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突きつけられる書類に目を落とす。

わかって、いた。

この不景気だ。

いつ首が切られてもおかしくなんてないさ、そうならないようにしたいもんだな。

同僚と交わした会話が脳裏をかすめる。

え?

俺が?

何で……なんで俺なんだよ……

意味が……分からねぇよ……

目の前に立つ恰幅の良い、つまりデブの男の口元に目をやる。

粘つくような動きで紡がれた言葉は、

「笹本 雄太、もう来なくていいぞ。明日から」

だった。

単純に半月後の退職を伝えられただけだ。

明日から来なくていいというのは、新たな職場を探す期間として半月間を当てていいということだろう。

上司の見てくれはあれだが、それ以外はいたって平凡なこの会社にまで不況の波は押し寄せている。

いや、こういった平凡なよく見れば善良なこういう企業だからこそ、そういった際一番の被害者となり得てしまうのではないか。

そのしわ寄せが、これ。退職通知だ。

当日はきちんと定時まで仕事をこなし帰宅したが、さすがに翌日はアクティブに仕事をする気にはなれなかった。

退職が決まって三日が経つと、さすがに焦燥感が体をかける。

職安に行こうと決意したのは五日目、遅すぎる行動だった。

気持ちがついてこない。

いくつもの企業に出向き、面接を繰り返す。

何度も、何度も。

そのたび突きつけられる現実。

仕事が、ない。

いつしか職安にさえ行かなくなっている自分に気づいたのは、退職を通知されてから一か月。

職を失ってからもう半月が過ぎたころだった。

ろくに金がない。

住んでいたアパートも解約し、酷いボロアパートに移り住む。

幸い退職金はきちんと出たので、食い物には困らないが、それもいつまで続くかわからない。

心が摩耗していく。

スーツに腕を通すことさえ忘れてしまったかのようだった。

ネクタイはどうやって結ぶものだったか、アイロンなんてないからどうやってシャツをきっちりしよう。

そんなことを考えるのさえ億劫だった。

そんな折、以前の同僚から一通の手紙が届いた。

携帯は解約してしまったし、電話なんて引いていないのでこういった形をとるしかなかったのだろう。

中を開くと、そこにはこちらの現状を心配する旨の文面が綴られていた。

それを読み、手のひらに力がこもる。

そして、薄汚いジャージに包まれたからだが、カッと熱くなる。

「お前に、なにがわかるっていうんだよぉ!」

床に叩きつけた封筒。

きれいな便せん。

何もかもが自分を笑っているように見える、感じる。

世間の目すべてがまるで自身を嘲笑するかのように、蔑むように感じる。

こんな生活なんて、

「こんな生活なんて……」

思いが口を突いて出る。

振り切れた思いが、口からにじみ出る。

「もう、耐えられない?やめちゃうの?全部」

身動きが取れなかった。

まっすぐにこちらを見上げる瞳。

右手には靴を下げ、頭には真っ赤なリボン。

セミロングの金髪はどこから吹いているのかもわからない風に撫でられ、少し不満そうになびいている。

水色のワンピースに大きな瞳。

整った顔立ちと、そしてこの――

「どうなの?」

声。

美しいというにはあまりに子供のそれであるのに、耳について離れない。

どこかこそばゆい。

身じろぎをして、つぶやく。

「きみは、だれ?どこから……」

そこまで口にしてようやく思い至る。

そうだ、これはいったいどこから現れた。

まるで突然そこに存在し始めたように、もう目の前にいた。

「今は私が質問しているんだけれど?」

幼い声とは裏腹な強い語調。

一切の無駄を許さないというような声。

たじろぐ。

「え、あぁ……」

声が続かない。

口がカラカラだ。

何を喋ればいいのだろうか。

「ん。どうしようもないよね。理不尽って」

ぐさりと胸に刺さる。

「あんな会社、こっちからもうごめんだよね。上司はあんなだし、同僚だってわざわざこんな手紙よこして自慢でもするようにさ。

ほんとに、やめてせいせいするよね。

可哀想なのはむしろあそこで働き続けている人たち、そう思わない?」

聴きごたえのある美しいソプラノはいつしか醜悪なモスキート音のように感じられていた。

「どう、おもう?ねぇ」

一瞬少女の顔がゆがめられる。

残忍で、この問答を楽しむようなそんな嫌な笑い。

「違う!!」

気づけば、また叫んでいた。

これが俺自身をあおっていることなんてわかっている。

それでも言い返さなければいけなかった。

あの会社の仲間は、

「あいつらは悪い奴らじゃなかった!!!!」

思いがまた呼吸をするように、この見ず知らずの少女に向けて吐き出されていく。

「あの会社は他よりも給料は安いし、上司の見てくれは悪いけど、みんな笑顔でいい雰囲気の会社だったんだ。

きちんと定時に上がらせてくれるし、残業代だって出してくれる。

ミスすりゃ怒られるけど、一回だってそれで精神的にいたぶられることもなかった。

みんなで助け合えていたんだ。

なのに、俺は、おれはっ!

あの会社を、あいつらみんなを、恨もうとしてた、憎もうとしてた……。

あそこを理由に逃げようとしてた、この現実からっ!!」

一度そこで言葉を切る。

少女の顔はいつしか、優しく微笑みかけるようなものに変わっていた。

「なら、今すべきことがあるんじゃない?」

今まで逃げていた現実。

張りつめているように見えて明らかに緩んだ日常。

その弦をもう一度引き絞るために、顔を上げる。

髭の濃くなってしまった薄汚れた顔で、封筒を拾い上げ、前を見る。

なりふりなんてかまってられない。

まずはこの手紙の最後の一文。

「困ったことがあれば言ってくれ。できることなら力になる」

その一文を頼りにしよう。

まずはアイロンと洗面台を借りよう、きっとあいつなら飯もおごってくれそうだ、なんて少しだけ打算が入りながらも笑う。

いつの間にか、目の前にもう少女はいなかった。

あれは誰だったのだろう。

よれたスーツをもって家を出る。

秋の風が頬をなでる。

もしかしたら白昼夢かもしれないな、なんて思うと自分の精神状態が多少なりとも不安になるが、この際どうでもいい。

やる気の炎と情熱の光をたたえたその双眸はきちんと前を見据えている。

もう、何かを見誤ることのないように。

小さな一歩を踏み出すために。

「かっこわるいなぁ、もう」

そんな少しおどけるような声は秋の彩りの中で踊り、消えていく。

楓の木の枝に腰を下ろした少女は微笑む。

「がんばれ」

つぶやきとともに金色の風が町に吹き込む。

その日、一つの命がもう一度歩き始めた。