湯川秀樹

 

ノーベル賞湯川博士の終戦前後の日記が見つかる 原爆研究に関与の記述も

戦時中には海軍の依頼で京大の物理学者らが原爆研究に動員されたが、

6月23日付には「F研究 第一回打ち合わせ会 物理会議室にて」と記され同僚らと出席したとの記述あり。

 

広島に原爆が投下された翌日の8月7日付には「(新聞社から)広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」とあり、複雑な心中をうかがわせる。戦後の9月には広島と長崎の原爆死傷者数などを詳細に記している。

 

博士は9年、ノーベル物理学賞受賞につながる中間子論を発表。終戦後しばらくは沈黙を守り、核兵器の廃絶などを目指した平和運動に携わった。日記は京大湯川記念館史料室のホームページで公開していた。

 

藤原章生(ジャーナリスト)の近著『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか』(新潮社)は湯川秀樹の「最後の弟子」で、「原子力ムラ内の批判派」といわれた故・森一久の半生をたどっている。

森は広島で被爆しており、それを知る湯川秀樹から生活上の配慮、世話を受けていた。

著者は、森自身がその背景に湯川が戦時中に広島に原爆が投下されることを知っていたことがあるのではないかとの思いをめぐらせていた事情を明らかにしている。

 

それによると、水田泰次・大阪合金工業所会長が、京大工学部冶金教室に入学したばかりの1945年5月、西村秀雄主任教授から広島市内に住居がある学生として呼び出され、アメリカの原爆開発について情報を得たことを、森と同じ旧制・広島高校の同窓会誌に書いていた。

 

 第1回現地テストを広島で 米国学会から知らせ 

 

水田青年はそこで、「米国の学会から秘密裡にニュースが先生に送られ、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行う予定が決まったから、出来るだけ早く親を疎開させなさい」といわれたこと、それを受けて「早速帰広し、特高警察等の関係のため、誰にも話すことが出来ないまま、父を無理矢理、理由も云わずに、廿日市まで大八車で、家財を積んで疎開させた」と証言していた。

森が水田と直接会って確かめるなかで、「そのとき湯川博士が同席していた」ことを知らされ、大きな衝撃を受けたという。

 

本書では、森がこの問題に自問自答しつつ結局解明されないまま他界したことを明らかにしつつ、著者自身もそのことの真相に迫れないままもどかしさを残して終えている。本書では明らかにされていないが、湯川博士とアメリカの原爆製造計画(マンハッタン計画)に携わった科学者との間で、戦前から学術的な連携関係があったことは事実である。また、アメリカでは原爆が投下される半年前に、「原爆使用反対」の声や「日本の都市に落とす前に警告を発すべきだ」などの要請が、原爆開発に携わった科学者の間から出されていた。湯川博士が、その中心となったシカゴ大学冶金研究所のコンプトン所長と親しい関係にあったことも知られている。

 だが、この問題はあらためて、広島、長崎への原爆投下について一部の人は事前に知らされており、さらに疎開して助かった者がいたことを考える機会を与えることになった。この種の証言はこれまでもいくつか活字でもなされてきた。