飛び抜ける・鳥の声を真似る・犬や猿を調教する、者もいたらしい
(5)悪口を言ったりからかったりする「道化師」は、中世初期には吟遊詩人が兼ねていた。中世盛期以降には、道化衣装を着け、風変わりなもの=世界を象徴するガラス玉が先に付いていた笏を手にした「宮廷道化師」が登場する
(6)多才でしかも各人が独自の芸をもつ吟遊詩人は、宮廷から宮廷へと渡り歩いた。これによって彼らは「宮廷のおしゃべりのための情報屋」の役割を果たした(フランスの宮廷でのファッションをドイツの宮廷に伝える、など)
(7)宮廷を渡り歩いた吟遊詩人の前身は、古代ゲルマン時代の歌人にして竪琴弾きである「スコープ」だった。それが11世紀に特にフランスにおいて重要性が高まり、吟遊詩人たちが寄り集まって、1つの職業グループとなった
(8)彼らは零落した下級貴族出身者や、市民・下級聖職者出身者もいた。後には自分たちの中から後継者を出すようになった
(9)彼らの大方は法の保護を受けず、財産もなく、貴族の保護を頼りにしていた。彼らへの報酬は貨幣・食事・宿泊・衣服・楽器から、馬・推薦状まであった。しかし、土地所有を伴う授封(封土を授ける)は例外だった
(10)彼らが外交使節団として使われることもあった
(11)数多くの諸侯が、自ら吟遊詩人と呼ばれたがっていた
 〔例:アキテーヌ公ギヨーム9世は、初期のミンネゼンガー(宮廷恋愛歌人)に数えられた〕
(12)教会は「芝居やそれに類する出し物を原則として受け入れなかった」「数多くの吟遊詩人に悪評があった」ことから、吟遊詩人を否定的に見ていた。しかし後には、司教の宮廷が騎士の宮廷と本質的に変わらなくなったのだから、この公式の態度は矛盾していた


○宮廷の祝宴のクライマックスは「馬上試合」であり、食事・音楽・踊り・出し物は前菜とも言える。フランスでは11世紀後半、ドイツでは1127年に初めて存在が確認される。

(1)これは「武具を使った訓練」「スポーツ」「騎士と騎士社会の自己表現」だった
(2)開催場所は狭い城では無理で、大宮廷だけ。中世後期には都市が好まれるようになる
(3)古代の団体格闘競技を起源とし、そのルールは時とともに出来上がっていった
(4)特に初めの頃は、競技というよりまだかなり実際の騎馬戦に似ていた。だがその場合、勝利は重要だったが相手を傷つけることは問題とされなかった
(5)刃の鈍い武器で戦われることもしばしばだったが、それでも多くの負傷者がいた(特に挫傷と骨折)し、死者を出すこともあった
(6)戦闘形態はいくつかあったようだが、特に「集団武芸試合(騎馬戦の模範を示す)」「2人で槍を使って行う馬上試合(登場したのは遅かった)」が多かった
(7)敵が馬から投げ出されると、試合は剣を使って、相手が放棄するまで続いた
(8)後になって、もっと危険の少ないバリエーションが登場した。
 「例:馬で駆け抜ける際に、棒に引っ掛けてあるリングを自分の槍で刺し通すor支柱を刺して、それが何回出来たかを競う」
(9)一騎討ちの場合、敵味方に分かれるのが普通だったが、そうしたグループ分けを越えて「個人の名声」が問題となり、騎士は称賛されるようになる
(10)叙事詩の中で、勇者たちは旅を続けながら馬上試合で勝利を重ねて自分の名声を高め、そして宮廷の観客である「意中の婦人」の愛顧を期待した
(11)すでに12世紀以降には、没落騎士にも刺激となる賞金について言及されている
(12)馬上試合はたいてい何日も続くが、参加申し込みが出来るように、前もって通知する必要があった
(13)後に馬上試合は「馬上槍試合」に代わっていく


○フリードリヒ・バルバロッサが帝国会議に際して、マインツのいくつもの城門の前で1184年の聖霊降臨祭に開催した「宮廷の祝宴」には、帝国の至る所から諸侯が封臣を連れてやって来て、合計70000人以上の騎士が参加したという。祝宴は「祝祭時の載冠式」「宴会」「皇帝の2人の息子の刀礼(これが祝宴のきっかけだった)」「騎士や十字軍の参加者などへの贈り物配布」「馬上試合」と続いた。


『中世の日常生活』H・W・ゲッツ(中央公論社)<10>