ビートルズのポール・マッカトニーが来るという事で行ってきました。
客層はやはり中高年が多かったですが若者もちらほら見かけました。
何よりすごいのはアンコール2回に全く水を飲まなかったこと。タフさを感じます。
サポートメンバーもよく、クラプトンのツアーにも参加しているデブッチョのドラマーの人は演奏がダイナミックかつ繊細さもあり良かったです。あと音響設備なども最高のものだと感じました。
何よりポール自身があれだけ超有名になっても変わらないマインドでやっているのが良かったです。全く嫌味がなく風通しの良いライブでした。
久々に漫画読みました。 評判が良かったので。
ちょっと間延びや展開がありえないシーンも多かったですが、選手の故障など。しかし描写もよく描かれていて楽しめました。
読んで清々しい作品でした。
左翼や右翼とは別の次元で市民派というのが今多い、もちろん新しい集団として期待したいが右でも左でもないというのは胡散臭さも正直感じる。
まず右でも左でもと名乗ることで自分の発言や立ち位置を明確にしないこともできる。あと言い方は悪いがどちらにも転ぶこともできる。
後、陰謀論や非科学的なものへ傾倒する傾向はある、中にはユダヤ金融などヘイト的なものもある。
また、新自由主義などへの親和性も高い部分もある、市民派と言いながら1%への加担もみえる。
もちろんイデオロギーを超えたいろいろな立ち位置の人とも連帯はできるそこは強みだと思う。しかし柔軟性はあるが政策や目標などぶれないで活動しないと足元がすぐ救われると思う。イデオロギーを乗り越えるのは課題だがそこを踏まえないと右派に引っ張られたり、中身は権力者と変わらない弱肉強食な政策になってしまう。


脱原発の中には左翼からリベラル派から保守までいる。
私は脱原発と資本主義特に新自由主義は相容れない真逆なものだと思っている。
結局資本主義というシステムが続く限り原発もなくならいと思う。例えそれで脱原発ができても肝心の経済の構造など変わらないと意味が無いと思っている。だからTPP参加と脱原発を一緒に唱える論者など出ている。
資本主義の搾取のシステム原発という同じように自然エネルギーは地方に僅かな借地料を残し大部分の富を奪っている部分は現にある。
脱原発と脱新自由主義はセットで考えるべきである。




テレビで観ました。山さんとはFBでフレンドです(笑)
小泉政権下の自民党の市議選補選を映したドキュメンタリー。メッセージは無い淡々と取材をして行く映画。選挙事務所での何気ない会話や街宣から日本社会の縮図も見えてくる。
とにかく山さんは怒られ続けるが怒られる理由もあってないようなものも多い。山さんはひょうひょうした性格で所謂体育会系基質が身についてない自民党はトップダウン型の縦社会そこは馴染むわけがない(笑)
結局何が正しいのか悪いのか分からなく事なかれ主義で選挙は進んでいく、山さん自身も名前の連呼や握手や祭りに参加したりで具体的内容はないただ情に訴える頑張ってますアピール、それで別件で来た小泉純一郎に相乗りでアピールしたりなど。
日本だと空気を読めとか曖昧な言葉がよく使われるがその正体がこの映画から少しは見えてくると思う。

4月12日(日)に執行される山口県議会議員選挙(山口市選挙区)に、立候補の予定です。

   山口県が抱える大きな課題は人口減少です。
   人口の自然減少と社会現象が進んでおり、赤ちゃんが生まれた数を昭和20年からの10年間と最近の10年間で比較
  すると、390,902人に対して114,087人と大きく減少しています。
   また、18歳になってからの県外への転出(社会減少)が続いています。
   これらの要因は、結婚年齢が遅くなっていることや県内では働く場所が少なく、特に女性の働く職場が少ないことから、
  県外の大学に行き県外で働くといった流れになっていることの現れです。
    出産や子育て環境を整備することや働く場の確保なども重要ですが、30年先を見た時、少ない働く世代でも社会を
  しっかりと担えるような社会にしていくことが、今の社会を担っている者の役割ではないでしょうか。 自分の孫達を
  見てそう思います。
   県などの行政が旗を振ればどうにかなるようなものではありませんが、私たち一人一人が目的意識をもって、将来の
  人たちに負担をかけない暮らしを心がけることで社会は変わるのではないでしょうか。

http://yusa-n236.sakura.ne.jp/next.html


自然派などの脱原発の一部で自然エネルギーは駄目という議論がある。もちろん私自身大規模開発、大企業資本家優先のメガソーラーや洋上風車には原発と構造が変わらなく違和感がある。しかし頭ごなしに自然エネルギー反対と言ってもただ不満のはけ口を言ってるだけとしか思えない。例えば自然エネルギー推進の脱原発有名人をまとめてグルだという議論も稚拙すぎる。その中には同じ自然エネルギーでもオフグリッド派のローカル派からグローバル派までいる、だからその中でも全く真逆の考えの人がいる。

また自民も民主も第三極すらも気に入らない人もいる。民主の中にもいろいろな会派があるし一筋縄ではいかないところがある。しかし民主も自然エネルギーももうダメだとかいってるうちは結局は現状のシステムへ戻ってしまう。

治でも未だに悪くなる一方である、しかし代案もなく反対と言っても梨の礫である。むしろ代案もないような的違いな批判を言っていたらもっとマイナスの方向へ進む。批判や代案を言うならちゃんと論理が通って実効性のあるものを言わないと言わない方がいい。

日本の社会運動にも社会科学的目線が弱いという人もいるがそれは感じる。だから感情・直感的議論になってしまい中には陰謀論やトンデモ的なものまである。、内輪ではアジテーションで運動は盛り上がるが政治や外への波及効果はないと思う。

自民や維新の経済政策なども無茶苦茶だが、端っこのような提案、里山資本主義やオフグリッド生活などを言ってもみんながみんなできることではないと思う。結果自民や維新の政策の方にリアリティを感じてしまう人が多い風に感じる。

・反原発を言う人たちが資本主義を許しているのが、不思議でしょうがないんですよ。「日本の原発輸出反対」という声さえ、デモでは、ほとんど聞かれない。しかし、スローガン的には、せめて、これが第一に来るべきでしょう。「シングルイシュー」って、何がシングルイシューなんでしょうね。シングルイシューだとしたら資本主義の廃棄だろうし、せめて「原発輸出反対」でしょう。共産主義というのがカスでも残っていれば、資本主義が続く限り原発はなくならない、という論調が出てくると思うんだけれども、それが出てこない。まあ、レーニンは「電力+ソヴィエト」が共産主義だと言っていたわけですし、そもそも、日本の原発推進は中曽根や正力と、武谷三男ら左派の共同歩調でやってきたんだから、それを自己批判するのは──本気でやるなら──大変でしょうが。

・世界的には、これから原発は増える一方なわけですよ。資本主義なんですから。旧第三世界も資本主義化して、当面、どうしても原発が必要になってくるわけです。カネがジャブジャブ回るのが原発ですから。だから資本主義を問題にしなければ、反原発なんて言えない。なんでそこに目をつぶって原発問題を言えるのか、と。


・今の「首相官邸前」首都圏反原発連合の基底にあるのは、Misao Redwolfなんて人に象徴されるように、ほとんどニューエイジでしょう。そういう傾向が潜在的に強いんでしょうね。薄められた、ロハス的なヒッピーみたいなのが浸透していると思うな


・加えて、これも68年以降の事態ですが、新左翼その他が各地のエコロジー主義的な生協運動に散って、それなりに成功しているということがあります。まあ、ロハスですが。それらがかなりの広がりを持っていることも、運動の盛り上がりの背景にあると思いますね。まあ、かつての反核運動くらいの持続力はあるかもしれない。そもそも、今の反(脱)原発運動って、そのイデオローグだかバックグラウンドだかになっている金子勝から村上春樹あたりまでが、「日本は唯一の被曝国」という50年代反核運動の虚言を平気で反復復唱しているというオバカな状況なわけでしょう。


・「80年代反原発ニューウェーブ」の一部にはオウムへの共感がありましたからね。しかし、いまや終末論は、Misao RedwolfのTatooのように皮膚化してる。その中で日常を生きている形になっているんではないですか。 言うまでもないですが、「大正生命主義」なる古典的な第一期ニューエイジには、ウイリアム・ジェイムズ起源で、西田幾多郎が『善の研究』で打ち出した「純粋経験」というやつがありますね。漱石もジェイムズには深く関心していた(そういえば、先にあげた鶴見俊輔もジェイムズの研究者ですね)。この第一期ニューエイジは、天皇制とも密通しながら、左右の大正アナキズムや大正教養主義などのなかに深く潜行し、エコロジー主義的な身体論や農本主義となって、敗戦まで持ち越される。これは、『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ、2007年)の片山杜秀も指摘するとおりです。ジェイムズは六〇年代ニューエイジでも教本の一つでした。現在の反(脱)原発運動は、この「大正期」の歴史を、ヌルく──あるいは、茶番として──反復しているように見えるんですが、どうなんでしょう。 しかし、ジジェクではないが、一度目が悲劇、二度目は茶番なら、今度こそ三度目の正直にトライすべきではないでしょうか。(了)

http://www.hakusuisha.co.jp/topics/taisho/suga05.php




《右派の「生命を守れ」というスローガンとリベラル左派の「生命を守れ」というスローガンは、日本の原発だけを問題にしている限り、何の差異もない。この時、ニューエイジ的・ロハス的なエコロジー主義が回帰してくる。日本的「自然」こそ、守るべき「生命」であり、原発を生み出した西欧的近代科学主義をこえる代替知――天皇制――を内包していたとさえ見なされかねないからだ。…(略)…エコロジカルな「循環型社会」の主張も、ナショナリズムのなかでリアリティーをもって受けとめられるだけだろう。そのようなナショナリズムへの回収は、ニ〇一一年九月一六日の集会で、すでに始まっていたのではあるまいか。繰り返し指摘してきたように、この集会では、統一義勇軍と一緒にやるか否かをめぐって「素人の乱」のなかで意見が割れた。》

《しかし、あえて言わなければならない。福島第一原発から撒き散らされた放射性降下物への対応の問題と、原発問題は、峻別して考えられるべきである。前者が必須喫緊の課題であることはもちろんだが、同時に後者の問題が今や問われなければならないのである。原発とは日本の問題でさえなく、世界資本主義の問題であり、とりわけ旧第三世界において鋭く問われているということなのだ。福島第一原発事故被災者には酷な言い方かもしれないが、それを福島の、東北の、日本の問題だと集約することは、「広島」や「長崎」をもって反核を日本の特権と見なした「戦後」の反戦平和運動の轍を踏むことなのである。》