短く、さっぱりとした印象の髪を通る風は夏の湿気を感じさせないさわやかなものだった。
歩く早さも、それを味わうように、自然とゆっくりになる。
今日は革靴ではなく、歩きやすいスニーカー。
いつもの燕尾服はたまのお休みとして、クリーニング中。
木々に囲まれた景色が目を癒し、独特の青いにおいが鼻腔をくすぐる。
耳をすませば聞こえる鳥のさえずりと木々のざわめき。
夜に聞けばさぞ恐ろしいのだろうが、今はそんなことはない。
ゆっくり、ゆっくり。
歩く。
あの人が好きだった場所。
今日、八月三十一日はあの人の、マスターの命日だ。
「お久しぶりです、マスター。わかりますか?僕の名前は――」
*
今日は一段と早く、目が覚めた。
もうここにきて、五年の月日がたち少しといった感じだ。
最近では、朝の仕込みは自分が担当するのだがそれにしたって早い。
時計は午前四時ちょうどを指していた。
身を起こし、まだ寝ているはずの男性を探す。
……いない?
一息に体を起こし、部屋中を見回す。
いない!!
最近体の不調を感じさせることもしばしばあった。
(マスター!!)
宙は強引に意識をたたき起こし、着替えを済ませる。
すると、店の方から柔らかな砂糖とチョコレートの香りが漂ってくる。
不思議に思うでもなく、青年は動きをゆっくりとしたものに変え店へと出る。
「おや、起こしてしまいましたか」
両手に二つの皿、白と濃い茶色のショートケーキ。
明らかに二人分用意されたソーサーとカップ、湯気の立ち具合から見て先ほど入れたばかりなのだろう。
芳醇な茶葉の薫りが優しく心を撫で、自然と心を落ち着かせた。
「嘘はやっぱり下手ですね、マスター」
声の変わり始めの遅かった少年時代からすると大分背も伸び、声も低くなった。
目鼻立ちは少し引き締まり男性然とした風格も多少なりつく。
そんな年ごろの青年に、まだまだというように男性は返した。
「何のことでしょうか。ちょうど手違いでお茶とケーキを多く用意してしまいました。こっちに来て一緒に食べませんか?」
「はい。マスター」
二人でカウンターに腰掛け、ゆっくりとフォークと動かし紅茶の香りと程よい暖かさを楽しむ。
これが最高の贅沢といわずしてなんとするかと、そんなことを思う反面あることが脳裏をよぎる。
「宙、覚えていますか」
ケーキを半分ほど残し、男性はその手を止めた。
応じるように宙も手を止め口の中に物がないことを確認し、言葉を紡ぐ。
「まだ、そんな時期ではありませんよね?」
唐突すぎる返しに、男性は一瞬目を見開き、そして柔らかく微笑んだ。
「宙はずいぶんと鋭くなりましたねぇ」
「マスター……」
「申し訳ありません。もう時間がありません」
「っ!?」
立ち上がることこそしなかったが、宙は腰をすっと浮かせた。
「覚悟は、できていたはずです」
それは宙のことをよく知る男性だからこそ言えたことだ。
「宙、あなたは気付いていましたね?この日が近いことを」
宙という青年は実年齢こそ若いものの、その精神面においてとても大人びていた。
「はい、マスター」
腰を下ろし、両の拳を膝の上でぎゅうっと結ぶ。
震えるその手に、しわがれた手が重ねられる。
「こんな別れでも、私は幸せなのです。こうして君に別れを告げることができる」
宙は沈黙を守るため、俯いてしまう。
「私のマスターだった女性は、ある日町に出るといって突然いなくなってしまいました。
それは彼女なりのやさしさだったのだろうと思います。
でも、私はそうはしたくなかった。君にきちんとお別れが言いたかった」
一度言葉を切ると、小さく、泣くような声で言葉が紡がれた。
「マスター……行かないで……」
「宙、私の大切な宙。ごめんね」
そういうと男性は包み込むように宙を抱きしめた。
首元から星海が零れ落ちる。
「私にはもう、重すぎますね」
苦しそうに笑う男性を見ることのできない自分が悔しくて、流れ落ちる涙を止めることができなくて、どうしようもなく弱い自分を受け止めることのできない自分が憎い。
「宙、あなたを幸せにしてあげられなくてごめんなさい」
男性はゆっくりと、弱々しく力を込めていった。
それがあまりにも非力で、それなのに大きな安らぎをくれる。
「ちがぅ……違います……ますたー……」
そんな声を遮るように男性は言う。
「私は、あなたを……」
男性の体が淡く発光を始めた。
「あなたを……」
全身から力が抜け、そのからだが薄く透明になっていく。
「愛せて、いましたか、宙」
そして、男性の体は光となり四散し古めかし懐中時計だけが床に高い音を立てその場に残った。
「マスター……ますたぁー!!」
絶叫は、虚しく響いた。
それは誰にも聞かれることはなく、宙の涙はその日枯れることはなかった。