便利さと危険 | 十勝・帯広を洗濯いたし申し候

十勝・帯広を洗濯いたし申し候

Yahooの勝手な事情からの移民です。トホホ

アクセルとブレーキ操作だけで、遊園地のゴーカート感覚で誰でも簡単に運転が出来る
簡単手軽な操作の自動車が開発され、その需要と進化はめざましく、都会では渋滞の中の
あの煩わしいクラッチ操作やギャーチェンジから開放され、運転時の疲労も少なく
人々の多くからAT車が重宝がられ、そして多くの人に求められ、
今では市場の殆どの乗用車やRV車、トラックに迄もAT車へと移り変わり
メーカー側も、マニアル車を生産していない車種が非常に多くなっていて
その現状に、もう一度深く考え直す時期が来ているのではないかと思うのである。

簡単で、しかも誰もが手軽に運転出来る車は、乗る人を選ばず販売台数も稼げて
運転する側と生産して売る側にとって、申し分のない製品であり夢の車であろうが
道路を走らせているのは、あくまでも運転を操作を誤れば凶器となりうる鉄の塊であり
歩行者にしてみれば、危険極まりない単なる走る凶器なのであり、その運転の簡単さから
自分は走る凶器を操作しているのだと言う、大切な緊張感も少なくなっているのであろう。

AT車の構造と特性として、運転者がアクセルを踏み続ければ常に加速し続け
自動車はどんどんスピードが上がって行く、マニュアル車のように次の操作がないから
運転していると言う意識が違う方に気持が向き安くなり、携帯メールのチェックや
カーナビの操作、他の事へ気が散る事も多いのだろう。

老人や自転車、子供が近くに居ようが、その横をスピードを落とさずに通り過ぎて行く
危険極まりない不埒千万な運転者や自動車を良く見かけるが、それは運転している者の
危機予知や、注意散漫さから、運転している者の胸中は、なにもないだろう、
危険はないだろうと短絡的な判断から、無責任としか言いようのない、事に因れば
殺人運転にも繋がるとは、その意識すらもないのだろう。

勿論、マニュアル車でも事故は起きるが、安全を重視しない無責任な運転と
AT車との関係は、無関係とは言い切れないと感じるのである。

過剰とも言える運転操作の軽減は、それは市場が求めるから、売れるからとメーカー側が
AT車を売れるからと無心の侭に、人々に与え続けた結果は、運転者に心の隙を多く作り
注意不足を生みながら、更にモラルの低下した個人行動は日に、何百件もの悲しい事故を
引き起こし、それらを助長させていると、自動車産業界は深く考えるべきなのであろう。

自動車は危険な乗り物であることが第一で、運転はめんどくさいものであれば
運転は疲れるから面倒だからと運転する者も減り、公共交通を利用する者が増えて
廃止になった鉄道は復活の兆しをみせ、自家用車を保有する者も減り、
自動車を保管する為の駐車場の多くは、住宅用の土地として利用され始め
走行する車が減れば化石燃料の消費も減り、温室効果ガス排出も減り
京都議定書での削減率はあっさりクリアー、地球の自然環境保護に貢献でき

アクセルとブレーキを踏み間違って、歩行者を轢いたり、屋上の駐車場から落ちたり
コンビニに突っ込む車も減り、判断力が鈍っている老人運転者も減り
なんだこいつ、自動車運転免許証を持っているのかと思うぐらいの未熟な運転者も減り
チョイ乗りで買い物、ウインカーも出さずにいきなり曲がるババア運転者も減り
酒を呑んでいても、簡単に運転が出来そうなAT車が無くなれば、飲酒運転も
今よりもずっと減るだろうし、AT車を無くす事に依って人にとって良いことが
生まれるものは大きいく多いと思うのであります。

自動車の運転だけではなく、全ての事に対して誰でも手軽に簡単に出来る便利さ
許可さえあれば、免許さえあれば、それに対して能力や熟練をしていなくとも
誰もが公平に従事できる事が当たり前的な、そんな機運が高まる社会環境の中では
いくら運転者に安全運転を心がろと言っても、走る凶器を運転しているのだから
強い責任意識持ちなさい、歩行者に対して、常に安全に心がけいつも優しい気持ちで
運転しなさい、そんな基本的な運転やモラルに、向上を求めたり訴えたところで
根本的な問題は、きっと解決しないのでありましょう。

AT限定免許は、直ぐさま廃止して、再検定を無料で実施し、運転技能のない者や
運転適正と安全意識の欠格者からは、直ちに免許を剥奪し、AT車も身体に障害の
ある者だけの為にメーカーは生産し、健常者にはマニアル車の運転しか認めない方向へ
政府も公安も動くべきだと痛切に感じるのである。

これ以上、小さな子供達を犠牲にしてはいけない。