細長く伸びる雲を例え空に発見したとしても、その雲がすべて地震雲ではなく
その雲が、どのようにして発生し、現状の姿に発達したのか、最初から観察していないと
地震雲であるか、その可能性を探るのは非常に困難な場合が多い。
細長いタイプの地震雲として断定する条件をいくつかあげてみることにしましょう。
上空には様々な雲が点在し、細長く伸びるタイプの地震雲が何もない部分から、
ある一点から細長く伸びて成長して行く雲は、上空の気流や、気温など空の上の
気象条件などから発生した雲が多く、おそらく地上では少し強めな風を感じる。
一方、地震雲として疑える雲の場合には、個体としての雲があまり空には点在せず
比較的高度の高い位置に、ややうっすらと曇が掛かっていて、青空と雲との境目が
比較的に明確に感じる空に、薄い雲の下あたりに急に線状の徐々に雲が、一点ではなく
雲全体が空に浮かび上がり、その雲は低い位置にありながらも風に流されることはなく
10分20分などに渡り、その形を保ち、見える位置も変えずにある細長い雲を
発見した場合には、地震雲である可能性が非常に高い。
また、上記の発生と同じように、雲がない快晴の時に現れる場合などもある。
地震予知をしている研究者達は、地震を起こす原因となる、地殻の変動やマグマの動き
近くの歪みなどで、地中の岩盤同士が擦れ合い、地上に地場やイオンが吹き出して
飛行機雲型だけてはなく、様々な形や形状の地震雲を形成すると言う説がある。
雲の形や大きさで、地震の規模や地域などを断定できないのが地震雲の弱点である。
現在までの観察データーから導ける、予知の信憑性も非常に薄く残念でならない。
ただ、細長い地震雲の場合は、その雲が伸びる方向が震源になるのではなく、
その雲に直角に90°振った方角が伸びる鉛直線に震源地がある事が多いのは事実である。
勿論、その発生する距離も場所も断定など出来ないのだが、地震の発生が多い地域を
知る者であれば、その雲が示す方向に対して、概ね起こるだろう場所の推測が可能である。
だが、地震が少なかった地域でも、頻繁に地震が発生している現在の時期では
その山勘も、ハズレが多く、まるで無力になってしまっているのが現状であるのだ
そんな時期に、下手に地震がどこそこにどれぐらいの規模で、来るだろうなどと
言ったものなら、オオカミが来るぞ、オオカミが来るぞと言い触れて、
その恐怖に人々が慣れてしまい、まるで狼少年の物語のようになってしまう恐れがあり
不幸になりますぞ、危ないですぞと、人々を脅しながら、恐怖と興味を手玉に取り
商売に利用している当たるも八卦、当たらぬも八卦、怪しげな易学を使う
トレンディーババア占い師のような、あのいい加減さが世の中に容認されていれば
公の元に地震の予知を自信を持って発表し、的中率は何割だとかと価値を認めて貰い
万が一、予知が外れた時には、私の念力で危険を回避しましたと、超魔術的、神懸かり的な
人には察することの出来ない、インチキな屁理屈で言い訳を罷り通らせて
多くの人々に納得して貰えれば幸せなのだけれど、名が売れているブランド品でもないし
外れれば、ただのホラ吹き、ペテン師と攻撃に遭い、悉く罵られてしまうのが落ちだろう。
外の遊びが大好きで、いつも空の下で多くの友達と遊んでいた少年時代
野球をやったり、川に魚を釣りに行ったり、基地を作って遊んだり
母に連れられ、母は親戚の家の畑仕事を手伝って居る間に、ばんば馬と遊んだり
電ぼくに触ってビリビリとするのを楽しんだり、あれって、長靴を履いていたらこない
なんて、友達に自慢していたり、遊ぶ友達が居ない時には、一人で干し草に寝転んで
半日ぐらい、ただ空を眺めながら雲を眺めながら、干し草の匂いに包まれていた時もあり
神社の境内の林で、黄色スズメバチの巣を泥団子で攻撃を加え、その報復に
目の下を刺され、顔全体が平になるぐらいバンバンに腫れても、自分が悪いのだと
心から反省して、あの痛い思いをした以降も、スズメバチを恨む事もなく
変に恐れる事もなく、そんな好奇心旺盛な子供は、冒険心がいつもいっぱいで
木の幹に空いた穴に、細い棒をつ突っ込んで、突如として飛び出して来た
蝦夷モモンガに驚いて、しがみついていた手を放し、地上にドスっと叩き付けられても
子供のする事だから許してくれる、優しい山ノ神様に守られながら、
大きなケガもする事もなく、様々な昆虫や動物達と触れさせて頂きながら
雨の日に水かさを増した川の恐ろしさも知りながら、潮の満ち引きや大波が
あっさりと足元を浚う、あの海の恐ろしさを教えられながら、山の奥へと連れ去ろうとする
キジムナーに化けた、偽キジムナーに騙されて恐ろしい体験もし、浚われかけた時も
あったけど、そんな恐ろしいこと以上に、自然からの優しさに人よりも多く触れさせて
貰いながら、生かし続けて頂いた事に、深く心から感謝をしています。
自然と言えば、海に釣りに出掛けた時に、忘れられないこんな事もあった
竿を出す場所を探しながら歩いていると、この海岸は魚は釣れんぞと笑う
一人の中年の漁師に出会った時だった。
みてみ、海の中の石が白くて海草が付いていないだろ、だから魚の隠れる所がないから
魚なんて釣れないんだ、ここで釣ったら名人だぞと、笑いながら言ってた
でもその顔は、少し寂しそうに感じた、案の定、糸を垂らしても魚は一匹も釣れない
どうして海草がないのだろう、漁師が全部採ってしまったのか、それとも海岸近くの
道路工事から、泥水が流れて海草が枯れてしまったのだろうかと、考えながら
竿をしまう手を動かしながら、急に山の奥の状況が浮かんだ。
それは、きっと山と海との深い関係を誰も知らない頃だったのだろう。
その時の世情は、輸入木材は少なく、国内産の木材を使った建築ラッシュの頃だった
森が伐り開かれ、伐採の為の林道整備が次から次に山に伸び始め、切られた樹木の後には
再び針葉樹の苗木が植えられる、若い苗木だけの禿げ山が続く光景が広がっていた。
造林業者と営林署は、進む経済成長の中、決して悪気があった訳でもなく、ただ安定した
収入を得る為に、計画的に製品として価値の高い針葉樹の苗木を植えていたのだが
原始林の中の広葉樹は次々と伐り倒され、その後には広葉樹が一本もない森が造られ
経済の為だけに動かされていた山の大きな変化に気を止める者も少ない中で
当時、10代の学問も持たない単なる普通の若造が、現在あるべき山の姿の変化を見て
体の中に埋め込まれている、センサーが働いたのだろうか、酷い違和感を感じながら
秋でも葉が落ちない針葉樹の森に、山の叫び声を聞いていたかの様に、寂しさと言うか
押し迫る恐怖感のようなものを感じていたのだった。
寄せる波の音に自然の摂理が浮ぶ、波は何処から来るのだろう、広葉樹の葉っぱは
秋になれば、毎年、繰り返されるリズム、地上に葉は落ち、葉の上に次の年の葉が積もり
やがては、下の方から微生物の力で朽ち果て、腐葉土となり、雪解け水や雨水に多くの
ミネラルは溶けだして、栄養分を含んだ水は川となり、様々な生き物に恩恵を与えながら
やがては海まで流れ下り、その養分は海草を育てるのだろうと気が付いた。
広葉樹林は、海の生物までも育むんだと、人々に伝え教えても、そんな馬鹿なことはない
お前は学者でもないのに、なんでそんなホラを吹くのだと罵られ、そして、数年が経ち
超有名な学者先生が、一言、コレコレシカジカの理由で、広葉樹林は海までも
育てているのですと咳払いを一つして言えば、人々は、それはもっともで御座いますと
忽ちに動く姿を見てからは、この世には、ブランド志向のミーハーばかりで
綺麗な花を持たない、汚らしい雑草が、道端でどんなに風に揺らごうが、それが薬草だと
誰かかが言い出すまでは、触ろうともせず見向きもしない、そんな人達が多いのだと
心から感じた時から、何を言っても考えもしない人達は、相手にしない事に決めてしまった
それが現在までこの性格に大きく影響を与えている原因なのかも知れない。
自然に身に付けて来た不思議な直感と観察力は、雨が降る日は東風が吹き
太陽に丸い虹が架かれば、雨の予感に外に出られないのかと、一人で寂しくなったりと
なんか神に守られているような感じの不思議な子供だったのかも知れない。
ひとりぼっちは寂しくない、人と話すことも嫌いではない
悪戯に物事に怯えてしまう億劫者でもなく、口数は少ない方だけれども
言うべき事は言わずにはいられない、そして誰とでも友達になれて
困っている人を見ると助けずにはいられない
身近に狡賢い者が居たならば、その者が仲間に引き入れようとしても動じずに
決して心を許さずにその者達とは関係を深めない
欲得だけに心を動かす者が居たら、その組織からは離脱する
クールでホットなこの心は、本当は便利な自動販売機なのかも知れないと
自分で言う、そんな馬鹿さ加減も一つの魅力なのでもあろう。
合理的ではないと学者達に罵られ続けてはいる
地下からの低周波振動を感じ取る人の話しを、いつの日にか書いてみよう。