人を悲しませ、自分がされたら嫌な行為に、「騙す」「騙される」と言う言葉がある。
誰しも無闇に、人を騙したくないし、人に騙されたくはない筈である。
なのに、世の中には日常的に「騙す」「騙される」と言う言葉があり
実際にその行為が行われ、形となって存在している。
なにか哲学の予感が臭ってくる、嫌な予感だ、またまた長文になりそうな気配だ
そう言う時には、最終的な自分の完結を先に出すのが良いのだろう。
自分の頭の中で考えて、結論ありしで、自己満足に浸れば気持ち良いに決まっている。
反論されても、もう既に決まっていますから的に、行政のやるような事を口に出さず
隠してその結論に向かって実行すれば、ただそれだけで良い事なのだ。
その考えに至る経緯、理由とかはどうでも良い話で、人に質問された時にどう答えるか
屁理屈を幾つも揃えておけば、幾らでも正論だとして逃げ切れるさ
原子力発電所建設や、猛毒の核物質処理施設建設などで、日本国政府や地方自治体などで
極当たり前のように、頻繁に使われる安全値や科学的な根拠など、恰も正論かの様な
誰にも分からない、自分達で勝手に目盛りを書ける都合の良い、透明な物差しを使い
根拠を捏造してしまえば、誰にも覆す事の出来ない、完璧な屁理屈が成り立つ
どうせ高額な測定器や実験装置なども用意なんてして、実験を行うなんて出来ないし
10年も20年もの長時間が必要な、データーの収集など無理であり
もしも、誰かが出して来た数値や統計があろうとも、測定方法が違うとしてデーターを
無効として拒否してしまえば、もう既に事が動き出した後の祭り、もう動いている
だから、今からは止められない、国策だからしょうがないだろと
動く前の真相を探られて、責任問題が浮上しても、あんたら我慢できるのかと
吐き捨てればその心配は全くないので、安心安心、全ては上手く行くのである。
安全ですと提示した数値に対して、相手は納得するしかない現状に
それでも納得しなければ、ならば証拠を出せと開き直れば良い
相手の同意や理解を求めなければ、全ての事は簡単に済ませられるが
世間の目があるから、取り敢えず形式上だけでも、納得を得ないとならない
反対派に、後からひっくり返される危険があるから、賛成派を増やす必要がある
村八分を恐れた者達は、必ず、賛成に回りる筈である
賛成派と反対派が争って、地域社会が二分されようが建設さえ可能になれば
そんな事は日本政府には、全く関係ない話であり、建てる事が出来れば良いだけ
下々の者達がどう暮らそうが、難病奇病が出れば、金で解決すれば良いだけの事
その金だって、誰の金でもない、腹も痛まない金なのだから
湯水の様に出して、足りなくなればまた税を増やし、盗れば良いだけの事である。
騙されてしまう者が存在し、そこで始めて、「騙す」と言う言葉が成り立つのだから
「騙す」者が存在し「騙される」者がいて、日本国国家が成り立っていて
騙される者が居なければ、「騙す」行為は成り立たないので
「騙す」「騙される」と言う言葉と、人々の行為は存在しない事になる。
だから、政治も私利私欲の為には「騙す」を利用しなければ、損をすると考える
役人だって人間だから、私利私欲の為に「騙す」を利用するのが当たり前である。
騙そうとする人間と、騙される人間との間だの、共存共栄関係があってこそ
多くの富を手に出来る者がいて、貧困層が存在しているからこそ
多くの財産を持つ者が光る事が出来て、みんなが同じだったら、比較が出来ず
活きている意味すらもないだろう。
「騙された」方になるのは、耐えられない程に心が傷付くから
自分の身だけは、騙されないように、しっかりと物事を考えて
身を守っている事が、名によりも大切な事、それが一番