こんにちは。所長です。

 

僕はわりとアニメオタクで

好きな何アニメは何10回でも観ます。

 

で、何10回も観る中で

だんだんわかってくることや

最初は気づかなかったことに

気がついたりして

自分なりの解釈をするのが

楽しいわけです。

 

例えば、

ガンダムの第2、3話って

みなさん覚えてますか?

 

みんなで宇宙船に乗って

逃げる途中の話なんですけど

その宇宙船では、

食事をボランティアで配る

主人公の幼馴染が描かれています。

その幼馴染に対して

ぐちぐち文句を垂れる人が

何人もいます。

 

これっていうのは

こういう状況になると

人間性が浮き彫りになる。

 

ってことじゃなくって、、

 

ボランティアとか何でもいいんだけども

自分のやりたいことや

成すべきことを

見つけられた人間は

社会的な強者で

それが見つけられない人間は

社会的な弱者になるんです。

 

 

だから人は、

やりがいや成すべきこと、

自分探しをしたり

自分にしかできないことを

探してしまうんだと思います。

 

いつも文句を言ってる人とか

社会に不満を感じている人とか

そういった人たちは

成すべきことや

やりたいことが見つかってない。

自分が必要とされる場所を知らない。

そういった居場所がないことに

起因しているのではないだろうか?

 

そういった気づきが

ガンダムやアニメを

味わい深いものにしています。

 

ところが、

最近のアニメには

そういったシーンはありません。

 

なぜなら、

1回見ただけでは普通に不愉快。

おんなじ話を何10回も観るような

アニメオタクはもうほとんどいない。

 

ちなみに、

アニメ好きと言えば、

僕らの世代は

やばいやつ認定か、

いじめの対象か、

犯罪者予備軍あつかいでした。

 

しかし、

昨今ではアニメ文化というのは

海外人気も相まって

一般大衆化しました。

 

一般大衆化するということは、

僕みたいに何回も何回も

同じ話を繰り返し観るような人ではなく、

1回しか見ない人に向けて作るので

僕らのようなアニメオタクは

アニメを見なくなってしまいました。

 

その中でもたまに面白そうなやつとか

ガンダムの続編だけは観ているのが

現状なわけで、

ほとんどのアニメを見ない

アニメオタクとなりました。

 

そして、

その方が良いと思います。

 

例えば、

神作画と呼ばれるようなアニメを

YouTubeとかで検索してみて下さい。

 

すごくカッコいいシーンが

たくさんあります。

こういうのは1回しか見ない人が

1回でカッコいいと

思えなければならないので

映像美として

非常に優れた商品だと思います。

めちゃくちゃいいと思います。

 

が、

ガンダムの神作画といえば

パッと思いつくのが

OPの中で

「きみよ~ 掴め~!」

という歌詞があって

そのシーンです。

 

それは、

主要キャラクターたちが

天に向かって思いっきり手を伸ばして

そして誰も何も掴む仕草をしない。

ここにはみんな誰もが

何かを成し遂げようとしている、

何者かになろうと奮闘しているけど、

まだ誰も何も成し遂げられない

その過程や生き様、死に様を描く作品だと

そういったことが感じ取れます。

 

そういった作画を

古のアニメオタクは神作画だと

もてはやしています。

 

映像美としての神作画ではなく、

文学的な神作画と言うべきでしょうか。

 

これは子どものときには

残念ながら何も感じないんです。

 

自分が大人になって、

あるいは大人になる過程において、

何かを成し遂げようと

あるいは何者かになろうと

もがいている時やもがいた経験が

あの作画を神作画に感じさせるのです。

 

これが文学的と言っている背景です。

 

99%の人が

何を言っているんだ?

 

と、思うでしょう。

 

そうです。

それだと、一般大衆化したアニメは

成立しないんです。

 

だからアニメはこれでいいんです。

アニメオタクは見ないんです。

 

むかーしのやつを

いつまでも観るんです。

それでいい。 

 

ながーく

こんな話をしてますが

最後に言いたい事言います。

 

声優業界が心配です。

 

このように、

アニメオタクというのは

自分で言うのでいいんですが

異常です。

 

では、

その世界にあこがれて入った人は、

あるいはその世界を作ってきた

原住民は正常でしょうか?

 

芸能事務所や

養成学校よりも

正常でしょうか?