第19話 | 紫苑の扉

紫苑の扉

主にストーリーと詩を書いています。
あるがままに、そのままに・・・。
徒然に気ままに

 千春は運転席にいる翔を信じられない思いでみつめた。こんな間近に彼がいること自体信じられない。仕事としてレンズを通して彼を見つめてきたのだ。あくまでもモデルとカメラマンという関係に過ぎない。
「何を言うかと思えば・・・。あなたは人気モデル、私は仕事であなたを撮る側の人間よ。それ以下でもそれ以上でもないのよ。それにいちいちモデルとプライベートを一緒に過ごしている暇はないのよ」
 翔は正面を見据えていて、その横顔には何の反応も見当たらない。翔はただ私に写真集の仕事を引き受けさせたいだけなのだ。でも、なぜ私なの?
「こんなことをしても無駄よ。私は引き受けるつもりはないから・・・」
「言っただろう。君と話がしたいと・・・。今は仕事の話をしたいわけじゃない。もちろん写真集のことはまだ諦めたわけじゃない・・・」
「あなたと私が共通するものなんて仕事以外ないじゃない。年だって違うし・・・」
「本当にそうか?」
「あなたのことは何も知らないわ。モデルであること意外は・・・。あなただって私のことは何も知らないじゃない」
「三人姉妹の真ん中、君の姉さんは小説家だ。君は仕事はできるし、仕事熱心だ。すらりとした体型で頭もいい。君の撮る写真は最高だ。君がカメラを構えると私はポーズをとる。最高の自分を引き出してくれる君に応えたくて、気持ちが高揚してくる。でも君はレンズから目を離し、私を遠ざける・・・」
 ゆっくりと車の速度が落ちる。二人の乗った車は街を見渡せる高台へと向かっていた。
「いつもそうだ。近づけると思うと君は遠ざかる。私を突き放すように背を向けるんだ。君はレンズの中の翔を受け入れても、レンズを離れると、とたんに撥ねつけるんだ」
 千春は何も言わず黙っていた。とんでもないことを口走ってしまうそうな気がしたからだ。レンズを通して翔を見つめることしかできないと思っていた。被写体として見ることで満足だったはずなのに・・・。色々なものをカメラに収めることが自分の仕事だ。あくまでも仕事として・・・。それでいいと思ってきた。
「わけのわからないこと言わないで、引き返してちょうだい。あなたはあくまでもモデルなんだから、そのあなたを被写体として写真に撮るのが私の仕事だった。以前はね・・・。今は違うわ・・・。今まで通り吉良カメラマンに写真集を頼むのね」
 翔はいきなり急ブレーキをかけ、車は悲鳴を上げて急停止した。千春の心臓は激しく波打つ、どくどくと脈がうねりを上げる。
「君が撮るんだ!他の誰にも君の代わりにはなれない。君に撮ってほしいんだ。身構えて鎧を着た偽りの翔ではない私を・・・」
 翔は千春の両腕を掴んだ。千春の前にいる彼は、レンズの向こうにいる翔ではない。まるで自分を曝け出し、感情を吐き出すような・・・。千春の中で色んな感情が絡み合い縺れざわめく。
「私は絶対諦めない。私には君が必要なんだ。君は私を撮りたいと今でも思っているはずだ」
「凄い自信ね。そこまで自惚れるなんてたいしたものだわ・・・。呆れてものが言えないわ・・・」
 千春は助手席のドアを開ける。
「どうするつもりだ」運転席から身を乗り出し千春の腕を掴む。
「あなたもそこから出てちょうだい。無茶な運転されたんじゃたまらないわ。あなたからすればたいした車じゃないけど、ようやくローンを払い終えたばかりの愛車よ。事故でも起こしたらあなたどうするつもり。社会的制裁を受ける覚悟はあるの?俳優の仕事を不意にしかねないわよ。手を離してちょうだい」
 翔はゆっくりと千春の腕から手を離す。
千春は翔の手の感触がいつまでも消えないような気がした。いや、消えないでほしいとさえ思うのだった。見ているだけでよかったのよ。それで私は満足よ。千春を嘲笑うように心の声がする。
― 本当に?嘘つき! ―
彼にもっと近づきたいと思う。だけどそれはできない。胸を刺すようなこの痛みは一体何?傷つくのが怖い?
翔は認めないかもしれないけど、心に秘めて閉じ込めようとしている。翔は人を安易に受け入れたり求めたりしない。彼は深い心の傷を抱えている。彼の瞳が翳るのを見るたびに、私の目の前から遠ざかるような気がしていた。心の傷を硬い殻というバリアを張り巡らし、自分を必死で守ろうとしているのだ。
私にはその殻を破る術を知らない。硬い殻を突き破る力など私にはない。殻を突き破ることができるのは彼自身なのだから・・・。

 千春は運転席に乗り込み、助手席に座る翔を見る。
「送るわ・・・」
そう言ったものの翔は不機嫌にシートに寄りかかっている。
「何処なの?」
送るといっても彼が何処に住んでいるのか知らない。
「何処でもいいだろう。何処に住んでいようが君には興味ないことだろう」
 千春は小さく溜息を吐いた。まるで捨て猫みたい・・・。いや野良猫?ドラ猫?ふてくされた翔を見ておかしくなった。
「子供みたいに拗ねないでちょうだい。あなたはモデルとして名前も顔も知られている有名人よ。近くまで送るから、そこからは一人で帰ってちょうだい。これから俳優として立派な演技を見せてほしいものね」
「諦めたわけじゃない。そう簡単に私が君を解放するなんて思わないことだ」
「それって捨て台詞?」
 翔は微笑んでいる千春を軽く睨んだ。
「何でこんな女がいいんだ。どうかしている・・・」
「え?何か言った?」
「何で君が好きなのか自分でもわからないと言ったんだ。おい!前を見ろよ」翔は助手席からハンドルを掴む。
 千春は自分の左手の上に重ねられた手の感触にどきりとする。
「だから私が運転すると言ったんだ」ハンドルを放しほっと息を吐く翔・・・
 聞き違いよね・・・。そんなことがあるはずがない・・・。何度も自分に言い聞かせながら運転に集中しようと必死の千春・・・
「あのマンションの前で止めてくれ・・・」前方のマンションを指差す翔・・・
「あなたあのマンションに住んでるの?」
「ああ・・・十階の1号室に住んでる。寄っていくかい?」
 いきなり千春はブレーキをかける。
「さっさと降りなさい!」
「わかったよ。私の親指姫」
「翔!」
 怒った千春を見て翔は笑った。
「私のことを忘れないためのおまじないだ」
 翔は千春の唇の横にそっとキスした。
 千春は一瞬何が起きたのか理解できないでいた。ドアが閉まる音に彼女は瞬きし、翔は窓越しに手を振ると、キスの余韻を残してマンションに向かって駆け出した。
 

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