日の光がいくつかの雲にさえぎられ、とぎれとぎれに僕の足元を照らしてゆく。
冬の息吹が世界を飲み込んでいくような、背筋が少しくすぐったくなるような気持ち。
口から漏れる吐息は白く、この場の大気と僕の温度差をしっかりと伝えてくる。
寒くないようにと着込んだはずのコートやマフラーも、この身を切るような風から僕を守ってはくれない。
じわりと、目から何かがあふれてくる。
それが涙だと、気付いてはいる。でも拭おうという気にはどうしてもなれなかった。
拭ってしまえば、それが涙だと認めてしまう気がしたから。
「僕は、何を間違えたのかな」
こころのうちにある多くの思いの種がひとつ、落ちていく。
「ここで、こうすることに何の意味があるんだろう」
たった一つこぼれた思いは、すぐに芽を出していく。
一人の想い人を待った彼は、感情をゆっくりと飲み込んだ。
「あなたは、今どこにいるんだろう。思いもよらないところで君は幸せに生きているのかな」
ありふれた日常の中のほんの一瞬。
生きていれば、きっといつかはかき消されてしまうほんのひと時の時間。
「君と、一緒に生きたかった」
彼の言葉は、空の向こうへと溶けていった。
*
1月。
冬の朝というのは、どうにも慣れない。
山育ちとはいえ、寒いものは寒い。時計を確認すると普段の起床時間より、少し早かった。
「なんでしたくもない早起きをしてるんだ、僕は」
布団の中でもぞもぞと体を捻る。
新年の初売りで手に入れた電気毛布に包まりながら、今日やるべきことを順に思い出していく。
今月までの納期分は後二本と、作業途中分が一本。
後は二月先と、納金待ちが一本ずつ、来月までは余裕がある。
とりあえずは今やらなくてはいけないことを片付けなくては。
暖かな布団をゆっくりと剥がし、体を起こす。
部屋の乾燥した冷たい空気が一気に体の熱を奪っていく。
「寒いのは嫌いだ。おかげで変な夢見ちゃったし」
ぶつぶつと文句をたれながら、ベットの中で暖めていた半纏を引っ張り出す。
事前に暖められていた自分より少し大きなそれはまるで体を包みこむ布団のようだ。
「仕事、やりたくないねぇ」
PCの電源に手を伸ばし、最小限の動きでボタンを押す。
待機状態を保っていたパソコンは息を吹き返したようにそのファンを回し始める。
「こいつもそろそろ替え時かな。冷却ファンうるさすぎるね」
ワンルーム、フローリングにラグを敷いた部屋に、実はパソコンが二台ある。
敷かれたもうひとつの布団の中にいる人間がその持ち主だ。
床に直置き去れた彼のパソコンの騒音はもう一人の住人を起こすには十分。
間の抜けた声が布団の中から飛んでくる。
「おなかすいたぁー」
それも、身じろぎひとつせずである。
「おはようが先じゃないかなー」
マウスを操作し、メールやSNSを一通り確認していく。
「だってもう早くもないでしょー?」
「いや、まだ六時過ぎだよ」
「そんな時間から仕事してんじゃないわよ……」
文句の声が少しずつ大きくなっていく。
布団のすれる音と、乱暴に体をかく音が聞こえる。
「乾燥してるからかゆくなるんだよ。これでも塗りな」
パソコン脇に転がっていた彼女のハンドクリームを拾って後ろ手に差し出す。
「ありがと。ユウト、今月分って後何本?」
「編集途中が1本とまだ手をつけてない分が2本。
営業の甲斐あって今のところ発注来てるイベントが来月十本以上ある」
「私の分と合わせても今月20本弱かー。まぁ二人でまわしてるんだしこんなもんかね」
「アキホの方が納期遅めの多くていいよなぁー」
「後半に詰まってるからサボってると死に目見るけど、ねっ、と」
アキホが体を起こした音が聞こえる。
「ご飯は昨日の残りがジャーの中にまだあるはず。
賞味期限ヤバ目の卵あるから、それ使っていいよ。むしろ使って」
「ええ。私作るのやだからユウトが作るの待つ」
「お腹すいたんじゃないのかよ」
「お腹すきすぎてなにもやる気が出ない。わかるくせに」
そういいながらアキホは自分のパソコンに向かう。
視界の中で流れていく映像を選別して、並べ替えつなぎ合わせていく。
「映像編集とイベントの管理業務代行。
これだけで何とか食ってるけどもう少し稼ぎほしいよね」
「アキホは何かほしいものでもあるわけ?」
「睡眠時間とセックス抜きの奴隷男とお金」
「素直かよ」
「三大欲求の内二つも我慢してやってんだから、神様も叶えてくれてもいいと思わない?」
「へいへい。ベーコンエッグとご飯でいいな」
「ならトーストがいい」
「我慢はどこにやったんだお前は」
「そこらへんに落ちてるんじゃない?」
アキホが小さな音でタイピングを始める。
あまり大きな稼ぎとはいえないが、アキホが個人的にやっている企業評論の執筆だ。
意外と世間の反応は悪くないらしく、コンスタントに依頼が来ている。
パソコンからいったん離れ、通路に申し訳程度に作られたキッチンに立つ。
コンロでフライパンを温め、浅く油をしき温まってきたところに小さく切ったベーコンを入れる。
油の弾ける音と、香ばしいかおりが狭い通路を通って部屋の中に流れていく。
「かーーうまそう!」
およそ女性のそれとは思えない声を上げながらアキホが駆け寄って来る。
「近いわ」
右肩にあごを乗せ、手元を覗き込んでくる。
自分とは違うシャンプーの香りがするが、そんなことにどきどきする時期はとうに越えている。
さっとベーコンを裏返し、卵を落としていく。
アキホは黄身が二つあるのが好きなので、三つ割りいれる。
さっと塩コショウを振って、ほんの少し水を入れて蓋を閉じる。
数分も蒸せばベーコンエッグの出来上がりだ。
「半熟!?」
「消費期限近いからしっかり火入れる」
「まぁ、仕方ないかー」
しょんぼりとしながらアキホは作業へ戻っていく。
それから、簡単な朝食を済ませてどちらが皿を洗うかで少しだけもめて、
結局じゃんけんでアキホが皿を洗ってくれることになった。
この寒い冬の季節に冷たい水はとても酷だ。
水が流れる音を聞きながらお湯を沸かし、コーヒーの準備をする。
「アキホ、ドリップコーヒー無くなりそう」
「今度の日曜安いから買いに行こうー」
「了解」
朝の冷たい空気の中暖かそうな白い湯気がゆっくりと昇ってくる。
「でもまだ粉の溶かすやつあるよね?」
棚の奥をちらりと見やると、茶色のビンが見える。
「あるけど、アキホ美味しくないって飲まないじゃん」
「私は別になくてもいいけど、ユウトが無いとだめでしょ?」
「そか。ありがと」
気遣いでの質問だったということに今更思い当たって、少し恥ずかしくなる。
「はー冷たかった!」
そういって部屋に戻ってくるアキホにコーヒーの入ったマグを差し出す。
「とりあえず今日も頑張ろう」
「ほどほどに頑張るわー」
アキホは気だるげに椅子に腰を下ろす。
僕が追い続けた背中が、そこにある。
恋人としては、無理だけれど、ビジネスパートナーとしてここにいる。
あの日に来てくれなかった君は、ここにいる。
今は、それでいい。
これから先の未来がどうなるかはわからないけど、この瞬間を僕は悔いなく生きていく。
「さてと、食い扶持稼ぎますよっと」
少し悴む彼女の手を少しだけ見つめて、画面へと視線を戻す。
意識が、没入していく。
その瞬間にこの部屋にいるのは、僕と、仕事仲間だけだ。
僕にはそれがとても、心地よかった。
fin