昨日、愛之助さんの夏祭を始めて拝見。
思えば夏祭は何度もみたけれど、コクーンや平成中村座でしか見ていなかったことに改めて気づかされた。
愛之助さんの泥場、天神さん系のだんじり囃子にのった、美しすぎて涙がでました。

 

歌舞伎の夏祭りはこれほど洗練された芸術だったのかと。

文楽では三業一体といいますが、昨日の夏祭りの歌舞伎版はまさにクライマックスにかけて、役者、お囃子、照明とでゾーンに連れて行かれました。でもそれはもちろん役者がよくなきゃだめですし、お囃子と息があってないとだめです。

昨日はまさにそんな日、団七の打ち出す様々な見得が目に焼き付いています。

 

お囃子の拍や音にあわせて見得を変化させ、次々決めていく、刺青、血まみれ、ほどけた濡れ髪の団七の照明に浮かぶ姿はまるで人形に息が吹き込まれたような美しさ、まるで錦絵、妙に美しくて背徳感でゾクゾクする無残絵でした。

「夏祭」の本髄を体験させて頂いた もう一度見たい!けどももう日がない

 

そりゃ、絵描きならそこ描きたくなるでしょう、というような素晴らしい見得の数々でした。

花道で刀を横に、本舞台を振り返っての見得

 

夏祭浪花鑑のだんじり囃子は実家の守口の八雲神社の秋祭りと同じで、初めて見た時びっくりしました。でも、子どものときは地元しか知らなかったけど、天神祭でもヘタリというお囃子があり、おんなじだということも大人になって発見しました。

が、まあ、小さいときから、祇園ばやしのパンクバージョン、タテノリバージョンと概ね思っていました。このお囃子に合わせて地元っこ、ヤンキーの子供から青年、お父さんおじいちゃんまで三本指を鉤のように曲げて、龍踊を披露します。
 

このお囃子は永遠にループなんですが、緩急が凄くあります、そして、緩急に合わせて踊り、だんじりを引くときはお囃子の音でだんじりの動かしかたの合図にもなっています。

 

勘九郎さんや勘三郎さんのはカッコ良かったり、感情が露わだったりするのですが、やはり見比べると江戸っ子の情の厚さでした。

愛之助さんの美しさというのとはちょっと違うなと。関西ぽくて泥臭いと評されていますが、なんか任侠者の儚さ、透明さというか、そういう美しさがありました。ダメとわかってても後戻りできない。

 

幕の最後、わりとあっさり終わってしまい、感情がグラグラしているのにあまりも急に歌舞伎座に引き戻されてしまって、もうちょっと粘って派手にはけて言ってもいいなと思いました。

 

引窓については

なんといっても、東蔵さんが、濡れ髪に「未来の十次兵衛殿に済みますまいがな」と言われた時のその表情。素晴らしかった。

 

松緑さんの濡れ髪もきっぱりいい男でした、が、上方ぽく全然ないよね、やっぱり

扇雀さんはなぜかわかりませんが、上方みがある。体の使い方なのか、声音なのか。知らんけど。大阪人ですが、なぜなのかはよくわかりません。多分、音、母音が伸びてあがったりさがったり

 

梅玉さんはとにかく前半、長セリフも三階ではほぼ聞こえない。三味線も声を消さないよう抑えて弾いている感じで、ほんと舞台の上と前方だけで芝居をしているようで、三階は置いてきぼりでした。
でも後半、説得力のある南与兵衛でさすがでした。