ガザ問題をもたらした欧米の「罪と罰」―ユダヤ人がパレスチナに移住することは欧米の人種主義者たちには好都合だった
ナチス・ドイツのホロコーストに対する贖罪の意識から、欧米諸国は1947年の国連のパレスチナ分割決議に賛成し、国家としてのイスラエルが創設されたが、他方でドイツ、フランス、イタリア、ロシア(当時はソ連)などの人種差別を肯定する世代にとってはユダヤ人がその社会から存在しなくなり、パレスチナに移住するというのは都合が良いことだった。他方、ユダヤ人たちが移住するようになり、土地や権利を奪われるパレスチナのアラブ人たちにとって、ヨーロッパの贖罪や欧米のユダヤ人差別はまったく無縁なものだった。
イスラエル建国後の指導者たちは、初代首相のベングリオンから現在のネタニヤフ首相まで圧倒的に旧ロシア帝国出身者が多いが、その背景には旧ロシア帝国下でユダヤ人に対する大規模な暴力的襲撃(ポグロム)が行われ、その差別や排斥、テロからユダヤ人がパレスチナに逃れてきたことがある。ポグロムの中で、イスラエルに移住してきたユダヤ人には暴力に対抗し、自身を守るために軍事に対する「信仰」が生まれていった。彼らにとって、イスラエル建国に反対し、イスラエル国家を軍事的に消滅させようとするパレスチナ人やアラブ人たちは、ポグロムの襲撃者の姿とも重なったに違いない。
1939年のイギリスの白書では、1949年にまでに、イラクと同様に、アラブ人が統治するパレスチナ国家を創設することを構想していた。しかしハガーナ(現在の労働党)などシオニストの軍事組織は、この白書を無効するために、イギリスとパレスチナ双方に対して戦闘(テロ)を行っていった。第一次中東戦争で、シオニストの軍事組織はイスラエルの実効支配を広げるために、パレスチナ人の村々に民族浄化を行い、25万人の難民をガザに追いやった。イスラエル独立の直前、ガザの人口は8万人ほどで、裕福な農民、果樹園所有者、職人などが暮らしていた。
ガザに逃げ込んだ難民たちに対して、イスラエル新政府はベエルシェバやナジュドなどにある彼らが住んでいた自宅には二度と戻れないと宣言した。ガザに逃れたパレスチナ人たちは土地、家屋などすべてを失い、彼らが使っていた農具や家畜はイスラエルのユダヤ人が利用するようになり、長年丹精込めて作っていた農作物の収穫もイスラエルの農民たちが引き継ぐことになった。国連分割決議によれば、イスラエル国家創設に際してパレスチナ人が失う財産についてはイスラエルが補償することになっていたが、ガザに逃れた人々に対するイスラエルからの補償はこれまで一切されてこなかった。
イスラエル国家創設によってガザはその後背地から切り離され、ガザではパレスチナ人の婚姻の衣装なども生産されていたが、アッコ、ベツレヘムなどの従来の市場からも隔絶された。ガザはエジプトと国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)による共同管理となり、ガザのパレスチナ人は無国籍になり、多くが国際的支援に依存する生活を余儀なくされていった。パレスチナ人たちはイスラエル独立後、76年もの長きにわたって国家をもてていないが、第二次世界大戦後にこれほどの長い期間、国家をもてない民族はパレスチナ人だけで、資源の管理もイスラエルが行っている。
イスラエルの指導者たちはガザをヨルダン川西岸から分断することを考え、アリエル・シャロン首相は、2005年にガザからイスラエル人入植者たちを撤退させる一方で、ヨルダン川西岸の入植地を拡大していった。また、ネタニヤフ首相は、ガザのハマスによる行政へのカタールの資金援助を奨励した。こうして、ヨルダン川西岸とガザの行政を分断することで、パレスチナ国家樹立の実現を妨害するのがネタニヤフ首相の基本方針となった。パレスチナ人という被支配者を分断することで統治を容易にすることをネタニヤフ首相は考え、この分断統治によってハマスとパレスチナ自治政府を争わせ、パレスチナ人の政治力を弱体化することを考えている。
フランスのマクロン大統領は5日、イスラエルへの武器輸出を停止すべきとの考えを示したが、フランスの旧植民地レバノンが壊滅的被害に遭いそうになってようやく動き出した印象だ。マクロン大統領は、「レバノンの人々が犠牲になってはならない。レバノンがもう一つのガザになってはならない」と述べたが、イスラエルのガザ攻撃で市民の犠牲が出始めた時点で、欧米諸国は武器禁輸を考え、実現すべきだった。パレスチナ問題をもたらした欧米諸国にはガザやレバノンでの殺戮や、その停止に重大な道義的責任があることは言うまでもないが、イスラエルに武器を輸出したり、停戦決議に反対したりするなど、和平とは逆行し、むしろガザのパレスチナ人たちをいっそうの困難な状態に置く要因を欧米諸国はつくっている。
宮田律
2024年10月8日 17:16
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