こんばんは 日曜日の坂道探検の続きです
この数か月 坂道探険行かなかったら リョーの奴 体重が3.4キロになっちゃって
今までの服が ぜ~んぶ着れなくなっちゃったんですよ
うちに来た当時は 2.6キロだから この大きさのワンコで 800g太るって事は かなり
太った事なんですよ
リョーのダイエットの為にも 坂道探険は続けていかないとダメですね
続きの坂は 千石・大塚の不忍通りの坂道3坂です
味気ない大通りの坂道なので ざぁ~との紹介っす
猫又坂
猫又橋があった跡ね
【標識の説明】
不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸か、とあわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。
大通りの坂だけど 云われは なかなか面白い
白鷺坂
【標識の説明】
このあたり一帯は、かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は、池を中心とした伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが、「古木老樹がうっそうとしげり白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである」とは土地の古老の話である。
この白鷺にみせられたアララギの歌人古泉千樫は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。
明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため往時をしのぶものもなく、そこにできたこの長い坂道にも坂名のないままであったが誰れいうとなく白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。
大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。
鷺の群 かずかぎりなき鷺の群
そうぜんとして寂しきものを 古泉千樫(1886-1927)
猫又坂の対面にある坂道です。坂は長く大塚三丁目の交差点まで続きます。
このあたり一帯は、かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は、池を中心とした伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが、「古木老樹がうっそうとしげり白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである」とは土地の古老の話である。
この白鷺にみせられたアララギの歌人古泉千樫は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。
明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため往時をしのぶものもなく、そこにできたこの長い坂道にも坂名のないままであったが誰れいうとなく白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。
大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。
鷺の群 かずかぎりなき鷺の群
そうぜんとして寂しきものを 古泉千樫(1886-1927)
猫又坂の対面にある坂道です。坂は長く大塚三丁目の交差点まで続きます。
標識(文京区教育委員会)の説明】
坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸時代の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。
とりかごをてにとりさげてもわがとりかひにゆく
おほつかなかまち 会津八一(1881-1956)
この道を行きつつ見やる谷越えて
蒼くもけぶる護国寺の屋根 窪田空穂(1877-1967)
初めて 護国寺観ました
中は 今回入りませんでした
ゆっくり観る余裕がある時に じっくりと行きたいですね
今回は 門だけ
晩酌しながら ブログ書いてると 画像みても
どれが何坂なのか わかりません・・・・
不忍通り かなりアップダウンある大通り
たくさんのランナーとすれ違いました
こんだけ坂の多い文京区 足鍛えられるんだろうなぁ
リョーとトコトコ坂散歩も楽しいけど
走って坂探検したいなぁ~
後 3坂 明日は お仕事の後 お芝居観に行く約束があるので明後日かな
どうも、金曜日は雨みたいですね
御近所の方々と 奥多摩にハイキング行く予定だったけど
雨だったら中止だよね
ほんじゃ おやすみなさい