ちょっと毒吐いているかも知れません

ちょい追記
ん?迷子かな?と思い返事して振り返ったらら、カタコトの日本語話す外国人二人。
チョットオジカンイイデスカ?ワタシタチハ~ウンタラ、キリストキョウノ~。
あーーーめんどくさいものに捕まったーー
アナタガシアワセヲカンジルトキハナンデスカ?
私:美味しいものを食べている時
オーソレハイイデスネ、デハソノトキ・・・
通りすがりのおばちゃん:ハローハローナイスミーツー。
外国人二人:(゜ロ゜;ノ)ノハ、ハロー?
おばちゃん:挨拶はこう言うんだろう?ハロー?って。バーイ。
通りすぎようとして、立ち止まっては近付いてくるおばちゃん。
駅によくくる?電車のる?会ったら私にもお久しぶりって声掛けてね~。
外国人二人は、すでにテンパってました

おばちゃんは、怒涛の勢いでおしゃべり。日本語上手ね!どこで覚えた?何年いるの?
その隙に、そっと離れる私。
そして迎えの車を確認して車に乗って逃げ切り。
おばちゃんは、それを見届けると、バーイバーイと外国人二人から離れていきました。
神様を信じますか?と言われたら、どうだろう?と普段思うけれど、今回ばかりは、おばちゃんが危機を救ってくれた神の使いにしか見えなかった
こういう宗教の勧誘の人って、神様に感謝するとか、神を信じる者は救われるとか言うけれど、個人の自由だし、押し付けはよくないよ?好きなだけ自分が祈れば?と思う。
その行動、四文字熟語で『有難迷惑』
信じる者しか救えない神様なんて守備範囲狭くない?
そして、救われることを見返りに求めるのは、ガメツイと思う。
私だったら、心の拠り所がその神様なら、ずっとそっと祈る。こっそり祈る。
ただただ心の片隅にその神様がいる。
それだけ。
昔昔その昔、私は修道女だった時代もあるらしい。
だからこのブログ書き終わって寝るときにふと浮かんだ。
祈りの対極にいるのは自分。
自我を相手に押し付けたりしない。
それに、私、その神様信仰しなくても、今まで、充分幸せに楽しく元気に過ごせたし、これからも十二分に幸せに過ごすので
春先は、変な人が出てくる率が高いから気を付けないといけませんね。