第38話 | 紫苑の扉

紫苑の扉

主にストーリーと詩を書いています。
あるがままに、そのままに・・・。
徒然に気ままに

 千春は雪子や高橋と、千代が用意した夕食を取った。吉良夫妻は自室で食事をとってくつろいでいるということだった。
 翔は千春の前に姿を見せなかったが、吉良のスタッフと夕食をとっているらしいと高橋から聞かされた。翔が考えていることはさっぱりわからない。まるで自分を避けているようにもとれる。別荘にいる気配はするが姿を見せない。千春は翔を探す気にもならず、しばらく知らぬ顔をすることにした。
 千春は目が冴えて眠れず、ベッドを降りると、窓に近寄ってカーテンをわずかに開く。   
 月の光が庭に敷き詰められた芝生をほのかに照らしている。窓を開けると生ぬるい空気が入り込んできた。
 暗がりに慣れると、木々が風に揺れる陰影がぼんやり見える。その時、人影が見えたような気がした。目を細めてその人影の正体を見極めようとする。月の光が雲に遮られて人影は見えなくなった。千春は息を吐き出すと、窓を閉めてカーテンを引いた。
 目覚めると千春は庭に出てみた。そこで吉良夫妻の姿を見かけた。木に寄りかかって辺りを何気なく眺めていた時だった。寄り添う二人はにこやかに笑って、朝の散歩を楽しんでいる。朝の挨拶をするべきなのだろうが、二人の邪魔をする気はない。千春は引き返そうと向きを変えた。
 振り返るとそこに翔が千春の前に立っていた。
「あら、誰かと思ったらあなたなの・・・。なに?もうかくれんぼうは終わり?」
 何も答えようとはしない。千春を見つめる翔の瞳は暗く、光は届かない深い底に沈んでしまったかのようだった。千春はそんな翔の瞳に怯んだ。
 翔は千春から目を逸らし、並んで歩いていく吉良夫妻に目を向けた。
「今日、彼の撮影に入る。君は撮影を見学するといい。スタジオで待っている・・・」
「翔?」
 翔は歩き始め、千春はその後を目で追と、吉良夫妻の姿が視界に入ってくる。翔は二人に気づいていないのか、別荘に向かっていく彼の歩調は変わらない。
吉良は立ち止まって翔を見つめている。千春には吉良の表情は見えない。視線を感じたのか、吉良は千春の方に視線を向けた。千春は慌てて軽く頭を下げた。吉良は千春が顔を上げると頷いた。千春には吉良の顔がわずかに強張っているように見えた。
 千春はスタジオには行かず、部屋で本を読んでいた。吉良がどんなふうに翔を撮っているのか見てみたいと思う気持ちもあるが、自分は自分のやり方で翔を撮りたい。
 ベッドの上で足を伸ばし、次のページを開いて文字を目で追う。時間があれば読もうと思っていた本だったが、文字を追うだけで実際のところ内容など頭に入ってこない。諦めて頭を上げ、耳を澄ましてみる。物音ひとつしない、まるで別荘には誰もいないかのようだった。
 ふと千春はドアの向こうに人の気配を感じ取った。まるでそれは自然で当たり前のように、ドアの向こうにいるのが誰なのかわかった。千春は本に目を落とした。本に集中しているのではなく、ドアの向こうに気を取られている。
 ドアは予告もなくゆっくりと開いて、ゆっくり閉まった。
「ずいぶん礼儀正しい挨拶ね。断りもなく黙って入ってくるなんて・・・。撮影は終わったの?」目を上げずに、本を見据えたまま言った。
「本を読んでいるのか・・・」ベッドに近寄り、千春の前に立つ。
「撮影が早く終わったの?」
「抜けてきた。君はなぜ来なかった・・・」
「抜けてきた?駄目じゃないの・・・」本から目を放して顔を上げる。
 二人は目を合わせた。翔の瞳はいたずらっぽくきらきら輝いている。千春はむっとしたように口を歪める。
「あの人を困らせて、面白がっているの?」呆れた・・・。千春は溜息を吐く。これではまるで子供をたしなめる母親だ。
「焦ることはない、撮影はそう簡単に終わらない。だろ?」
「いつもこんなふうに、誰かを振り回して面白がっているのね」
「その時、その時の状況を楽しんでいるだけさ・・・」
 翔は真っ白なTシャツにジーンズという軽装。ジーンズは膝下が擦り切れているが、値の張る品物だとわかる。彼のことだから肌にしっくり馴染み履きやすさで選んだに違いない。スニーカーは洗いざらしでお気に入りのもの・・・。さりげない装い・・・。
「海に行こう・・・」
「海?」また、あの海に行こうというの?
「この前、行った所じゃないよ」
 ふぅっと翔の瞳が曇たように見えた。それは一瞬のことで、いつものいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「海へ行くにはもう遅いわ・・・。その辺を散歩するだけにしましょう」
「遅いだって?まだこんなに明るいじゃないか・・・」翔は腕を広げて首を竦める。
「撮影が終わってないでしょう?さっさと済ませていらっしゃい」
「そりゃ・・・ないだろう?」
「共同制作といっても、同じシチュエーションで撮るなんて面白みがないわ」
「そりゃそうだけれど・・・」翔の口元はふてくされて拗ねたように歪んでいる。
「それがあなたの狙いでしょう?私は私のやり方があるのよ。あなたの気まぐれに付き合わされた上に、吉良カメラマンの邪魔をしていると言われたくもないわよ。わかるわね、早く行きなさい」
「さっき散歩へ行くと・・・」期待を裏切られて肩を落とす少年という様相だ。
「撮影が終わったらと言う意味よ」頭が痛いというように額に指を添える。
「わかったよ」とたんに瞳が明るくなる。
 まったく・・・。ドアが閉まると千春は首を振る。本を閉じて、そっと枕元に置く。
 千春は外に出て、別荘の門へと向かった。柔らかい芝生を踏みしめながら口笛を吹く・・・。
 千春は門を通って入ってくる車に目を見張った。
 なぜ、彼女がここへ・・・。生温い風が千春の頬を掠めて行く・・・


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