第三章 第3話 | 紫苑の扉

紫苑の扉

主にストーリーと詩を書いています。
あるがままに、そのままに・・・。
徒然に気ままに

 あれからどれだけ経つのだろう。ここへは何度か足を運んだけれど、こうして時間をおいて来てみると何か違う気がしてくる。何が違うのか・・・・。
 千秋は沢田正次が住んでいたマンションへ来ていた。カーテンは引かれたままで部屋は真っ暗だった。千秋は明かりをつけようとスイッチに手を伸ばす。だが、人の気配にその手を止めた。
「会うなりここへ連れて来いとは、どういうことかな・・・」
「高級レストランへ連れて行けと、私が言うとでも思った?」
「せっかく久しぶりに会うのだから当然だろう」
「それはいったい誰のせい?」
 ここにはもう誰も住んではいない。生活の営みの後も生活の匂いもない。すっかり冷え込んだ部屋にあるのは空虚な空間だけ・・・。ただ、この部屋の主の魂の息遣いが聞こえてくる気がしてくる。
 私が知っていたはずのあの人は、自信にあふれ堂々として誰にも弱みなど見せない・・・・。でも、本当は姉の元恋人であったというだけで、あの人のことはほとんど知らない。
 いきなり眩しい光が差し込み千秋は手を翳す。放たれたカーテンの前に男が立ち彼女を見つめている。眩しさに慣れるまでの数秒間、千秋は窓辺の黒い影に目を細める。彼女は一瞬そこに幻影を見る。
「どうかしたかい?」
 千秋は瞬きをして窓辺に立っている男を見つめながら答える。
「一条さんの顔に、しわがないか確かめているところよ」
 彼女の言い訳のようなジョークに一条はわずかに眉を顰めた。だが、彼女を見つめる瞳は温かく揺らいでいる。
「で、しわを見つけられた?」
「あなたって・・・・。冗談かそうじゃないかぐらいか分かるでしょう。そこは軽く受け流すところでしょう?それにしても、中はとてもきれいに保たれているわね。業者が入っているのかしら・・・」
 部屋の中は何処もきちんと整頓され、埃やチリ一つなく清掃が行き届いている。
「会長は全てが明らかになるまで、ここを保存しておきたいとおっしゃっている。それに何か役に立つことがあるかもしれない」
「最初にここへ来た時も、あなたはそう言っていたわね」
「君がここへ来たことを考えれば、会長の配慮が役にたったということになる」
「他の理由があるのでは?それに会長はまだ心の整理が付いていないのでしょう。ただの強がりだわ」
 彼女は口ではそう言いながら、内心では沢田を心配している。一条には良く分かっていたが、何も言わず首を竦めた。

 予想していた通り、やはりここにはないようだ。手がかりに繋がる何かが見つかるのではというという期待は外れた。
「君は何を探しにここへ来たんだ?」
「別に目的があったのではないのよ。しばらくここへ来なかったから、さっきあなたが言っていたように別の角度から見れば、あの時に気付かなかったことが見えてくるんじゃないかと思って・・・・」
 一条はただ黙って千秋の後について行く。彼女がここへ来たのはただの思い付きではない。必ず何か理由があるはずだ。いったいそれは・・・。
千秋は壁にかかっている絵を眺めながら言った。
「正次さんの絵は素敵ね。結構大作もあるみたいだし、ここ以外に作品を飾っている場所はないの?」
「彼の絵に興味があるのか?」
「あなたは私が絵画に関心を持っていることが意外?これでも美術館へ行くことがあるのよ。とても落ち着くし目の保養になる。時には、刺激を受けることがあるわ・・・。」
「それなら、今度は美術館へ連れて行くことにしよう」
「本当に?嬉しいわ・・・。ぜひとも誘ってください」千秋はうれしそうに微笑んだ。
 一条は軽い気持ちで千秋をからかったつもりだった。彼女は本気で誘いを喜んでいるように見える。その反応に一条は後ろめたくなる。
「ああ、もちろん誘うよ。そういえば、出版社の方に絵が保管してあるはずだよ。栞用の絵をよく描いていたから」
「栞?」千秋は思わず期待を込めた眼差しを一条へ向けた。
「彼は絵を描くことが趣味でよく暇があると描いていた。城山出版社から出される君のお姉さんの本には彼の栞が添えられていた」
 城山から出版された本に栞が入っていたということなら納得がいく。これで彼の部屋から栞が見つかったというのも頷ける。舞子さんから受け取ったお姉さんの原稿の中に入っていたのは手書きだった。まだ印刷されていない栞・・・。
「城山出版へ行ってみるかい?」
 
 二人は城山出版へ向かい、編集長である中川を尋ねた。一条と中川は握手を交わしてから千秋を紹介する。
「福山先生の妹さんですか。先生には二人の妹さんがいらっしゃるとか・・・・。カメラマンの千春さんと、確か千秋さんは一番下の妹さんですね」
「はい、いつも姉がお世話になっています。突然お伺いして申し訳ありません」
 小説家である福山千夏の妹と知ると誰も同じ反応をする。それに加えてすっかり話題となったカメラマンである福山千春の妹だというおまけが付いてくる。二人の姉とは違ってごく平凡な顔立ちをしているなという視線が向けられる。そういうことにはもうすっかり慣れてしまった。
「一条さんが襲われた時、一緒だったそうで大変でしたね。一条さんは心身ともに強靭な持ち主だけでなく、とても運のいい方だ」
「相変わらずですね、中川さんは・・・」一条は中川の褒め言葉に答えた。
 千夏は中川のことを鬼の編集長と呼んでいたが、千秋にはどう見ても中川は温和な印象を受ける。編集長と言えば、デスクで部下を怒鳴りつけているというイメージを持っていたが、目の前にいる中川はそういうイメージには程遠い。しかし、千夏姉がそう呼ぶほどだから、中川といえども仕事となれば厳しい顔つきになるに違いない。
 二人は中川に案内されて特別資料室へ向かった。資料室の壁には額に入った大小さまざまな絵や写真が飾られていた。その中に見覚えのある本の表紙の元になった絵も飾られている。
 資料はそれぞれジャンル別に分けられた棚に保存され、目立つ場所には城山出版創設についての資料が置かれている。棚は横10列に並んで資料はかなり膨大ものになる。沢田正次がなくなった後に特別資料室が増設され、その際に彼の資料は第一資料室から特別資料室に移された。比較的新しい資料は第一資料室に保管され、特別資料室には重要なもの貴重なものが多く収められている。
 二人はざっと見て回りながら目的のものを探す。ようやく一番奥の列の棚に沢田正次というプレートを見つけた。その列全てが彼のものに占められている。中川の説明によると、彼の資料はかなり貴重なものが多く、処分するには惜しいとここに集められたが、整理するにはまだ時間がかかるようだ。
 千秋は何冊ものスケッチブックを見つけ、その中の一冊を手に取るとゆっくりとページをめくっていく。進むにつれて胸の奥に切ないものが込み上げてきた。彼の情熱は静かでありながら、勢いよく流れる激流のようでもあった。穏やかな水面下では様々な何かが渦巻いていた。流れのその先には彼の目指す世界があるのか・・・。
 一条は正次が残した軌跡に、彼の生き様を見せ付けられたような気がしていた。自分の定められた運命を突き進む彼には何が見えていたのか・・・。父親にただ反発して出版会社で働いていたわけではなかった。数々のファイルには彼の思いが詰まっている。真剣に向き合う彼の真摯なその姿勢は、誰かが引き継いでいくかもしれない。いや、そうであってほしい・・・。

 二人は城山出版社のビルから出てからほとんど口を聞かなかった。それぞれの思いの中に浸っていたのだ。
しかし、その沈黙を破ったのは一条だった。
「どこかで何か食べよう・・・。もうお昼はとっくに過ぎてしまった。私たちは彼の残した遺産にすっかり魂を抜かれたようだ」
「本当にね。私は彼のことを誤解していたわ・・・。ただ強引で千夏姉さんを困らせてばかりだと思っていたけど、違ったみたいだわ・・・。作家としての福山千夏を誰よりも理解していた凄い編集者だった。かつては編集長の座について手腕を発揮していたということも頷ける」
 二人はファミレスに入るとそれぞれに注文する。食事が済み一条がコーヒーを注文すると、今日は割りかんよと言って千秋は笑った。一条は微笑み返すと、そのとたん携帯が鳴る。一条は席を立ちテーブルを離れたが、すぐに戻って来て千秋に言った。
「会長からだ。悪いがこの後は社に寄りたい。君は沢田グループのオフィスビルに来た事はあるかい?」
「ええ、沢田グループの本社ビルなんて恐れ多くては入れないわ。それより酷いんじゃない?休日なのに出社なければならないの?会長は人使いが荒いわね。それでどんな用があるの・・・」
「沢田帝国に興味が湧かないかい?」
 一条は意味ありげに悪戯っぽく笑みを浮かべた。千秋は一条を見つめゆっくり頷いた。この誘いを断るつもりなどなかった。むしろ好都合であり、千秋はこの時を待っていた。









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