第29話 | 紫苑の扉

紫苑の扉

主にストーリーと詩を書いています。
あるがままに、そのままに・・・。
徒然に気ままに

 千秋はハウスの駐車場の車の中でハンドルを握り締めたままじっとしていた。エンジンを止めたとたん身体が小刻みに震え始め、今になってショックの波が押し寄せて震えが治まらなかった。
 正次の住んでいたマンションの前で、千秋はもう少しで車に轢かれるところだったが、幸いにも一条の機転で事故を免れた。
車のライトを背にして走ってきた一条の姿が千秋の前に浮かび上がる。巨大な悪魔が釜を振り回しながら一条に迫ってくるかのようだった。だが、それは巨大な悪魔と化した車のライトであり、自分に向かって猛然と迫り来る凶器だったのだ。
 一条は猛スピードで走行する車から千秋を守るように引き寄せる。一条は車体が右肩から腕にかけてかすった衝撃で、バランスを崩すと千秋と共に歩道へ倒れ込んだ。車は急ブレーキをかけて一度止まったが、二人が倒れたのを確認すると再びそのまま走り去った。
 千秋の髪に一条の息がかかる。千秋は迫り来る車から自分を守る為に、危険を顧みず救ってくれた一条の顔を見上げた。
荒い息遣いと共に一条はうめいた。「何てことだ。好きでもない女に抱きつく趣味はないぞ」
 千秋はショックから覚めないまま一条の顔を呆然と見つめた。好きでもない女に抱きつく趣味はない・・・ですって?自分が彼に助けられたということさえすっかり千秋の頭から消え去った。
「もう!どいてちょうだい、重いじゃないの!私だってそんな趣味はないわよ」
 一条は身体を反転させて立ち上がると、千秋に左手を差し出した。
「怪我はないかい?まあ、それだけ言い返せるなら大丈夫だね・・・」一条はにっこり笑った。
 手を差し出して笑っている一条を千秋は見上げる。彼は自分が怪我をしていないのかわざと憎まれ口を聞いて確かめたのだ。
 もう少しで車に轢かれそうになるところを彼に救われたのだ。もし彼が助けてくれなければどうなっていたかわからない。猛スピードで迫ってくる車を避ける為に、自分の身を危険に曝して他人を救うことなどそう簡単にできることではない。
 千秋が差し出された手を取ると一条は彼女を立たせた。服を掃って歩道に落ちていたバックを拾い上げ、溜息を吐くと千秋は言った。
「これで何度目なのか、数えたくないわ・・・。何でこんな目に遭わなければならないのかしら・・・」
「ショックだったのはわかるが、早く帰ってゆっくりお風呂に入ったらどうだい?」
 一条も同じようにショックを受けているはずなのに、まるでさっきのことなどなかったような顔をしている。
「あなたの方こそ怪我はしてないでしょうね・・・」
「ああ、なんともない」
 千秋は目を細めて一条の顔を見た。一条の額に汗が滲んでいるように見えるのは気のせいなのか・・・。それに、自分を立たせる為に差し出した手は左の方だった。彼は左利きではないし、さっきから右腕が力なく下がっているような気もする。一条に近づいてぐるりと周りを一周しながら様子を窺う。
「服が汚れたんじゃない?あなたのそのスーツ高級そうね」
 後方から埃を掃う真似をして右肩に手をかけようとする気配を感じ取ったように、一条は素早く千秋の右手首を掴んだ。
「汚れていてもクリーニングに出せば良いことです。ご心配なく、あなたにクリーニング代を請求するつもりはありませんよ」
「スーツのことを心配しているわけじゃないわ・・・。私はあなたが額に汗をかいている理由を知りたいのよ」
「走った後だからじゃないか?」一条は千秋の手を放す。
 千秋は解放された右の手首をさすって一条を見た。月夜とはいえ、一条の表情は見えにくいが、わずかに顔を顰めるのを見逃すことはない。
「さっき、車に轢かれそうになった時に私を引き寄せたけど、あなたはバランスを崩して私の方に倒れ込んできたわ。今思うとあの時車体が貴方の肩をかすったような衝撃があった気がするのだけど・・・」
「そうかもしれないが覚えていない・・・。まあ、覚えていないということはたいしたことはないということさ・・・」
「たいしたことがないって、あなたねえ・・・。軽く擦ったと言ってもあのスピードで飛ばしている車では衝撃はかなりあるはずでしょう。いいわ・・・大丈夫かどうか確かめてみましょう」
 千秋はバックを一条の前に掲げてから振り回した。一条はとっさに身をかわそうとあとずさるが、すぐ後ろに千秋の車が止まっていることに気がつかず、思いっきり背中を車体にぶつけた。
「まあ、どうしよう・・・。大丈夫一条さん?」
 千秋はバックを掴んだまま慌てて一条に近づく。一条は苦笑いを浮かべながら、これ以上千秋が近づくことを阻止するように左腕を前に突き出した。
「大丈夫、たいしたことはないと言ったはずです」一条はそう言いながら顔を顰めて唇を噛み締める。
「病院へ行ったほうが・・・」
「骨が折れたわけでもないですから大げさに騒がないでください。肩を冷やすぐらいは自分でできますよ。私のことを心配するより早く帰った方がいい。お姉さんたちが心配しているでしょうから・・・」
「でも・・・」
「それに看病してくれる人もいますし・・・」
 看病してくれる人がいる?千秋の脳裏に浮かんだのはあの一条のフィアンセだと噂の女性のことだった。二人は理想的なカップルだと千秋も認めてはいる。だからなんだって言うのよ。私がこの人の心配をするって?冗談じゃないわ・・・。
「さっきのことは誰にも言わない方がいい。特にお姉さんたちには・・・」
「わかっています。言えるはずがないでしょう。ただでさえ殺人事件だの何だのと心配の種は尽きないのに・・・」
 一条は寄りかかっていた車から離れ、千秋の前に立って肩に手を置いた。
「君に怪我がなくてよかった。もしも君に何かあったら自分を許せないだろう・・・」
 千秋は彼を心から信用しているわけではないが、彼なら誰であろうと同じように助けたに違いないだろうということを確信している。それにしてもなぜこんなことを言うのだろうか・・・。一条は身の危険を顧みず私を助けてくれたというのに、危険な目に遭うのはまるで自分のせいだという口ぶりだ。
「あなたが責任を感じる必要はないわ・・・。こちらがお礼を言わなければならないのに・・・。あの車は私を轢こうとしてしたのよ。あなたはそれを阻止して私を助けてくれた」
「今日のところは怪我もなく君は無事だった。だからと言って次も難を逃れられるという保証はない。それに君はこんな目に会うのは初めてじゃない・・・。そうだね」
「あら?こんな目にあうのは初めてだと思いますけど・・・。少なくとも車に轢かれそうになるのは・・・ですけれど」
「君が怪しい車につけられたことも私は知っている」
「あなたはどうなの、ホテルの地下駐車場で起きたことは間違いだなんて言わないわよね」
 一条は小さく溜息を吐いた。「そのことと今回のこととどう結びつく、車に轢かれそうになったのは君で私ではない。問題の焦点がずれている」
「弁護士らしいお言葉ですこと・・・」千秋は苛立ったように言った。「前にも言いましたよね。自分の身は自分で守るって・・・。今回だってあなたが助けてくれなくても何とかなったはずよ。白馬の騎士を気取らないでほしいわ・・・」
 一条の言うことは正しいとわかっていても、千秋は素直にありがとうという感謝の言葉が言えない。一条を心から信用できないでいる。バイクの男が一条だと知った時の裏切られたような気持ちが今も抜けない。だが、それだけでないことも千秋はわかっていた。
「別に白馬の騎士を気取っているわけではない。沢田会長は君たち姉妹の事を気にかけ、何かあれば君たちの力になってほしいと言われていることもある。だからと言ってそれだけで君を助けたりはしない。私をどういう人間だと思っている。君と同じように血も涙もある生身の人間だ。君に何かあったら良心が痛むだけではすまないだろう。君を傷つけるようなことは絶対にしたくない」
 一条は千秋の手に自分の手を重ねた。一条の手のぬくもりが伝わってくる。
「今日のことは君にとってかなりショッキングな出来事だったはずだから、後からその反動が君を悩ませることもあるだろう。君は私に強がりを言ってなんでもないように見せようとしているが・・・」
 千秋は一条をまっすぐに見つめることができない。一条が何を言いたいのかわかっていた。それでも千秋は強がって見せる。
「あ・・・あなたの思い込みもたいしたものだわ・・・」千秋の声はかすかに震えていた。
「君がどんな女性なのかわかりかけているところだ。私はごまかされないよ。強がるなよ」
 千秋は一条から目を逸らした。自分がどんなに動揺し恐怖で震えてしまいそうになっているか、そんな千秋の心を一条は鋭く見抜いているのだ。
「あなたって本当に頭にくる・・・。でも、お礼を言うわ・・・。車にもう少しで轢き殺されるところを助けていただいて、本当にありがとうございました」千秋は頭を下げると自分の車の運転席へと向かった。
 一条は振り向くことなく車に乗り込む千秋を見守った。千秋の車が走り出しても一条はその場から動かない。一条の顔には厳しい表情が浮かんでいた。
 千秋はしばらくの間ハンドルの上に項垂れてじっとしていた。一条の言うことは正しかったのだ。一条の声で振り返ったあの瞬間、車のライトが眩しく自分に迫ってくるような恐怖を感じた。ハウスの駐車場についたとたん恐怖が蘇り、身体の震えが止まらなかった。




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