予科練
建築当初は近隣住民から大反発、大騒動があったそうです。
それでも強引に建設が進められていきました。
予科練の生徒が書いたものがあって、読んでいるうちに涙が止まらなくなりました。
だいたい、15才~の若者ばかりでした。昭和18年から、練習生は14才からでも志願可能となり、
終戦間際には年齢不詳となりました。日本国内だけではなく台湾及び朝鮮半島からも募集していたようです。
負けと分かっているのに、やけくそで募集していることがわかります。人の命をなんだと思っているのでしょうか。
生徒が書いた手紙の一部をご紹介します。
「家の縁側での食事が思い出されて寂しくてたまりません。」
「早く家に帰りたくてたまりません。手紙をください。」
「飛行機乗りで30にもなれば、もうおじいさんと云われます。
パイロットで30以上は誰もいない」
「海軍パイロット界に入ったら、絶対にぬけられません。死ぬまで御奉公です。
娑婆の五十を三十で暮らす 左様奈良」
福山資くんは、自ら志願し16才で合格。合格者はそのまま入隊となります。海軍航空隊に入隊し飛行訓練性となりました。
その後、台湾へ行きオランダ領の東インド(インドネシア)で戦死しました。まだ、18才でした。
彼の本当の夢は工学専門学校へいきたかったそうです。
それが、なぜこんなことになってしまったのか、予科練に入ると学費がかからず給料がもらえるため、親や兄弟のためを想ってだろうと推測します。彼は映画が好きでよく見ていたため洗脳されてしまったのでしょう。
本当のことが分かっていれば、もし、合格していなければ、と思うと、やるせません。
不合格の方が幸せな人生を歩んでいたのかもしれません。
当時、海軍のエリート校である海軍兵学校の第一期生は5807名中の志願者のうち、合格者は79名でした。73倍でした。
入隊の喜び、憧れの航空兵、そして盛大な壮行会、軍服姿だったそうです。(ただ、軍服は初期は無かったそうです。)
予科練で展示されているものは、都合の悪いものは展示されないため、自分で調べたこととかなり違っていて驚きました。
都合の悪い情報、遺品や手紙はすべて破棄されています。
それに、彼らは、まさか、特攻隊になるとは夢にも思っていなかったと思います。
天皇命令なので、誰も逆らうことはできません。
彼らの1日を見てみると、起床5時、飛行機出しで約35分、朝食6時、飛行機訓練7時半、途中、昼食、夕食4時45分、酒保開き6時半まで、自由時間、入浴、お菓子を食べたりして、就寝は9時だったようです。朝、雨なら、起床は5時半だったそうです。ただ、これが本当だったのか・・・・。
毎週月曜日の夕方6時頃は、戦争映画で洗脳教育がされていたようでした。
飛行訓練が下手だと、教員からビンタが飛び、バットでおしりを叩かれ、殴られ、気絶つすると、寒くても頭から水をかけられたそうです。ひどい暴力が横行し、彼らは、いつもあかぎれ、しもやけで、やせほそり、栄養失調だったそうです。
近くの住民が見ていてそれをよく知っていたそうです。無料で食べ物を与えていたそうです。
もちろん、こういったことは展示されていません。
「欲しがりません、勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」など、一度は聞いたこともあると思います。
戦争は文化にも暗い影を落とし、映画、音楽、演劇、美術、文学、様々な面で自由な表現が規制され、軍事的な内容のものが
主流になりました。反戦的な言論は弾圧され、出版物などは検閲されて出版禁止になりました。
人々の娯楽映画は、戦争を題材にしたものだけでした。
俳優たちは兵士の慰問の協力、音楽家は軍事国調の勇ましい曲を次々に作り、歌がラジオの電波にのって全国に鳴り響きました。
「必勝の信念ありてこそ、特攻は續く」・・・・と。
なんという世の中でしょう。形は違えど、歴史は繰り返すのです。