風が切る空気の鳴き声が耳を打つ。
それの撫でる肌にはもう感覚はない。
地上からどれだけの高さがあるのか、わからない。
スーツの上に羽織るコートはまるでその身を押し出すかのように、男を死の淵から追い立てるように追い風を受け、たなびく。
男は反芻するようにつぶやいた。
「遺書は書いた。借金は残らないように弁護士に話をつけた。家を売り払う手はずも順調だ。
和人、愛奈、すまない。こんなどうしようもない父を許してくれ」
携帯に写るわが子と妻。
今頃自宅で男の帰りを待っているのだろうか。
きっとそうだろう。
兄から背負わされた多額の借金は男の持つすべてを代償に完済を迎えようとしている。
死んだ兄にはもう関係のないことだろうが。
あとは、闇金に深くかかわったこの男が死ねば家族とは何の接点もないはずだ。
もしものことがあれば、信用に足る弁護士もいる。
これからの生活はしばらくは困窮してしまうかもしれないが、実家がどうにかしてくれるだろう。
言い訳だ。
そんなことはわかっている。
しかし、こうすることでしか男は愛するものを守る術を知らない。
靴下越しに感じるコンクリートの冷めた感覚。
だんだんと奪われる体温。
それに呼応するように早くなる心拍。
ドクン、ドクン、ドクン……
「それでいいの?」
振り向くことはしなかった。
背後から聞こえる柔らかな声。
今までに何度も男性の前に現れた少女のものだ。
黒い古びたコートが風を受けたなびく音が聞こえる。
透き通るような純白の肌。
視線を引き付けるような、マリンブルーの瞳
目深にかぶっているであろうフードの下、耳のように結わえたリボンの赤。
色素が薄くすぐに紅潮してしまうその頬が今でも目に浮かぶ。
「仕方、ないんだ。私にはもうどうすることもできない」
自身で死を覚悟したとき、この少女は現れた。
私を見届けるために存在しているのだという。
(幸せなことだ)
誰かに看取られながらいけるのだ。これ以上の幸福は今の自分にはなかろうと思う。
「なんで、なんでそんなこと言うの……」
見届けるというクセに、すぐこうやって男性を引き留めようとする。
クスリと笑い、男性はそれに答えた。
「私は、逃げるんだよ。この世界から、こんな恐ろしい社会から。
卑怯にも、逃げだすんだ。ただそれだけさ」
なにもロマンティックではない。
逃げるのだ、現実から、今から。
風に乗って小さな嗚咽が聞こえる。
「なぜ、泣くかなんてことは聞かないよ。
君は優しい子だからね。
ありがとう。君のおかげで私は今、笑っていられる」
一度大きく鼻をすすって、少女は言う。
「私は、死を見届けるためにいる。
だけど、私は誰かが死ぬところなんて見たくない!!」
矛盾している。
強く放たれたその一言は、もう男性の耳には届いていなかった。
ビルの淵には小さなカバンときれいに並べられた革靴だが残っていた。
残された少女の頬に流れる二つの雫。
見上げる空には厚い雲がかかる。
息が白くなる。
ぽつりとつぶやいた。
「もう、こんなことはたくさんだ……」
その一言が空気に溶ける。
ゆっくりと舞い踊る雪が朱に染まる体を冷ますように勢いを増した。
細く、白い腕を空に伸ばす。
「もう私は失うもんか……」
言葉が途切れた時、もうそこには誰もいなかった。