予科練の制服

七つボタン」と「桜に錨」の本当の意味は「チャクラ」、そして「悟り」を沈める?!​​​​​​​

 

父は海軍飛行予科練習生(略称:予科練)の甲飛六期生です。 父はあまり家で軍歌を歌うような人ではありませんでしたが、軍歌のレコードはあったように記憶しています。それに昭和34年生まれの私が小学生時代(昭和40年代)にはテレビやラジオから、たまに軍歌が流れてきて、その歌詞を自然に覚えてしまうものでした。 

 「若い血潮の予科練の、七つ釦は桜に錨~! 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く」いまでも諳んじられるほど記憶に深く刻まれているフレーズです。

 

予科練の制服は最初から7つボタンの短ジャケットではなかったようです。甲飛の応募資格は海軍兵学校の応募資格(旧制中学校4学年修了程度)と遜色なかったために、海軍の新設航空士官学校との認識で、兵学校相当の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵団で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も通常の水兵服であったそうです。それらの低待遇に失望した生徒が、母校の中学後輩に「予科練は目指すな」と愚痴をこぼすまで問題になったそうなのです。

そこで予科練の人気を高めるために、昭和17年(1942年)11月1日に、飛行予科練習生(予科練)並びに飛行練習生たる下士官及び兵の特別の服制が定められ、軍楽兵と同様の短ジャケット7つボタンに下士官型軍帽を制定したそうです。

 

冒頭で紹介した「若鷲の歌」(わかわしのうた)は、戦意高揚映画『決戦の大空へ』の主題歌で別名が「予科練の歌」です。翌年の昭和18(1943)年9月10日に発売されました。

 ちなみに甲飛六期の父の入隊は昭和15年4月1日です。昭和16年9月30日、海軍甲種予科飛行練習生教程卒業し、第21期飛行練習生として鈴鹿海軍航空隊転属。昭和17年8月25日飛行練習生教程卒業し、昭和17年12月10日、航空母艦 冲鷹(ちゅうよう)に乗艦し南方の最前線に向かっておりますので、この7つボタンの制服には全く縁がなかったということを今日初めて知りました。

 

 さて予科練の制服は何故7つボタンなのか?

 

茨城県にある予科練平和記念館のホームページには、「『七つボタン』は世界の七大洋を表したもので、海を越えて大空を駆け巡る大いなる期待が込められている」とありました。

 

ところがある日、能力の高い霊能者と言いましょうか、覚者(かくしゃ=真理を体得した人)と呼ばれる上江洲義秀先生という方が

「予科練の七つボタンは七つのチャクラを表している」

とおっしゃったというのです。

 

チャクラとは、ヒンドゥー教のヨーガでは、多くの説では、まさに身体の7箇所、人体の頭部、胸部、腹部にあるとされ、輪または回転する車輪のように光っているように感じられると言います。

 

そしてボタンに描かれた日本海軍のマークである「桜」と「錨」は、一般的には、まさに日本を象徴する花である「桜」と軍艦が下す「錨」もモチーフにしたと思われると思われます。

 

しかし上江洲先生は

「桜」は「悟り」を表し、大海に「錨」を持って、その「悟り」に錨を落とすことを示しているとおっしゃたそうなのです。

 海軍のマークを考えた人も予科練の制服のボタンを7つと決めた人も(遡れば軍楽兵の制服のボタンを7つと決めた人も)こういうことが良く分かっている方であるかも知れません。

もしそれが本当なら、いやこれは本当かも……真偽のほどを確かめる術は、ありません。

 

とある、予科練の生活について

 

年令16歳で三重航空隊奈良分遣隊へ大東亜戦争最後の6月に入隊。

兵舎は天理市の天理教の建物でした。終戦も間近な頃で、飛行機は練習機もなく、正に翼なき予科練でした。

 毎日、爆弾を抱いての対戦車突入の訓練と、防空壕作りの連続でした。入隊後は、呼び名も「貴様と俺」。階段は2段ずつ飛び上がり飛び降り、歩行は速足、何事も敏速に、自分の事は自分で。

 

 わが班は72分隊第6班、班長以下40名。何事も負けることは許されず、一人の反則でも「連帯責任」で、罰則が待っています。まず班長の精神棒(約90センチの樫の棒)で、倒れるほどになぐられます。また、「歯をくいしばれ!半歩開け!」の号令で、頬をちからいっぱい叩かれ、よろめくと、反対側からの往復ビンタです。「前列廻れ右!」で、対面しての叩き合い、少しでも手心を加えると「だめだ!班長が手本を示す」と、またなぐられます。

 ある日、2階の廊下から水が洩ってきたので「何だろう?」と見に行ってきた者の話だと、3名がなぐられて気絶し、頭から水をかけられていたとのことでした。このようにすべてが「絶対服従」です。 その後、兵庫県の姫路航空隊に移りました。今m度は板の間の本物の兵舎です。甲板そうじの一例ですが、まず全員が一列に並び、班長の号令で、雑布を手に30メートルほどの板の間を、数回往復するのです。疲れが見えてくると、今度は競争です。

 1回目は先着10名が1回で休み。それを2回、3回とくり返して、最後に残りますと、動けなくなるまでくり返されます。こんなことから「負けじ魂」が育成されていったともいえるかも知れません。

 入隊後、役に立ったことの一つは、手旗信号を覚えたことでした。はじめは大変でした。夜も勉強、毎日が夢中でした。何しろ月月火水木金金の連続で、日曜はありません。

 

まさに奴隷の過酷な生活。徹底的に管理監視され洗脳され続け、激しい言論統制の中、生きる希望はもはや無いに等しい。

戦争屋たちは世界中にあちこちにタネを撒いて、何度も仕掛けてくる。人と人が国と国がいがみあい憎み合い、同調圧力、陰謀論、利権、巨大なサギ、金のにおいでペテン師達がハイエナのように次々と群がる。