仕事を終えた人々は自動ドアが開くと、降り出した雨の中へ急ぎ足で出て行く。傘が吹き飛ばされそうな強い風と激しい雨が降っている。傘が役に立つとは思えないが、それでも傘の柄をしっかり握り締めて歩き出す。
「あ!」由梨は小さな叫び声を上げた。
しっかりと握り締めていたはずの傘が強い風にあおられて飛ばされた。恨めしげに空を見上げると容赦なく彼女を雨が濡らした。
服に雨が滲み込んで鳥肌が立ってくる。自分はとことんついていない、慎重な性格とはとても言えない。それどころか運にも見放される哀れな身・・・。 由梨は辺りを見回して薄情な傘の行方を捜す。そんな彼女の視界をさえぎるように男が立ちはだかった。男は傘を差しかけながら、風に飛ばされた彼女の傘を指差した。開いたままの傘は自動ドアの隅まで転がっているが、再び風が吹くと飛んでいきそうだ。
「ご親切にありがとうございます」由梨は男に頭を下げて歩き出そうとする。
「一緒に行きましょう。あなたは傘を手にする前に、びしょ濡れになってしまいますから」
由梨は男と一緒に歩きながら勝手に決めつめる。親切なこの男性は何事も成し遂げる強い意志を持つかなりの自信家に違いない。時には相手の気持ちを無視して物事を推し進める強引さがあると・・・。
男は傘のところまで行くと拾い上げて彼女に渡した。由梨はか細い声で男に向かって礼を言った。
「風に飛ばされなくて良かった」
男の表情は傘に隠れて見えないが、声には落ち着きがあり口調は柔らかだった。由梨はその男の声がとても心地よく耳に響くと思った。 もう二度と会うこともないであろう行きずりの相手の声が、好ましいと思うのもおかしなことだった。
「本当に助かりました。ありがとうございました」
「いえ、これくらいはたいしたことではありませんよ。それでは・・・」男はそう言うと向きを変え、彼女に背を向けて歩き出した。
再び雨が激しく降り始めた。足元は薄っすらと幕を張るように雨に濡れて歩くたびに水がはじく。しっかりした足取りで歩いていく男の後姿が、人の波にまぎれて見えなくなるまで由梨はそこに立っていた。
この日のことは印象的で、いつまでも記憶に残る出来事だったのに関わらず、あの男の顔はすっかりぼやけてはっきりしない。それでも不思議なことにあの男の声はしっかりと記憶している。偶然にも再び会うことができ、声を聞けばはっきりわかるという自信がある。
彼女はお世辞にも美人とはいえない、人に注目されるような優秀な能力や才能があるわけでもない。人とかかわることにも臆病だった。友人と呼べるものはそれなりにあるけれど、すべてをさらけ出して話せる相手にはめぐりあえていない。男性と話すことが苦手な彼女に恋人がいるはずもない。物事を慎重に考えるといえば聞こえがいいけれど、ここぞという時に慎重になりすぎてせっかくのチャンスを逃がしてしまう優柔不断な性格。誰でも自分に対してコンプレックスを抱えているものだが欠点を補うだけの長所があるものだ。
由梨は傘を差しかけてくれた男性のことを、何事も成し遂げる強い意志を持つ自信家だと思っている。それは自分にはないものを持つ人間に対する羨む気持ちの表れなのだろう。そして、心の中でそんな男性と巡り会いたいという潜在意識があるということに由梨は気づいていない。
人生の中で出会いは数え切れないほど巡ってくるが、自分の人生に大きく影響を及ぼす出会いは早々あるものではない。それどころか運命を左右する出会いに気づかず、その期を知らぬまに逃してしまうこともあるのだ。
何事もなく平凡な毎日を過ごしていればそれで十分だわ・・・。由梨は強い風と激しい雨に負けまいと、しっかり傘を握り締めながらバス停へ向かって歩き出す。
「あ!」由梨は小さな叫び声を上げた。
しっかりと握り締めていたはずの傘が強い風にあおられて飛ばされた。恨めしげに空を見上げると容赦なく彼女を雨が濡らした。
服に雨が滲み込んで鳥肌が立ってくる。自分はとことんついていない、慎重な性格とはとても言えない。それどころか運にも見放される哀れな身・・・。 由梨は辺りを見回して薄情な傘の行方を捜す。そんな彼女の視界をさえぎるように男が立ちはだかった。男は傘を差しかけながら、風に飛ばされた彼女の傘を指差した。開いたままの傘は自動ドアの隅まで転がっているが、再び風が吹くと飛んでいきそうだ。
「ご親切にありがとうございます」由梨は男に頭を下げて歩き出そうとする。
「一緒に行きましょう。あなたは傘を手にする前に、びしょ濡れになってしまいますから」
由梨は男と一緒に歩きながら勝手に決めつめる。親切なこの男性は何事も成し遂げる強い意志を持つかなりの自信家に違いない。時には相手の気持ちを無視して物事を推し進める強引さがあると・・・。
男は傘のところまで行くと拾い上げて彼女に渡した。由梨はか細い声で男に向かって礼を言った。
「風に飛ばされなくて良かった」
男の表情は傘に隠れて見えないが、声には落ち着きがあり口調は柔らかだった。由梨はその男の声がとても心地よく耳に響くと思った。 もう二度と会うこともないであろう行きずりの相手の声が、好ましいと思うのもおかしなことだった。
「本当に助かりました。ありがとうございました」
「いえ、これくらいはたいしたことではありませんよ。それでは・・・」男はそう言うと向きを変え、彼女に背を向けて歩き出した。
再び雨が激しく降り始めた。足元は薄っすらと幕を張るように雨に濡れて歩くたびに水がはじく。しっかりした足取りで歩いていく男の後姿が、人の波にまぎれて見えなくなるまで由梨はそこに立っていた。
この日のことは印象的で、いつまでも記憶に残る出来事だったのに関わらず、あの男の顔はすっかりぼやけてはっきりしない。それでも不思議なことにあの男の声はしっかりと記憶している。偶然にも再び会うことができ、声を聞けばはっきりわかるという自信がある。
彼女はお世辞にも美人とはいえない、人に注目されるような優秀な能力や才能があるわけでもない。人とかかわることにも臆病だった。友人と呼べるものはそれなりにあるけれど、すべてをさらけ出して話せる相手にはめぐりあえていない。男性と話すことが苦手な彼女に恋人がいるはずもない。物事を慎重に考えるといえば聞こえがいいけれど、ここぞという時に慎重になりすぎてせっかくのチャンスを逃がしてしまう優柔不断な性格。誰でも自分に対してコンプレックスを抱えているものだが欠点を補うだけの長所があるものだ。
由梨は傘を差しかけてくれた男性のことを、何事も成し遂げる強い意志を持つ自信家だと思っている。それは自分にはないものを持つ人間に対する羨む気持ちの表れなのだろう。そして、心の中でそんな男性と巡り会いたいという潜在意識があるということに由梨は気づいていない。
人生の中で出会いは数え切れないほど巡ってくるが、自分の人生に大きく影響を及ぼす出会いは早々あるものではない。それどころか運命を左右する出会いに気づかず、その期を知らぬまに逃してしまうこともあるのだ。
何事もなく平凡な毎日を過ごしていればそれで十分だわ・・・。由梨は強い風と激しい雨に負けまいと、しっかり傘を握り締めながらバス停へ向かって歩き出す。
