やってしまった。
それだけが頭を席巻してゆく。
圧迫される脳はその機能をマヒさせ、開かれた口は閉じない。
勢いよく立ち上がったせいで、椅子は大きな音を立てて倒れる。
それに驚く目の前の表情。
震える手を口元にあて不安そうにする。
「え、……あの……」
言葉にならないつぶやきが彼女の口から洩れる。
やってしまった……
初めてにして、最も犯してはならない失敗を犯してしまった。
まずは、
さっとタイを整えて、
「いらっしゃいませ。ようこそフレンズへ」
いつも通りにやることしかできない。
*
注文はアイスコーヒーを一杯だけ。
シロップやシュガーはなし。
重そうなリュックを降ろして、スポーツウェアの女性はカウンターに腰を降ろした。
特に気を付けて、話を進める。
できる限り不安を少なくするように。
「あ、あのっ!」
上ずった声は明らかに不自然な響きを作り出していた。
目の前の表情が少しの驚きと疑念を写す。
普段の青年であるなら滅多なことでもない限り、自身から声をかけるようなことはない。
しかし、今回はそうはいかない。
淹れたコーヒーを差し出しつつ、もう一度口を開く。
「お客様にお詫びしなくてはならないことがあります」
それからは、青年の独白の形となった。
この店が日本各地を転々としていること。
それが人知を超えた範囲で行われていること。
そして、
「つまり私は、疑似的に瞬間移動してしまった、と?」
あまりにナチュラルな返しに、正直拍子抜けしてしまった。
「そういうことになります」
包み隠さぬ返答。
そうやってしか今は誠意が伝えられないと思ったから。
いまだ赤くはれた瞼が少し重く感じながら青年は続ける。
「誠に申し訳ございせん。行き先をお教え願えればそこまでの移動費はお支払いいたしますので……」
「いえ、それは必要ありません」
この日何度目かの衝撃。
大きく脳を揺さぶり、思考が一本にまとまらない。
混乱している頭からどうにか一つの言葉を紡ぎだす。
「どういう、ことですか?」
何がどうなっているのか、むしろ青年の方が分からなくなりつつあった。
「言葉のままですよ。必要ありません。私は探していたんです、ある場所を、ある人を」
そこで言葉を区切り、ぬるくなったコーヒーを半分ほどのどに流し込み女性は息をつく。
「私ね、すごく小さいころにここへ来たことがあるの」
青年は言葉を吐き出す余裕さえもう残ってはいなかった。
自分の知らないマスターを知る人物との出会い。
ただそれだけで胸が躍った。
目頭が熱くなる。
青年自身でさえその理由がすぐにはわからなかった。
「私はね、大切な親友と離れ離れになって、それが嫌で、認めたくなくって。
そうしてここに、来た。
いえ、迷い込んだといったほうが正しいかもしれないわ」
少しだけ自重するように女性は笑う。
続く言葉が待ち遠しくて、宙は、身を乗り出してしまう。
「そこでね、あなたとは違うここのマスターに、絆があればきっとまた会えますよって言ってもらったの。
その時に話してもらった言葉の一つ一つをはっきりとは覚えてないけれど、あの人の温かさは今も覚えてる。」
そしてまた一口コーヒーをすする。
「それから私は、また親友に出会えて、もう一度ここを訪れたけれどそこには空き地しかなくて。
あなたの話を信じたのは、それがあったから。
だって小さいころの記憶のまんまなんだもの。どうしてだか信じるしかないって思っちゃったの」
少し紅潮した頬は、恥じらいからかそれ以外の何かなのか、宙には量り知ることはできなかったがそれ以上の親しみを覚えてしまったのだ。
なぜなら、
「僕は、あなたのことをきっと知っています」
「え?」
驚きの強く出た表情。
不思議だがなんとなく居心地がいいこの空気に二人は飲まれるように会話を続けた。
「僕はマスター、あなたが以前お会いになられた店主から様々なお話を聞かせてもらっていました。
このフレンズを訪れた、様々なお方のお話を」
「その中に私の話も?」
「ええ。ありました」
「うわー……はずかしいなぁ……」
うつむき加減に伏せられた目はしきりに自身の足とコーヒーカップを行き来していた。
「ところで、あなたのお名前は?」
女性は照れを隠すように急に話題を変える。
「僕、ですか?
僕の名前は、宙といいます。
あなたは?」
何気なく発した自身の名前。
意識的に自分の中から弾き出していた一つの記号。
あの人とのつながり。
初めて他人に自分の名前を明かしたことなどこの時の宙にとっては些細なことだった。
「私の名前は、言うに寺と書いてうた、詩って言います。
わたし、ここに住まわせてもらってもいいですか!?」
唐突すぎる言葉は、宙の鼓膜を揺らし、再度の衝撃を見舞った。
「え?」
間の抜けた返しだと我ながらに後々恥じることになるのだが今はまだそんなこと知る由もない