【 コミュニケーション 】


○聖と俗のコミュニケーション

(1)中世の人口の約9割は田舎に住み、ほとんどは読み書きが出来なかった。そういう人々にキリストの教えを説く1つの手段が、教会内部の窓ガラス・彫像・祭壇画など、圧倒的な「色と光の芸術」だった。字が読めないから芸術を用いたのだが、それは偶像崇拝に転化しかねない
(2)聖職者は、わかりやすい教義・理解されやすい礼拝に向けて相当努力した。写本は「言葉と絵の共同作業」であった
(3)礼拝の儀式も、民衆たちが歌い踊るのと同じように、音・歌・身振りで生来の喜びに応えようと努力していた。教会の外では、お上の布告者の告知・公判・祈祷行列で語られた言葉、聞かれた言葉こそが大事だった
(4)修道士にとって言葉こそが基礎にある。小礼拝堂で修道士たちは、早朝の寒さの中、最初の賛歌を響かせる。それは回廊を巡り、門を抜けて響き、外の街角や壁へ消えていく。あるいは食事中や食後の朗読や、夕食後に義務づけられた聖句朗読の響きがなければ、中世の修道院を考えることはできない


○世間でのコミュニケーション

(1)コミュニケーションは口頭文化に支配されていた。村人たちにとって、旅の楽士・商人・見知らぬ人の訪問は、日常ありえない驚きや感動を与えた。祭りに旅役者でも来れば、子供たちは役者のセリフに耳を傾ける
(2)声に出して読むことが普通であり伝統的だった。1人で読む時も声を出すので、秘密の手紙の時には「1人で読むように」依頼しなければならない。黙読は例外だった
(3)宮廷ロマンも朗読会で聴衆に語り聞かせた。朗読会をやり遂げられるよう、物語を削減したりすることもあった
(4)記憶力は1つの技術だった。読み書きができない俗人でもいくつかの祈祷は暗記できた。社会的地位が上がるほど、暗記する聖俗のテキストは増えていて、その範囲は相当だった


○中世では人は集団で考え、集団で物事を知った。

(1)「芸術を享受する」ことは常に社交的出会いだった
(2)劇場では舞台上の人物と観衆、舞台のエプロンと客席の区別は全くなかった。謝肉祭劇を演出するニュルンベルクの職人たちは、じかに客間へ入っていった
(3)広場での受難劇では、まわりを観衆 が囲み、演者の手の届く位置にいた。人々は四季のリズムで共演した。復活祭劇が最初で、次には今日の見物人が役者になる
(4)貴族社会でも事情は同じだった。「彼がこの章の出来事でどのように馬を走らせたか/私が語るのをお望みなら/どうぞ黙って、行儀よくお聞きいただきたい」。ざわついた聴衆をこう言って集中させた
(5)朗読は「歌いかつ踊る」感じだったらしい。また物語の1章を読み終わると「聴衆が陽気に歌い躍り出し、楽士がやって来てヴァイオリンを演奏する」ことで、朗読が中断されることもあったようだ
(6)朗読したのは詩人(作者自身)、ヴァイオリンを弾く職業的な歌手や語り手だけでなく、冒険譚の場合は騎士自身(普通は聞き手と考えられていた)も語ったらしい。聴衆が語り手に回り、聴衆の創作がこうして物語の中に取り込まれたり、逆に意図的に一部を欠落させたらしい。つまり1200年頃には、かなり多くの貴族や騎士が読むことが出来た



【読み書きのできる人たちについて】


○長い中世の間に、文字をめぐる環境は著しく変化した。

(1)カロリング・ルネサンスの時代には「読み書きを学ぶ=ラテン語の読み書きを学ぶ」だった。社会的に見れば、ラテン語のできる修道士か聖職者のグループと、文字にもラテン語にも無縁な平信徒のグループに分かれる
(2)文盲率を推定するのは難しい。極端な例ではザンクト・ガレン修道院の場合、カロリング朝文化で輝き、さらに人々が初めてドイツ語で書いた(ノートカーのことか?)のだが、1291年には修道院長・司祭長・9人の修道士の誰1人としと貸与証文に署名出来なかった
(3)人々は字を書ける人と付き合うことで手紙を書いてもらえた筈だし、たとえ少しであっても聖職者の助けを借りて読むことも出来たかもしれない。13世紀末には「読むための」本が書かれたのは確実
(4)やがて都市や市民階級は、商業に要する知識を求めはじめた。まずは都市のラテン語学校に平俗語が入り込み、日常語での授業が聖職者の教養独占を打破した。文化の世俗化が起こり、13世紀にはラテン語のできない教養人が現れた
(5)この時に深く読書し学校教育を受けた詩人は、いわば「職業作家」となった
(6)貴族や騎士に加えて、市民が教養人の仲間入りをし始める。13世紀に商人の書面主義が始まり、14世紀には諸都市で商業帳簿が見られる。様々な「市民の本」の言葉の端々に、聖俗文学からの引用が現れた。
(7)しかし中世後期に至っても、学生には文盲がいた。それゆえ当時の大学の講義の重要部分は朗読によった


○教養の担い手

(1)No.1は聖職者・修道院だった。しかし1400年頃までは、司祭も多くは読めるだけだった。下級聖職者ともなれば、さし当たりミサをあげ祈祷を唱えられれば十分だった
(2)托鉢修道会の教養の程度は全く異なっていて、中世における多面的な教養の発達には寄与しなかった
(3)No.2は騎士。ホーエンシュタウフェン期の文学が彼らの「成長」を示している
(4)No.3は女性。特に俗語による宗教文学は女性のために作られた。中世後期になると、女子修道院ほど多くの文学が読まれ理解された場所はない
(5)女性同士で手紙が渡って「読書サークル」のようなものまで生まれ、中世末期になると書き手にとって女性は、あらかじめ読者層として考慮される対象となった
(6)教養の担い手のNo.4は市民-正確には都市の学校


○諸々の学校

(1)13世紀半ば頃から、どんなに小さな都市でも俗人のための学校があった
(2)教室は粗末で、工房のようか(空気も太陽も十分入ってこない)地下室に似たもの
(3)生徒は小さな腰掛けか粗末なベンチに坐り、教師は少し高くなった席に坐った
(4)筆記用には、削って蝋を滑らかに塗り込んだ板を使い、表面に木or金属or象牙の尖筆で書くことができた。中世末には石盤が登場し、白墨か金属の筆で書いた
(5)教師の象徴は鞭だった。書くときも歌うときも間違えれば鞭を振るった
(6)祈り・聖歌・聖書の言葉を覚えることが、読み・書き・計算と並んで重要だった。しかしここでは生活に役立つ知識の教育が優先された
(7)宗教学校の場合は、以前の一般教養機能は新たに栄えている大学に任せ、教会の準備学校になった。
[例:ヴィーン・ノイシュタットの教区と共同で設立された市民学校の教師は、生徒に合唱を教えて聖歌の指導をしなければならない。教会で歌うものを練習する・ラテン語の授業をする・食事は共同・学校は礼拝に加えて埋葬式にも参加しなければならない、という特色があった(15世紀の規則から)]
(8)市立の女学校が、修道院学校と並んで13世紀にはあったらしい
(9)たいていは庶出の子でも、嫡出の子と全く同様に教育を受けられた
(10)村や田舎では先生を雇えないから、どの世代でも文盲が育つ。その点が宮廷・聖職者・都市とは違う


○文学は「組織化」されるようになった。

(1)ホーエンシュタウフェン時代には詩人は互いに関係を持つようになる
(2)ある程度まで、方言を越えた文学的標準語も誕生した。さらには詩人と作品の規範も発達する
(3)職匠歌人ハンス・フォルツは、初めて自分で出版社を所有し、自分の作品を刊行した
(4)自分の作品を自分で集成としたり、入念に装丁した自分の歌の全集を遺す者もいた


○文学が商業ベースに乗るようになった。14世紀には書く道具として紙が導入されたことも寄与していた。

(1)ある店では、絵入りやそうでない写本を買うことができた
(2)印刷術もこうした素地から誕生し、1500年までに約100万冊が印刷された
(3)15世紀末の読者層について、ある推定では「ドイツの全人口1300万人、うち150万人が都市住民、そのうち上流階級と読者層は75000人」という
(4)具体的には、市長・役人・商人・遍歴学生・学生・手工業者といったところ
(5)本の供給者=筆耕者は極めて重要だが、だからと言って満足な生活では決してなかった。彼らは15世紀の写本ブーム(中世から伝わる写本の70%以上は15世紀のもの)から利益を得たであろうが、しかし印刷術の登場で4万人以上の筆耕者が失業したと言われている
(6)『ベリー公の時祷書』を飾っている有名な細密画の画家には、修道士や敬虔な修道女は発見されず、信心とはあまり縁がない生活を送っている手工業の職人ばかりが出てきた


○中世盛期以後、人々は本を集めるようになると、本がアイテムとして進化する。

(1)13世紀の読むための写本は、16~17cm×10~12cmサイズで、あまり入念な書き方ではなく、一般に装飾はない。放浪歌人の背嚢に入ってたかと思わせる、粗悪な羊皮紙に書かれた『ニーベルンゲンの歌』が残っている
(2)14世紀からアルプスの北では、楽に持ち運びできるよう製本する習慣が現れる。そのために皮布を張り、角の重なったところを留め金or帯についた結び目で一緒に固定した
(3)本袋は、かご目で彫金した真鍮の装飾や留め金を付けたりして、高価な芸術品にまでなった
(4)本に使う合い鍵が作られ、鎖につないだ本を買った市民は部屋に保存した
(5)図書館はかなり早くからあった。パリには1300年頃に公共図書館が存在した


○読書は、昼間は窓から入る日光を最大限に活用(読書台を斜めにした)した。暗い時には乏しいながらも、ろうそくを使った。大型で厚い写本の場合、立って使う高脚机を利用した。中世末によくある比較的小さい写本用には坐り机があった。眼鏡は13世紀末に出現したが、写本の読書に使われたかどうかは不明(重要になるのは印刷が始まってから)。


『中世ヨーロッパ生活誌』オットー・ボルスト(白水社)<12>