(2015年12月27日投稿〜3/5)

 

「人生の答え」は既に出して下された。人間はコレを学び見聞受持と弘伝をするために生まれてくる。
 

この世は修行道場…コノ図を見て学び、得たもの、わかった事を「学びのために用意されたもの〜仕事、家族、友人、遊び、この世の全てのもの〜」で実践する、或いは、日々の生活での悩みを考え抜いた結果「あ、この図の通りだ」と気づく…(これらもまたエネルギーが上から下へ、そしてまた上へという仕組みと同様になっていると思う)

そうやって一所懸命考えている様子というのは、「親、先生、上司、指導する立場」から見て好印象、時に、導きやすいのではないだろうか。

「次にする事を言われないと動けない人」には何か課題を与えつつ、自分で動けるように導くのがいいのではないだろうか。

もっともカミ様がなんと仰り、どんなお裁きをされるかはわからないが。

 

「どうすれば人間界ではなくその上の菩薩界に入れるのか、自分のしている事は弘伝にあたるか」というのは、私の耳には「どこまでなら悪い事をしていいのか、どの程度熱心ならいいのか」の類に聞こえる。更には何人に話せばいいのか、相手がどの程度理解すれば弘伝した事になるか、とか…

 

最後の審判に関わる事なら「思いつく限りの事、精一杯」は普通じゃなかろうか?

ここで近道を求めると、良からぬものが寄ってくる。

身の程以上に上になろうとすると(小手先の陳腐なノウハウでなんとかしようとしたりすると、結局どこかでボロが出たりして)足をすくわれる。

 

自分の地位向上のための人集めとか、目の前にいる人を「自分が声聞衆になるための道具」としか捉えられないとか、どちらも相手に対する敬意のない、相手を人を大切にせず踏み台としか捉えてない、踏み台に対して頭をさげる思いのない失礼な話しだと思う。

 

 

詐欺師のお話に、こんなのもあった。
「皆の前に立って、何も話す事がない時、何を話していいかわからない時はどうしたらいいのか」という問いに対し「すいません、と言って頭下げておりゃあええ」と。
私は、これは正しいと思う。

 

器が一杯になれば溢れるもの、ウンコと同じ…出ないのは溜まってないから、或いは消化不足・不良だから出ないのではないだろうか。

まずは自分の学びだと思う。
出ないものを出そうとするのは苦しいし、無理に出そうとすれば変なものが出る。

 

わからない事をわからないと言えないという事、自分が教えた相手は自分より下だと思う事、下がピュッと出してくれるもの(それは時に誹りかもしれないが)を大切にできないという事、身の程以上に上に行きたがるという事、これもまた、魔の付け入る格好のスキになるのではないだろうか。

少しでも上に行きたければ「どこまで行けるかわからないけど精一杯」じゃないだろうか。

 

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大聖のダルマパダには「修行僧の間でも、上位を得たいとするものがいる」と書かれている。

全くもってその通りだと思う。

 

「何人に話せばいいのか、相手がどの程度理解すれば弘伝した事になるか」なんていうのは「チェーンメールかよっ」と思う。

 

 

うまく説明できないが故に自分に向けられる不満から逃れたいカレラ、「自分よりは下だけどあの人よりは上」とする事で満足を与えたいカレラに「あの子はそういう事を知らないんだ、だから教えてあげて!そうすればあなたが上だから」といわれ、上になりたいのが私のところにウジャウジャ寄ってきてクソ(余計なお世話、自慰行為)をタレていった事も、付け加えさせて頂きたい。

それを私相手にやったあなた!

それらをどう受け止め、何かを自分の糧としたか否か、できるか否かはわたしの実力、接点のこちら側の事。それに対して、接点のそちら側であなた方がした事、何をしたかは別な話。

あなた方は求めない相手の前で自慰行為をしただけ。幼稚園児の菩薩ゴッコ。幼稚園児なら可愛いが、やっているのが大人じゃ…いや、その行動を裏付けする思いが可愛くない。そこで出たものときたら…。シカエシハシテオイタ。ゾロフウニ。

 

ただただ自分の学びを重ね、一人静かに神と向き合ったらどうか。

( 不 満 が たまってるんだろうが、よそでやってくれ。相手にしてくれる人がいないからってつきまとうな)

説くべき相手も用意される。機が熟せば。