こんばんは

 

終わった。

 

 

母の希望で 思い出の写真をたくさん飾った。

 

 

平日だし 遠い所の人は来ないし

9名だけのこじんまりした法要が無事終わった。

 

すっごい寒かったし 日本列島各地で異例の雪が降ったが 

残念ながら当地では時雨れただけだった。ザンネン。

 

 

 

 

 

 

 

 

お寺さんの法話がよかった。

 

 

原因があり 条件が加わり 結果が出る。

その結果が次の新たなる原因になる。

こうして世の中の人も物もつながっている。

これを縁起やご縁と言う。

 

縁起はこういう流れの事だから

「良い」も「悪い」もない。

「生=良い」「死=悪い」などありえない。

 

 

 

 

よく耳にする

「成仏してください」「ご冥福をお祈りいたします」は

浄土真宗においては 理解しがたい言葉。

 

臨終と同時に仏さまになると言われているので

こちら側の人間が 行き先を心配する必要はなし。

 

冥福。 冥土(あの世)での幸せを祈るなどおこがましい。

とくに冥の字は「暗闇」という意味も持っているので

あまり使いたくない。

 

先に旅立った人は あちらから見守ってくれている。

人間は煩悩と闘いながら暮らしているので

むしろ我々の方が亡くなった方に心配されている。

 

 

 

 

 

「生死」は普通「せいし」と読むが「しょうじ」といい

生きることと死ぬことはひと続きだという

「生死一如」という言葉もある。

 

死を遠ざける人は生きることにも真剣に向き合っていない。

死を意識してる人の生き様は感謝に満ち溢れている。

死を恐れない人は生き抜く力を持っている。

 

 

 

 

 

墓石に「倶会一処(くえいっしょ)」と書いてあったら

それは 倶(ともに) 一処(ひとつのところで) 会(あう)

という意味である。

一緒のお墓で眠ると言うより 極楽浄土で再び会いましょう

というとらえ方がいい。

 

死は決して永遠の別れじゃなく しばしの別れ。

人は皆 必ず浄土に行く。

 

 

 

 

 

 

うろ覚えのところは ちょっと調べて補足したけど

ほぼほぼこんな内容だった(と思う)。

 

 

 

 

聞いてて思ったこと。

 

父は立派に生き抜いた。

素晴らしい生き様を見せてくれた。

 

意思の疎通ができなくなってからやけど

「もうちょっとお母さん借りとくよ。待っててね。」って

父に伝えたのは 間違ってなかったんや。

 

 

 

 

儀式は次々こなしているけど やっぱ実感ないなあ。

ココロがチクチクしたり すうすうしたりするけど

大きな悲しみに襲われるって感じじゃないねんなあ。

 

なんなんやろう。この感覚。

 

 

 

 

 

 

 

食事もおいしかった。

お父さん ごちそーさんほっこりラブラブ

 

 

ただテンポが悪いし 頼んだことも忘れるし

食材にエプロンがガサガサ当たりまくりやし

別途サービス料5400円の価値ない。

 

 

まあ これもご縁か(笑)

 

父風に言うと「しゃーないやん」(笑)(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

朝の胃痛と頭痛からは解放された。

すっごい寒い中 長男はバイクで帰っていった。おおきに。

 

 

 

 

 

 

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