父の兄「拓」


拓は、フイリッピンで戦死した、まだ、25歳ぐらいではなかっただろうか。
陸軍に所属していた。
おシズの次男である。


終戦後に、有田で焼かれたか、唐津で焼かれたか、瀬戸物でできた、お墓と、一緒に、送られてきたのであろうか、、家の者が焼き増ししたのであろうか、額に入った、拓の軍服の、遺影が仏壇横の鴨居でにこやかに微笑んでいる。


私の知ることのできるたった一枚の写真である。


ハツヨは、よく言っっていた。
「父ちゃんより、だいぶ男前やったね~」
確かに、軍人の服に制帽は、大方の人を、数段かっこよく見せてくれる。


この小さな村の中でも、「拓さんは、誰よりかっこよかった。」 と、知る人はいう。
まだ若い青年である。


ハツヨは、毎日、御佛飯をあげながら、こんなことも言った。
「父ちゃんは、海軍じゃきね、水兵帽にセーラー服、あの白い服がよかね、、。」
「拓さんの隣に、並べんとね。」 と、自分の方が長生きするものと信じて、父の遺影のことを、しゃべっていた。



叔父「拓」 の、話は、いろんな人がしていく。


拓は、旧制中学の先生であった。
17歳で、師範代に合格した。


その17歳の少年は、そのまま、村の旧制中学の先生になった、、、。
17歳の少年が、14,5才の生徒の教鞭をとっていたのだ。
現在では考えられないことである。


それは、戦時下の特例ではない、、昔の日本では、今に言う 「飛び級」 が、あった。
その拓先生の生徒だったという人が、今でも村には、結構健在でいる。



父は、よく言う。
「兄貴は、勉強一筋、先生といえど、先生の給料なんか、ほんのちょっとしかない、、本や、参考書を買ったら、もうほとんどなかったよ。」
「ミツシ、ちょっと小使いをくれんね、、。」 と、3歳も年下の俺から、お金を持っていった。
「そのほとんどが、本代になっていった。」
「俺は、勉強のことなどちっとも分らんたい、兄貴の本の1ページも開いてみたことがないっちゃね。」



父の従兄弟に、校長まで勤め上げて亡くなった人がいる。{西先生}


私たち兄妹も、その西先生に、「英語」をおそわった。
西先生は「教頭」として、また、英語の教師として村の中学に来ていた。


西先生は、家にもよく来た、、その度に話をしていた。
「拓さんは、僕と同じ年、拓さんが、突然師範代を受けに行くと言い出したときは、子供の冗談だと思ったよ。」
「一発で、合格してきたつよ。」
「僕もずっと学校の先生になるのが夢だったからね、、拓さんに出来たのだから、自分も出来るって信じていたよ。」
「僕も拓さんに負けん位、勉強した、と、今でもおもっているよ。」
「僕は、高等科に行っていた、、拓さんは、旧制中学を出ただけだよ。」
「結局僕は、高等科を卒業して、2年も浪人して、やっと、師範代に合格したつよ。」
「今でも、、いつも、、追いつこう、追いつこう、と、、、僕は、拓さんが目標だった。」



この「西先生」は、教師としての最後に、「ナイジェリア」の、日本人学校の校長として、5年間赴任している。
帰国して、一冊の本を、自費出版した。
「ナイジェリアの民話、阿蘇の民話」
西先生は、本を持ってきて、、
「僕は、英語の教師一筋に、ずっと努力してきた、自分の英語力は、世界でどのくらい通じる物か、知りたかった、、、僕たちの世代では、誰にもまけんぐらい努力したつよ、、。でもまだまだやね、、」 と、笑っていた。


それから何年もしないうちに、亡くなられた。



叔父「拓」も、英語の教師をめざしていたのではないかと、思える。


私は、小学校の4年のころ、自分の部屋がほしくて、2階の、完成もしないまま物置になっていた部屋を、こつこつと片付け、掃除をした。


そこからは、どこから取り寄せていたのか、きれいに畳まれ、丁寧にくくられた英字新聞が、5個もあった。
当時9歳の私は、自分の部屋がほしいばかりで、自分に必要のないものは全部捨てた。


唯一つ、拓の作った文机だけを残した。
その文机は、14歳で、実家を出るまで、私の勉強机になった。


今でも、実家のどこかにあるはずだ、、。
ひっくり返せば、そこに、製作日と、拓の名前が、濃い墨字で書かれている。



今から、15年ぐらい前に、妹のヨシコが、1冊の科学の教科書を、持ち帰ってきた。
「役所の上司が、これをかえしますって、、もってこられた。」
拓先生に、お借りしていました、、と言う。


自分のなくした教科書の代わりに、拓先生が、貸してくれた、、。


こんなこともいったと言う。
「同じ苗字のあんたに会わなかったら、この本は僕に宝物のままだった、、拓先生は、僕たちと、3歳しか違わんかった、、僕たちの憧れだった。」


そういいながら、教科書のにおいをかいで、両手で、その存在を記憶するように、おしいだき、渡されたのだという。


科学の教科書といっても、中学高学年用ぐらいで、ページをめくると、小さな丁寧な字で、書き込みがいたるところにしてあった。


拓の、教師としての情熱が、十分すぎるほど伝わってくる。


父も、書き込みの字をなぞりながら、
「兄貴の字、、間違いなく兄貴の書いた字、、」 と、ゆっくりとページをめくった。



私の実家は、私が生まれた年に完成したと聞く。


戦死した拓は、その時はもうすでにいない、、拓の親である、おシズや福人は、拓の遺品でもある、英字新聞の束を大切に持ってきたのであろう、、。


でも、何も分らない、9歳の私は、捨ててしまった。
別に、田舎の家、、狭いわけではない、保管する場所は、どこにでもあったのに、私は捨てた、、。



今でも親しく、尋ねてきてくれる人の一人は、
「僕も、拓先生の生徒だったつよ、拓先生は、こわかったよ!、教壇におっても、子供が子供を教えているぐらいしか、年も離れとらんかったけどね、、。」
「今で言うたら、ヒーローやね、、女子も、男子も、みんなあこがれちょったよ。」
「少なからずとも、みんな、ちょっとは勉強したと思うよ。」
「この僕でさえ、いつもより、がんばったたい。」
と、今でも、お盆には、必ず、仏壇横の鴨居に掲げてある、拓の写真に手を合わせ、しばらく仰ぎ見て、そんな話をしてくれる。



一つの家系の中で、一人ぐらいは、知る人ぞ知る、「偉人」がいてもいいだろう。


一人ぐらいは、手放しで自慢できる人がいてもいいだろう、、。


その声も、その言葉も、その姿も、知ることはできないが、
拓の作った文机で、、拓が向かっていたその文机で、、



私も、小学校の3年間と中学校の2年間、そこで学習した、、。








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「最後の言葉」


読んでいただきありがとうございました。

このオーロラの壁紙が、私の未熟さを、補ってくれたと、感謝しています。

次のものを書く用意は、出来ていますが、

このページは、このオーロラのまま残したい、、と、思っています。


壁紙を変えて

新しいブログネームで、再スタートします。

また、お会いできれば、幸いです。


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母今子の妹、「久子」


私が最後に叔母の久子に会ったのは、6月に亡くなった、母の初盆の前ではないかと思う。


母今子が亡くなった時、私は3歳9ヶ月、、、育て母ハツヨが嫁の来たのが5才になったばかり、、その1年2ヶ月間、自分達がどのように生活してきたのかは、残念なことに、まったく覚えていない。


そんな自分が唯一記憶にあるののが、久子とのほんの10分ぐらいのことだけである。
大人になって、さらに今現在回想してみると、、、、


久子は、明らかに人がたくさん集まる時を避けていたと思える。
朝のバスで来て、夕方のバスで帰っていった、、そんな感じであった。


台所に立っている様子もイメージできない、、、
兄たちと話している絵も浮かんでこない、、、
家に誰もいた記憶がない、いつもいるはずのおシズの姿さえ、思い出せない、。



そんな中で、ほんとに唯一つ、覚えていることの一つ、、、


昔の実家は、お風呂が別棟になっていた、建物は地面より、20cmほど盛り土をして、建ててある。
母屋と、湯殿との間はわずか、4mほどしか離れていないが、、雨が降った時など、地面に下りなくていいように、渡し板がしてあった。


その渡し板は、通り道だけにするのでなく、いろんなことに役に立っていた。
農作業後の道具を洗う台になったり、土のついた野菜を洗う台になったり、、


一日の終わりを、その幅60cmの、長さ4mぐらいの板は、ずっと私たちを見てきた、。



その、渡し板の上にパンツ一つで立たされた私は、久子に、「たわし」で、ごしごしとこすられていた。
その時の久子の言葉、、


「田舎の子は、ほんと汚い、、」


と、笑顔も、優しい言葉一つも、、、まったく覚えていない、、。
覚えてていることは、4歳になろうとする私にも、「屈辱」 だと、感じたその 「田舎の子は、ほんと汚い」という言葉と、
「たわし」で、こすられる、痛さを我慢したことだけである。


私は汚かったわけではない、、7月、8月の夏である、、、足や手が、日に焼けていて黒いのは、当然である。
その日焼けした、手や足は、特に何回もごしごしと、こすられた。


痛さに身をすくめると、ぐいっと引っ張られて、さらにごしごしこすりながら
「田舎の子は、ほんと汚い、、。」
を、独り言のように、はき捨てるように何回も、つぶやいた。


叔母「久子」は
兄たちが、学校から帰ってくるのも、父が、仕事から帰ってくるのも、待ってはいなかった、、、


ともにご飯を食べた記憶も、優しい言葉の一つも思い出せない、、。
どんな後姿を見せて帰っていったのかも、まったく頭に浮かんでこない。


そんな私が、もう一つ記憶していたことがある、、、
久子の職業、、「スチィワーデス」 当時の私には、あの空を飛んでいる飛行機の中で、どんな仕事をするのか、まったくの謎であった。


当時は、まだ、スチィワーデスなどという言葉も普及していたわけでも、職業として今のように確立されていたわけではなかっただろうと思う。


航空会社も、全日空や、JALのようなところではなかった。
おぼろげながら思い出せるのは、歩いてきたときの姿、、、
うちまきヘアーに、紺色のタイトスカートのスーツ、、
それは、制服だったのではないかと、今では思える。


あこがれたことも、、、同じ 「血」を持つ心が、恋しいと思ったこともない。
それ以後、一度も、会うことはなかった。





母今子の妹「久子」で、思い出したこと、、、、


4歳の誕生日を間近に控えた私の心を傷つけたその屈辱の言葉、、



「田舎の子は、ほんと汚い」


その言葉と、湯殿の渡し板の上の、パンツ一枚の小さな自分、、、。










最後に


私は、私とかかわりのあった人や、心に残っている人達の、私の聞いた 「最後の言葉」 を、つづってきた。



ちょっとしたきっかけで、バンコクで仕事をすることになり、単身赴任の私には、思いがけない、自分の時間が、たくさんできた。


人生折り返し地点もだいぶ過ぎて、自分の思いを一つのテーマを通して記録してきた。
それは自分自身ということではなく、過去帳のようなものとして、残しておきたかった。


私と、 『血』 を、共有する人たちに、その過去の人達の記憶も、伝えたいと思った。




ただ漠然と、未熟すぎる作文に、毎回、100人ぐらいの人たちが、定期に読んでくれた事、に感謝している。

100人といえど私にとってはすごいことである、顔も知らない、あったこともない人たち、、、
誰かか読んでくれていることで、途中で放棄することもなく、書くことができた。


私は、こんな物を書いていることを、誰にも知らせていない。
知る方法はいくつもあるだろう、、が、自分から伝える意思はない。


まだ現存の人のことを書くのは、素人の私ではとても、難しい、、、
だけど、真実に基づいて、ありのままを、記述してきたつもりである。



後、二編を書けば、完了する、「最後の言葉」、、



ただ、もう90歳になった、父だけは、読んでほしいと思っている。
近い日に、これをもって、実家の阿蘇へ、、、、父に会いに行くつもりでいる。


私と、この思いを、共有できることを信じているし、まだまだ聞きたいこともたくさんある、、、父の想いなども織り込んで、、今一度、挑んでみようと思っている。


事実はもとより 、「90年の人生を、こんことを思い、こんな心で生きてきた、、、」 と、父の生の声で聞き、その表情を見て、、父の 「残してほしい言葉」 で、、綴ってみたい、、。



私の知っている、58年の日本のごく普通の生活、、過疎の村の生活、、人がたくさんいる都会だけが、日本ではない、、、高度成長期の真っ只中で、生きてきたその時間の変化も、、、、、残せただろうか。



番外二編


叔父「拓」


今子の妹「久子」