徴兵

徴兵は、男子最大の災厄だった。

そのため、なかには徴兵をのがれるため、減食や薬で体調を崩したり、病気や精神障害を装ったり、わざと、犯罪をおかして

刑務所に入ったり、果ては逃亡することによって、徴兵をのがれようとした若者もいた。

兵役法は、兵役のがれに懲役3年以下の罰則を科していたが、毎年、徴兵適齢者の1000人に2~5人が姿をくらまし、

工事現場の飯場などに姿を隠していたという。

 

山田多嘉市は、明治40年(1907)長野県の貧農の家に生まれた。小学校卒業後、年季奉公に出て、転々と職を変えた。

21歳から甲府に住み、農民運動に投じた。留置場暮らしも度重なった。やがて、病を病んで、作家に転身。

昭和18年、35歳の春、甲府署に検挙された。同人雑誌の会合での発言を反戦的ととられたのだ。そのうち、赤紙(召集令状)も

くるだろう。

すでに結婚もし、長男がかわいいさかりになっていた。農民運動の同志や文学仲間は、つぎつぎに最前線へ送られて死んでいた。

子どものためにも、戦地へ行くわけにはいかない。

山田は、釈放されるとすぐ、県立病院の友人を訪ねた。小説に使うからと偽って、白紙の死亡診断書を2枚もらった。

 

「死者 山田多嘉市。 死因 肺結核。 死亡年月日 昭和18年4月5日。…」

 

発覚したら、銃殺かもしれないと思った。震える手で書き終えると、架空の医師の印鑑を押し、本籍地長野の村役場へ

郵送した。折り返し、村役場から「火葬証明か埋葬証明を送れ」とのはがきが来た。どうしようもなく、放っておいた。

 

やがて、戦争が終わった。2,3年後、山田は自分の戸籍が消されていることを知った。命日は20年7月6日。

空襲で甲府の7割が焼けた日である。書類不備のまま、村役場が受理してしまったらしい。

 

その後、山田は無戸籍のままで通していた