紫苑の扉 -9ページ目

紫苑の扉

主にストーリーと詩を書いています。
あるがままに、そのままに・・・。
徒然に気ままに

 やわらかい日差しが降り注いでいた。風もほとんどなく、公園のベンチにでもじっと座っていたい気分だ。五月も終わりに近づこうとしているのに、煩わしい汗に滲むような暑さは感じられない。さわやかな風がそれを忘れさせてしまう。
 河内幸子の自殺から始まって、自分の周りで様々な出来事、自分が望んだわけではない変化が、美紗子の生活を振り回していく。同期入社であるという理由だけで、私をこんなことに巻き込んだ彼女が恨めしく思う。
 幸子は自分の命が長くないという理由だけでなく、自分自身が壊れていくことを恐れて自らの命を絶った。幸子の妹から事実を聞かされたことで、彼女の自殺の動機が分かったことで一つの疑問が解けた。
 しかし、パソコンをわざわざ送り付けてきたり、謎めいたメッセージや、黒いバックを持っていてほしいと頼んだりしたのだろう。そのうえ最後の止めとばかりに私へ宛てた手紙を妹に託したのか・・・。自分が死んだ後に起きる出来事さえも予期していたとはどうしても思えない。美紗子の頭の中で様々な疑問が渦巻いていた。

 もうすぐ梅雨がやってくる。そのせいだけではない。心が晴れないのは…。
 仕事にも慣れた気がしているのに、日々忙しくしていても、少しも気が晴れない。なぜなら、いまだに幸子からの手紙をバックに入れたままにしているからだ。黒いバックの時のように美紗子はためらってしまうのだ。このまま今の仕事を続けて、幸子が同期入社だったこと以外、自分の人生にかかわりのない存在であったと、ずるいことを考えてしまう。そうすれば高藤の心を乱すこともないではないかとも…。

 会議室では重々しい空気が漂っていた。美紗子は一番後ろからそれを見守る。役員たちの表情は硬く険しい。このような場所に居合わせることになるとは思いもよらなかった。
 高藤デパートの支店は一桁を超えているが、建物が古くなり改装を繰り返す支店も増えているが、最も問題なのが本店による建物の老朽化であった。そこで、改装か移転かのどちらかを選択することで、それを打破しようとするある案が持ち上がった。それを提案したのは専務である高藤であった。
「倒産の噂が流れたことは遺憾なことではありますが、考え方を変えれば起死回生のチャンスと捉えた方が得策と思われます」
「しかし、移転となるとそれなりのリスクを抱えることになるのでは?」
「仮に移転するとなると、どこか候補があるのか?」
「移転という方向に向かっているようですが、本社を壊して新しく立て直すという提案は?」
 会議は長引きそうであるが、今回はおそらく結論は出ないだろうと、高藤会長を見つめながら美紗子は考えた。厳しい表情を浮かべるのはいつものことだが、いつになく疲れを滲ませている。高藤デパートをここまでにした会長である、これまでも何度となく危機を乗り超えてきた人でもある。しかしながら噂とはいえ、最悪な倒産という言葉など会長には信じられないことだろう。こうなった経緯はもはや問題ではなく、この現状を打破する方法を模索するのが先だ。

 河内京子が美紗子を訪ねてきた日、高藤と槙野が顔を突き合わせて話していた。戻ってきた時、二人は何事もなかったような顔で、美紗子が遅れてきたことに対しても何も言わなかった。だが、その時にはすでに問題が持ち上がっていたのだ。
 ある大手メーカーの店舗が引き上げるという情報が高藤たちの耳に入ってきた。それが現実味を帯び始め、さらに別のメーカーもその動きがみられた。事の発端は高藤デパートが倒産するという噂だった。その噂を聞きつけた大手メーカーが引き上げる検討を始めた。
 昨今、デパート業界にもとどまらず、どの業界も競争が激しく、事業縮小や合併吸収という現実を抱えている。消費者のニーズも多様化し流行も移ろい易く冷めやすい、その流れに遅れまいと必死なのだ。

 美紗子は驚くことを聞かされた。秘書の一人である倉田が、支店に移動させられるというものであった。まだ、そのことは一部のものしか知らされておらず、本人にもまだ辞令を受けていないらしい。それを話してくれたのは、最も口が堅いと言われている社長秘書だった。おそらくそれは事実に違いない。
「彼は首になるべきなのよ。本当のことを言えば、移動で済ませるなんて上もどうかしているわ…」
「里中さんがそんなに興奮するなんて驚きです。でも、私は彼がどんなことをして移動させられるのか知りませんし…」
「何を言っているのよ。彼が首同然になったのはあなたのせいなのに…」
「私が元凶ですか?」美紗子はわざと驚いて見せた。
「会長まで味方につけてよく言うわね。でも、ずいぶんと長い間騙されてきたなんて信じられる?あの男に、この私がよ」
「初めから人を騙すことに罪悪感を抱かない人間ないと思いますけど、どこかで歯車が狂ってしまったのかもしれませんね。それに河内幸子さんのことがなければ、私もあの人をただいい人だと信じていたかもしれません」
「あなた、それで私を慰めているつもりなの?」
「そんな恐れ多いこと、私にはできませんよ。それにしても、自分が左遷されるとは夢にも思っていないでしょうね」
「愚かな男よね。でも、秘密裏に調べていたとはいえ、実力があっても槙野さんとあなたに専務秘書付きを取られて。おかしいと思っているでしょう。専務秘書には自分がなると確信していたみたいだから・・・。すでにぼろが出ているのに、本人は全く気づいていない。まあ、今はそれどころじゃないけど」
「それにしても、高藤デパートが倒産するなんていう情報を、誰が何処から仕入れたのかしら…」
「それなのよね。でも、三年前に本社を移転するという噂が立ったことがあったわ」
「そうなんですか?」
「これは秘書の間での噂にとどまったみたいだから…。実際には会議でも何度かそんな話が持ち上がっていたわね。でも、会長が許さなかったから、それで立ち消えしたと思うけど」
「今回は噂では終われませんね。今回はいくら会長でも反対はできないでしょうし…」
「それが最上の打開策になるわね」

 里中は会長の命令である男について調べていた。その男は男性社員の中で最も人気があり、仕事も良くできるうえルックスについても定評がある秘書の倉田という男だった。  
資産家の女性と結婚をして、公私ともに順風満帆な人生を歩いているかのように思われていた。実際には女にはだらしなく何人もの女性と関係を持ち、お金を騙し取っていたのだ。どんな女性も頭が良くてハンサムなその男に簡単に騙されてしまう。しかし、ある女性だけはその男の正体を見抜いていた。その女性こそが河内幸子だった。
河内幸子は特別美人というわけではなかったが、彼女が意識していなくても男を引き寄せる魅力が備わっていた。入社当時も何人もの男性から声をかけられ、その為に同期入社の女性たちには反感をかっていた。別に彼女から誘惑したわけではないのに、妬みからか女性たちから誤解されてしまう。どんな男性であっても誘いには乗らなかった。それは同性からの妬みをかわないようにするための手段だった。
 しかし、男たち中で誰が彼女を誘うことに成功するかという賭けを始めた。誰が彼女を落とせるかという興味本位な男たちがいるために、彼女はますます女性たちの反感を買うことに…。中には振られたことへの腹いせに嫌がらせをする者も少なくなかった。彼女はそのことで誰に対しても、よそよそしい態度をとるようになってしまった。
 本来の彼女はとても温和な性格だった。美紗子が知る彼女は静かな雰囲気で、いつも微笑みを浮かべて嫌な顔を一つも見せずに話を聞くような女性だった。屈託のない笑い方で、人を穏やかな気持ちにしてしまう力がある女性でもあった。
 入社当時は美紗子と彼女は研修で同じ班で、気も合う仲間の一人だった。研修が終わって部署が別々になってしまったが、同じ売り場で仕事をしていたなら、もしかしたら彼女とはもっと親しくできたのではないだろうか…。
 美紗子が考えるように、幸子も同じことを思っていたのかもしれない。同期というだけでなく友人として、友情を分かち合えることができたのではないかと…。彼女がそれを望んでいたと思えば、謎めいたメッセージを送ってきた理由も納得できる気がする美紗子だった。

高藤会長はいつ高藤と幸子の関係を知ったのだろうか…。
高藤は小さい頃から恵まれた環境の中で何不自由なく育った。すでに高藤デパートはその業界で名を知られていた。高藤会長は社長を息子に引き継ぎ、会長職に就いた後も強い影響力を持っていた。そして、同時に孫に期待をかけるようになった。周囲もまた、孫である高藤がいずれ高藤デパートを引き継ぐのは当然と思っていた。
だが、高藤は家業を継ぐ気はなかったようでアメリカへ留学をする。大学卒業するとそのままアメリカの企業に就職、そののち独立して会社を立ち上げた。
高藤は仕事だけに没頭し、寝る間も惜しんで必死で働いた。そして、会社が軌道に乗ったころに高藤は運命的な出会いをする。それが河内幸子だった。
 しかし、高藤は自分が勤める会社の社長の息子であることを幸子は知る。お互いに惹かれあいながらも、幸子はやがて高藤と距離を置くようになる。そして、別れを告げて高藤の前から姿を消した。
高藤は幸子との関係を修復するために帰国を決意した。だが、高藤の願いはついに叶えられることはなく、彼女はすでにこの世を去っていた。高藤は幸子が自分の前から姿を消した理由も理解していなかった。高藤会長によって二人が引き裂かれたとは思ってもいなかったのだ。
倉田は会長の指示で高藤の御曹司を監視することになり、幸子と高藤の関係を引き裂く役割を果たしたが、手切れ金を渡して高藤から幸子を遠ざけ、会長の信頼を得ることができた。しかし、欲を出して手切れ金の一部を横領し、会長の信頼を失い、槙野に専務秘書としての地位を奪われるだけでなく、美紗子にさえ追い越されてしまったのだ。
 倉田は以前になびかない幸子の代わりに、彼女の妹を誘惑したことがあった。幸子は倉田が卑怯な男だと見抜いていたが、まさか自分の代わりに妹が餌食になるとは夢にも思っていなかった。そして、さらに高藤との関係を利用され、別れる選択を迫られることになってしまった。
高藤と幸子が二人一緒にいるところへ、偶然にも里中と倉田に出会ったことがある。里中は高藤デパートで秘書をしており、高藤と里中は幼馴染でもある。美紗子が高藤と一緒に食事をしていた時に聞いた話だが、それは全くの偶然とはあまりにもできすぎた話のように思えてくる。会長の指示で倉田が二人を監視していたとしたら、偶然を装って二人に近づいたとも考えられる。
倉田は計算高い男だった。高藤会長が引退すれば息子に会長職を譲り、孫を社長に据えるつもりだろう。そう踏んだ倉田は会長に恩を売れば、自分の立場が有利になると考えたのだ。しかし、倉田は自分を過信し欲を出しすぎたのだ。
幸子はこうなることを予想していたのだろうか…。美紗子に残したメッセージの意図することがようやく見えてきたような気がするけれど…。でも、私はどう彼に伝えたらいいだろうか…。
二人は決して結ばれることはなかった。彼女の身体を蝕む病魔は誰にも止められなかったから・・・。だから彼女は残酷な運命を受け入れるしかなかった。
高藤はすでに彼女の死を受け入れて前を向いて生きている。今更真実を告げたところで、彼を苦しめるだけかもしれない。もし、高藤がもう少し早く戻ってきていたら、二人は会うことができたかしら…。幸子はそのことでもっと苦しむことになっていたかも知れない。それでも、たとえ束の間でも幸せな時間を過ごすことができたなら…。
 美紗子は自分がとても身勝手に思えてくる。幸子が残したメッセージに込められた意味を無視して、自分の気持ちを軽くしたいがために、このまま何もしないで逃げようとしている、そんな気がしてくるのだった。
 
 美紗子はドアを開けて振り返った。槙野と高藤は退社時間が過ぎてもまだ話し込んでいる。すでに自分の役割は終わっているのだ。幸子のことがあったから、高藤の秘書になっただけのことで、これ以上ここにいる必要はない。自分がやるべきことは、槙野の疑問に答えるだけだ。高藤に真実を話すべきか迷っていたが、幸子はそれを望んでいないような気がした。槙野が自分に近づいたのは、まさにその真実を知るためだった。いずれ近いうちに槙野と会って、幸子がなぜ自ら死を選んだか話そうと考えている。美紗子はゆっくりとドアを閉めた。
 従業員専用出入り口まで来ると美紗子は思わず足を止めた。できるならば避けたいと思っていたのに、最も会いたくない相手が待ち構えているなんて…。
「やあ、安藤美紗子さん。これから食事でもどうだい?約束を覚えているだろうね」
「約束…ですか?していましたっけ…」
「君に聞きたいことがあるしね。どうやって高藤専務に取り入った…とかね」
「どういう意味ですか。倉田さん」
 倉田は距離を保っているというのに、間近に立ちふさがっているような、耳元で息を吹きかけられたかのようにぞっとするものを感じた。美紗子は思わず身を引いたが、背後で人の気配を感じて振り向く。
「何をしている。声をかけもしないで帰ろうとする。おや?倉田さんじゃないですか…」
「槙野さん…」
 槙野は美紗子の肩に手をかけて横に立った。肩に力強い槙野の手がある。美紗子の胸に安堵感と不安が広がっていく。






 

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