エホバの証人を追放されたり、縁を切ると、

それに至るまでにいったい何が起きたのか、

自分は何をしたのかしなかったのか、

今はどうしているのか、

といったことを話す相手は基本的にいません。

 

幸い私たちは、先に不活発化した人たちと交流があったので、

やめた当初はそうしたお友達に会うたび、

時には同じ人に何度も同じ話を聞いてもらったものでした。

 

弁解や言い訳をしたいわけでもなく、

正しさを証明して組織に戻りたいわけでもなく、

ただ、誰か分かる人に話さずにいられなかったです。

 

生身の人間に事実を共有してもらうこと、

それが必要でした。

そうやって初めて、

私たちが「こういうことが起きた」と解釈していることが

そのとおりの現実として第三者にも受け入れられて、

自分たちの存在も現実になる、そんな感覚でした。

 

エホバの証人がらみのストレスとなった経験や、疑問や、感じた悲しみや怒りや心配や、

そんないろいろを、ぐねぐね話しながら、結果オーライだったのだ、というところまでを

何度も話すうちにオーバーヒートしそうだった頭の中で考えがまとまって、

それを共有してくれる友人がそばにいてくれたおかげで、

組織が負わせてきた心外なレッテルや疎外感を蹴っ飛ばしてなんとか次に進めたのだと思います。

そういう友がいなかったらどうなっていたかと思うと感謝しかありません。

 

↓以前にこんなブログ記事を読んだことがありまして、

誰も聴かない音楽は音楽として存在しうるのか

を論じていました。

音楽だって作曲しても誰にも聞いてもらえなかったら存在が危ういわけです。

 

不自由な決まりごとに囲まれている子供たちが大人に暴言を浴びせたり、

わざわざ怒られるようなことをするときがありました。

雇われている大人たちは揃いも揃って責任を負わされることを避け

その子がルール違反をして、その結果法の裁きを身に受ければ反省するだろうと考えたり

その子の行動を制約するためにルールをさらに増やしたりしますが、

規則を盾にしただけの説得は心に届かず

その子の怒りは増してゆきました。

ぶつかりたいのは法の壁じゃなくて「人の壁」だからです。

人間として向き合ってもらいたかったのです。

 

ブログでも自分の体験をいろんな人に読んでもらうことができますが、

実際に三次元の世界で会うということは別格だと思います。

自分も相手もそこでの存在が確かになるような感覚があります。

職場や家庭でできない話をしたり、ひたすら歌ったり、同じものを見て笑ったりするだけでも、

こんどブログやコメントを読むときは、ピグの顔じゃなくて

血の通ったその人の顔が思い浮かぶんです。

豊かです。

 

オフ会の価値はそういうところにあるんだろうな、と思いました。