第49話 | 紫苑の扉

紫苑の扉

主にストーリーと詩を書いています。
あるがままに、そのままに・・・。
徒然に気ままに

 窓を開け、朝の空気を吸い込む。雨が降った後に立ち昇る独特の香りがした。
 千秋は休日出勤らしく、朝早く家を出て行った。千夏は家事を終えて、そそくさとハウスの仕事場へ向かった。なんだか落ち着かない様子で、ほとんど人の話が耳に入らないようだった。同居人の緑は部活で誰よりも先に家を出ていて、千春だけが家に居残っている。
 千春は帽子の女の冷ややかな口元が目に焼き付き、時折あの生々しい情景が頭に浮かぶ。体にできた痣も、まだ生々しく残っている。
 仕事が一段落して、しばらくスタジオへ行かなくてすむ。アシスタントの雪子とも顔を合わせることもなく、彼女に心配をかけたくない千春にとっては好都合だった。

 ハウスの住人がいる気配がある。川久保はここのところ姿を見せなかったが、どうやら今日は戻ってきているようだ。川久保の部屋の窓が開いている。彼は事務所に寝泊りしていると聞いていた。神尾は川久保の行動を把握しているようだ。川久保がなんらかの形で事件と関わっていることはほぼ間違いないだろう。
 千秋も千夏も特別変わった様子は見られない。しかし、第一発見者である千夏の様子を、何者かが見張っていると言う可能性は十分ある。あの帽子の女と、今回の事件と何か関係あるのではないかと疑るのは、自分の考え過ぎなのだろうか・・・。友美が襲われ今度は自分が・・・。千春はそんなことを考えたくもなかった。だが、日が経つにつれ不安が膨らんでくる。
 ハウスの駐車場に入ってくる車のエンジン音が聞こえてくる。もしかしたら・・・。千春は部屋を出て階下へ駆け下りる。

 スーツケースを持ち、ドアの前に立つ住人がいた。ほっとしたような安堵の溜息が漏れる。部屋の鍵をドアに差し込み、ドアを開けようとする。ふと人の気配を感じて振り返ると、彼女の目の前に千春がいた。
「千春さん!」
「久しぶりね、愛子さん」
「どうしたんですか?その頬・・・」
 千春は頭髪に手をやり、ちょっと顔を顰める。何も考えず部屋から飛び出してきてしまった。少し腫れて青痣になった頬が剥き出しのままだ。
「ちょっと転んで怪我をしたの・・・。でも、たいしたことはないわ・・・」
「たいしたことないって・・・。痣になっているじゃありませんか」いつもと違う雰囲気の千春を見て、心配そうな顔をする。
 いつもスラックス姿の千春が、ふんわりとした女らしいスカートをはいている。颯爽とした雰囲気の彼女が妙に女らしく見え、余計に頬の傷が痛々しく愛子の目に映った。
「どじったものね。運動神経だけはいい姉さんらしくないと、千秋に言われてしまったわ・・・」千春は軽く笑って愛子を見つめる。「ちょっと話したいことがあるのだけど・・・」
 戸惑った表情を浮かべたが、愛子はドアを開けて千春を部屋に招き入れる。レースの暖簾をくぐり居間に入ると、ソファーの上で大きなぬいぐるみが横倒しになっている。愛子はそのぬいぐるみを起こして、お腹をパンパンと叩いてからふっと笑みを浮かべる。
 「父からの贈り物なの・・・。二十歳のお祝いに、熊のぬいぐるみを送る親がどこにいるのって、おかしな人でしょう?あの吉良大助が娘にこんなものを・・・」そう言いながらも、愛子は嬉しそうな顔をして、熊のぬいぐるみの頭を撫でる。
「父親にとって娘は、いつまでも小さな女の子のままでいてほしいものらしいわ・・・。自分の手から離れて大人になっていく娘を誇りに思いながら、いつかは何処の馬の骨ともわからない男に娘を奪われると思うと、このまま大人にならなければいいと、勝手なことを言いたがる。それが父親と言うものよ」
「そんなものかしら・・・」
「多分ね。典型的な父親の思いじゃないかしら・・・」
 愛子はインスタントコーヒーを二人分用意するとソファーに座った。
「父が千春さんによろしく伝えてくれと・・・」
 千春は翔のことが聞きたかったが、口に出して言えない。それを察したように愛子は言った。
「兄にとって、千春さんがどんな存在なのか、兄がどれだけ大切に思っているか・・・。兄があなたのことを話す時、いつも楽しげで、私よりもずっと近い存在みたいに思っている。そんなこと聞かされ、まるであなたに兄を取られたみたいな気がして・・・。呆れるけど、凄くあなたが羨ましくて、やきもちやいてしまったの・・・。ごめんなさい」
「彼とは別に・・・」
「本当よ。それに、あなたには感謝しています。わかっていたの・・・。心の底ではわかっていた。父が私を見るたび自分を思い出させ、忘れられないようにしたかったんだと思う。母はまだ父を愛していたのね。でも、兄を一流のモデルする為に意地になっていた、それが母のプライドだった。今なら母の気持ちがわかる気がするの・・・」
「あなたはお母様を許そうとしているのね・・・。でも、あなたはお母様と過ごすはずだった日々を、永遠に失ってしまったのよ」
「その分、吉良の母が私を愛してくれた・・・」
 憂いのある愛子の瞳に温かな光が差し込み、やがて穏やかな光が宿る。
「私がそう思えるのは、千春さんあなたのおかげなの・・・」
「私が?」
「私たちの為に父に会ってくれた。父はあなたに言われてショックを受けたようだけど、千春さんの言葉はズシリ重くて、熱くて、とても心に響いたと言っていたわ・・・。そして、父は話してくれた。吉良の母は、東の母に手紙をずっと送り続けていたって・・・。私の成長を知らせていたって・・・。東の母は、ずっと私を陰で見守っていてくれたのね。父は手紙のやり取りに、ずっと知らぬふりを続けていた。父は、吉良の母の気持ちを尊重していたのでしょう。吉良の母と私の間に、義理の間柄と言う垣根を作りたくなかった。ずっと吉良の母を本当の母親だと信じていたけれど、血の繋がりはないと知ったのは16の時だった。ショックだったけど、私は吉良の母の愛を一瞬たりとも疑ったことはなかったわ・・・。もちろん今も・・・」
「いい人ですものね」
「ええ・・・」
「それにしても、私・・・。吉良先生に向かってずいぶんずけずけと言ってしまって、失礼極まりないわ・・・」後悔しても後の祭りだけれど・・・。今考えると冷や汗ものである。
「でも、そのおかげで私は救われた・・・。ようやく母の愛を感じられた。自分の部屋のあちこちには母から贈られたものが溢れてて、私はその中で、東の母の愛に包まれていたの・・・」愛子はふっと笑う。「吉良の母が言っていたわ・・・。親子ねって、好みまで二人は生き写しだって・・・。その時の母は寂しそうな顔をしていたけど、たとえ血の繋がりがなくても、私はあの人の娘なのよ・・・。私は幸せ・・・。吉良の母の愛を感じられる。それに私には二人の母がいるのだもの・・・」
 実母は亡くなってしまったけれど、愛子は二人の母親の愛を今も感じているのだ。愛子の熱い思いが千春の胸を打つ。もう、彼女は大丈夫・・・。千春は心底嬉しかった。

 川久保は鍵をかけた。きちんとしたスーツに身を包んでいる。いつもどこか世捨て人のような雰囲気を持つ川久保ではなかった。カバンをしっかり持ち直し、背筋を伸ばした川久保はポプラを見上げた。彼の表情は毅然のした決意が表れているようだった。そして、彼は妻子が発見された池へと目を向けた。厳しい表情を浮かべ、悲しみを振り払うかのように池に背を向け歩き出す。
 彼に一体何が起きたのか、千春たちにわかるはずもなく・・・。果たして彼は一体何をしようとしているのだろうか・・・。



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