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人を恋する気持ちって、きっと昔から変わらない。

この恋は唐突に始まった。

いや、始まったという意識すらなかったのかもしれない。


知り合ったきっかけは些細なことだった。

俳句という趣味を通じての知り合い、その程度だった。

本名すら知らなかったが、その作品にはいつも心惹かれた。


句会の後のお酒の席で、隣同士になったのが話すきっかけだった。

思ったより近くに住んでいること、年齢が近いこと、好きな作家、家族構成、どれをとっても共通項が多かった。

句会後のお酒の席が待ち遠しくなり、会うことができる句会が待ち遠しくなり、やがてふたりきりで会う時間を作るようになった。

知り合いの誰もいない居酒屋で、ふたりでお酒を飲んではたくさんの話をした。


だが関係が親密になればなる程、誰にもこの関係を言うわけにはいかなかった。

結婚という社会の形式にお互いが囚われていた。

それでも寸暇を惜しんで連絡を取り合い、時間が許す限り一緒に過ごした。

それだけでも心満たされた。


かけがえのない存在。

誰にも取って代わることのできない存在。

お互いがそう想いはじめていた。

交わす言葉は心地良く響いた。


クリスマスのイルミネーションが輝く頃、始まりと同じように終わりも唐突に訪れた。

海外転勤が決まったと告げられた。

どうすることもできなかった。

海外転勤のことを告げられたその晩、全ての連絡先とやりとりを消し去った。

それはとても哀しい作業で、想い出す度に涙が出た。


本当はいつか肌を重ねあいたいと思っていたが、それはかなわぬ夢のまま終わった。

だが、それで良かったのかもしれない。

体を重ねなければ、気持ちは緩やかに下降していくだろう。


やわらかい唇の感触と、しなやかな指先と、抱きしめられた細い腕。

ずっと忘れることはないだろう。

でも結局、これでよかったのかもしれない。


なぜふたりが同じ性に生まれたのか。

神様を恨む。

呪いの言葉をかけられた勇者は、魔女と戦うのです。

そして勇者は魔女を打ち負かし、呪いの言葉は消えるのです。


神の祝福を受けた勇者はお城へ帰り、美しい姫をめとるでしょう。

やがて魔女との戦いは過去のものとなり、サーガになるかもしれません。


息絶えた魔女は幸せなのです。

物語のハッピーエンドを作るために魔女は存在しているのですから。

ねえ聞いてくれる?

今朝電車の中で痴漢にあったの!

痴漢なんて毎朝あうんだけど、今日のヤツ超すごくてっさ。


最初はスカートの上から触ってきたのね。

それは、まぁ許すよ。

そんなの毎朝だからいちいち怒っていられないし。

大声出すのも格好悪いし、我慢するしかないでしょ?


だから黙ってたの。

そうしたらそいつ電車がガタッてなった隙に、スカートの下にまで手を入れてきたのね。

それでもってそのまま下着の中まで指を滑り込ませるわけ!

ね?すごい図々しいでしょ?

金くれって感じだよね。


もちろん誰がやっているのか周りを見たよ?

でもそんなの全然わかんない。

私の乗るのって快速だから駅の間長いじゃん?

もうさあ、されるがままって感じで。


でもそいつ、悔しいけどすっごく上手くってさ。

カレシなんかより全然上手なの。

無茶苦茶イイって感じで、的確っていうか、ピンポイントで責めてくるのよ。

わかる?


それで、思わず濡れちゃった。

声を上げそうになって唇噛み締めちゃった。

すごく良くってさあ、あれで濡れない人っていないと思う。

そうしたらヤツ何かを準備していたみたいで、濡れまくってるとこに何かを押し付けてくるの。

え?なに?って思ったんだけど、濡れてるから入っちゃうんだよね。


でもそれがまた気持ちよくって。

指で刺激されて、中もなんだかよくわからないけど入れられて。

あぁもうイッちゃう!!ってとこで電車のドアが開いて、そのままトイレまで猛ダッシュ。


でね、中に入れられてたのがこれ、ゆで卵。

・・・食べる?(笑)

この手で深く深く 刃(やいば)を突き刺そう

毒を塗ったこの鋒(きっさき)を 心の奥底に突きたてよう


蒼い毒はやがて あなたの瞳から紅い血になって滴り落ち

私はその紅いしずくを 一滴残らず舐めとろう

傷ついた心が息絶えるまで その様を見届けよう


お互いに傷ついているのなら あなたは何も言わないでしょう?

海辺の町で毎年行われるマラソン大会。

僕はそれを目標に、毎日走っている。


僕の毎日。

朝起きて、会社へ行き、仕事から帰り、走る。

雨の日も雪の日も、それはほぼ毎日変わらない。

走らないのは熱があるときと、台風で道路が冠水したぐらい。

結婚4年になる妻はそんな僕のよき理解者だし、彼女も僕との生活を大事にしてくれている。

可もなく不可もなく、僕の人生はそんな感じ。

でもそれで十分満足している。


夜走っていると、犬を散歩している女性と出逢った。

時々見かける彼女は、僕よりきっと7.8歳は若いのだと思う。

肩までかかるやわらかそうな髪と、端正な顔立ち。

連れている犬は手入れの行き届いたぬいぐるみのような小さな犬で、彼女の足元をちょこちょこ歩く姿がいつもかわいらしかった。

今夜は満月で、いつも僕の走る小さな川沿いの道は淡い光で照らされていた。

僕はいつものように走りながら、彼女の横をすり抜けた。

すれ違いざま聞こえてきたのは、

「こんばんは」

の声。

僕も慌てて

「こんばんは」

といいながら、それでもスピードを落とすことなく彼女を追い抜いた。

一度振り返って、会釈をした。

彼女は微笑んで、僕に向かって小さく頭を下げた。


家に帰って暖かい風呂につかりながら、あれはなんだったのだろうかと考えた。

彼女はなぜ挨拶をしたのだろう?

彼女は僕のことを知っていたのだろうか?

いや、まさか・・・。

彼女のことを考えていつもより長風呂になっていると、妻が心配してやってきた。

「すぐに出るよ」

考えていたことが妻にばれたんじゃないかと内心ヒヤヒヤしながら、僕は慌てて風呂を出た。

僕はその日、久しぶりに妻を抱いた。


それからも僕は毎日走った。

彼女とは相変わらず川沿いの道で時々すれ違った。

気をつけていると、彼女と会うのは月曜と木曜が多いことがわかった。

僕達はそれ以来逢うといつも挨拶をした。

彼女と出会って挨拶をした日は、本当に嬉しかったし、彼女は初恋の女性になんとなく似ているような気がした。

僕の中で彼女のことを考えている時間は、確実に多くなっていった。


しばらくして、ひょんなことから彼女の家の場所がわかった。

庭の手入れの行き届いた彼女の家の横を走ると、中からは楽しそうな声が聞こえた。

家族揃って食卓を囲んでいるのかもしれないしテレビを見ているのかもしれない、そんな想像するのは楽しかった。

僕はいつも走るルートに、彼女の家の横を通るルートを付け加えた。


毎日近くを走っていると、彼女の家が見える場所にアパートがあることがわかった。

このアパートの2階からなら、きっと彼女の部屋がよく見えるだろう。

カーテンを閉める彼女の姿から、今では彼女の部屋もわかっていた。

アパートの【空き部屋募集】の看板に電話をかけると、2階に住む学生が次の週末引っ越すことがわかった。

僕はそのまますぐに契約をした。


学生が引っ越した翌日、彼女の部屋が見えるアパートの1室は僕のものになった。

部屋の掃除も早々に、僕は急いでカーテンと、パソコンと、プリンタと、デジカメを買ってきた。

望遠レンズがいるかも、それから三脚も。

でもそれは後で買い足せば良い。

僕はアパートの部屋の電気を消して窓を少しだけ開け、ファインダー越しに彼女の部屋を見つめた。

電気のついた彼女の部屋は、カーテン越しとはいえ手にとるように見えた。

僕は何十回もシャッターを切った。


プリントアウトした写真の中から気に入った一枚を、壁にピンで留めた。

写真はあっという間に増えて、壁はすぐに見えなくなった。

大きく写った彼女の横顔。

パジャマを着てカーテンを閉める彼女。

椅子にかかった彼女が脱いだキャミソール。

犬を連れて玄関を出る彼女。

僕は彼女のことをたくさん知った。


毎晩僕は走る準備をして家を出たから、妻は僕が走りに行っていると思っていた。

出張だと偽ってアパートに泊まる夜は、彼女の写真に囲まれて僕は一人で自分を慰めた。

至福のときだった。


僕の彼女に対する想いは日に日に膨らんだ。

風船が膨らみきれなくなって爆発する寸前みたいに。

でも、僕にはどうすることもできないのはわかっていた。

だからせめて、ここから彼女を見守っていたかった。

僕は相変わらず妻を抱いたけれど、それも彼女を思いながらの行為だった。

やがて妻は妊娠した。


夜いつものように彼女の部屋が見えるアパートにいると、玄関のチャイムが鳴った。

「すみませ~ん」

ドアの向うから間延びした男の声が聞こえたけれど、新聞の勧誘だろうと思って放っておいた。

「すみませ~ん」

何度もしつこい男の声に、仕方なく僕は玄関のドアを開けた。

「警察のものですけど、ちょっとお話を聞かせてもらえますか?」

のんびりした顔つきの二人の男が、そう言って僕の前に立ち、僕は全てを悟った。


不審な男が家をのぞいていると、彼女の父親が警察に相談したと聞かされた。

僕が彼女を脅えさせてしまったことは、胸が痛んだ。

アパートにあった写真が全てを物語っている以上、僕は正直に今までのことを話した。

ブログに綴った彼女への秘めた想いも、履歴からすぐに見つかった。

僕が彼女にはじめて『こんばんは』と言われてから、ほぼ1年が過ぎていた。


こんなはずじゃなかったのに。

彼女のへの秘めた想いを温めていただけなのに。

彼女をおびえさせるつもりなんかこれっぽっちもなかったのに。


僕は会社をクビになり、妻は僕の元を去った。


風の便りで、妻が無事出産したときいた。

産まれてきた赤ん坊の父親は僕ではなかった。

僕が走ると偽って家を空けたように、妻も僕を偽っていたようだった。

妻は赤ん坊の父親と再婚をし幸せに暮らしていることが、せめてもの救いだった。


どこで、狂ったのだろう?

あの夜、明るい満月が彼女と僕を照らしたあの晩、全てが狂ってしまった。


それでも、僕はあの晩のことを感謝せずにはいられない。

可もなく不可もなくだった僕の人生が、彼女との出会いによって可になったのだから。

たとえ全てを失ったにしても。

「結局女心なんてわかんないのよ!だってそうでしょ?普通そんなこと言う?」

リサさんはそう言って僕に悪態をつく。

「普通さ、彼女とのラブラブなデートの様子なんか他の女の子に話さないと思わない?デリカシーがないって言うか、女の気持ちを逆なでするっていうか!」

リサさんの文句はとどまるところを知らない。

まぁ、それもいつものことなんだけど。

僕は『ハイハイ』とリサさんの愚痴を聞きながら、今日も居酒屋でだらだらと時間を過ごす。

もっともこれをデートだと思っているのは僕だけなわけで、リサさんは単なる都合のいい友達としか思ってくれていないと思う。


僕とリサさんはバイト先で知り合って僕はリサさんに片思い中。

リサさんの彼氏は結婚している男だからリサさんとは不倫なのだけど、リサさんはそれを決して認めようとしない。

その証拠にリサさんは彼氏の奥さんのことを、『奥さん』とは決して呼ばず『彼女』という呼び方をする。

リサさんと彼氏は知り合って1年ぐらいになるらしくて、僕とリサさんは知り合ってもうすぐ7ヶ月になる。


バイトが終わってリサさんと居酒屋へ行くことは多い。

リサさんは底無しなのでいつでもビールをジョッキで飲んで、お酒がなくなると機嫌が悪い。

僕はちっとも飲めないから、ジンジャーエールををちびちび飲みつつ、そんなリサさんに付き合う。

ちょっと酔ってご機嫌なリサさんを見るのは、僕にとっては嬉しい時間だから、お酒の席でも苦にならない。

友達にはいつも大変だろうって言われるけど。


今夜のリサさんはちょっと荒れていて、ずっと彼氏の悪口を言っていた。

どうやら彼氏が奥さんの料理は美味しいのだとメールで褒めたらしい。

リサさんは僕に話さなかったけれど、今までにもそんな事を言われていたような口ぶりだった。

かわいそうなリサさん。

1年も付き合っているなら『そんな初歩的なミスをするなよ』といいたいけれど、それは黙っていた。

僕ならリサさんを悲しませるようなことは決して言わないのに。

でも僕はリサさんに彼氏と別れればなんて言ったことはないし、この先言うつもりもない。

この状態を壊したくないっていうのもあるけど、一番の理由はリサさんの泣き顔を見たくないからだし、もしかすると僕が弱虫なだけかもしれない。


今日のリサさんは絶対に飲みすぎていて、トイレに行ったきり帰ってこなかった。

しばらくして、お店の人と一緒に帰ってきたリサさんは立っていられなくて、僕は店員さんの冷たい視線を浴びながら会計を済ませると、リサさんを抱えてお店を出た。

「お客様お帰りでーす!!」

声に見送られながら外に出ると、今年初めての雪がふっていた。

寒いはずだった。

もうすぐクリスマスの街はみんながみんな浮かれていて、浮かれていないのは酔いつぶれたリサさんと僕ぐらいだったし、その上リサさんはなんだか泣いていた。

リサさんが泣いたのを見るのは初めてだったし、いつでもちょっときつい女を見せていたから、ぽろぽろとあふれる透明な涙に僕は戸惑ってしまった。

「大丈夫?」

「うん・・・」

「一人で帰れる?」

「うん・・・」

泣きながら震えるリサさんに僕のダウンジャケットを着せ、僕は通りのタクシーにリサさんを押し込んだ。

そして運転手さんにだいたいの住所を告げて、『お願いします』といって頭を下げてからタクシーのドアを閉めた。

飲みすぎて泣いているリサさんを一人にするのは心配だったけど、かといって一人暮らしのリサさんの家まで一緒に行くのもなんだか気が引けた。

リサさんはきっと彼氏に連絡をするだろうし、そこに邪魔者の僕がいることもいやだったから、僕はちょっと哀しい気持ちのままタクシーを見送った。


もうとっくに、終電は終わっていた。

さっきのタクシーの運転手さんにリサさんの家に着くぐらいのお金を渡してしまったから、僕にはもう手持ちがなかった。

しんしんと降る雪空を見上げながら、歩いて帰るしかないよなと考えるとちょっとめげた。

こんな冷える夜にダウンジャケットが無いのは、かなり骨身にこたえた。


でもまぁリサさんはとりあえずタクシーに乗せたことだし、気を取り直して歌でも歌って帰ろうかと50メートルほど歩き始めたとき、僕の前にタクシーが止まった。

それはさっき僕が見送ったタクシーで、運転手さんが窓越しに困り果てて言った。

「泣いて困るんです。」

後部座席のリサさんは、泣きじゃくっていた。

「行き先もはっきり言ってくれないし。申し訳ないけど一緒に行ってもらえます?」

「あ、はい・・・。すみません。」

何がすまないんだかよくわからないけど、そんなわけで僕もタクシーに乗り込んだ。

「大丈夫?」

「うん・・・」

僕はリサさんをダウンジャケットの上からそっと抱きしめた。


バイトの仲間で一度だけリサさんの家に遊びに行った事があるから、大体の場所は覚えていた。

泣き続けるリサさんに時々聞きながら家の前にたどり着いた頃には、道路にうっすらと雪が積もりはじめていた。

リサさんをおろしてお釣を受け取ると、

「ちょっと見てやってね。あんたも大変だけどさ」

運転手さんからそう同情された。

タクシーのテールランプが雪の中遠ざかり、僕らは二人きりになった。


申し訳ないと思ったけど鍵をバッグから出して、部屋のドアを開けた。

以前みんなできたときより生活感のある、というか多少散らかっている部屋に上がった。

「お邪魔します!!」

誰も聞いていないけど大きな声でそう言ったのは、あまりにもドキドキしていたから。

ソファーにかけられたパジャマ、飲みかけのカップが置かれたテーブル、窓辺に干してある下着。

見てよかったのかな・・・。

心臓がバクバクした。


リサさんはベッドに転がるように行くとそのまますぐに眠ってしまい、僕はどうにかダウンジャケットを脱がせて、それからリサさんに毛布をかけた。

そっと頬にキスしようかと思ってやっぱりやめたのは、一度してしまったら自分で歯止めが効かなくなりそうな気がしたから。

だんだん暖まってきた部屋は心地良くて、ベッドの淵に座ってリサさんの寝顔を見るのはとても幸せな時間だった。

これって最高のクリスマスプレゼントかもしれないなんて思ったまま、僕はいつの間にか眠ってしまった。


目が覚めるたのはお昼近くで、とりあえずコーヒーが飲みたくて台所に立って二人分のコーヒーを淹れた。

セサミストリートのキャラクターのついた大きなマグカップにコーヒーを注いで、

「コーヒー淹れたけど、飲みますか?」

リサさんにそっと声をかけた。

目をあけたリサさんはちょっと不機嫌そうに

「どうしてここにいるの?」

と聞くので、簡単な経緯を説明した。

「覚えてます?」

「まぁ、なんとなくね・・・」

そうは言うけど、多分リサさんは覚えていないんだろうな。

ベッドの上のリサさんにマグカップを手渡して、僕達は黙ってコーヒーを飲んだ。

テレビをつけると『雪のために交通機関はストップしている』と繰り返し流していた。

僕はもう少しここにいるしかなさそうだった。


あの雪の夜の3ヵ月後、リサさんはバイトから社員に抜擢された。

僕はそのあと少ししてバイトをやめ、いつかやろうと思っていた会社を起こした。

仕事は忙しくなったけど、僕はリサさんとの時間だけはできる限り作るようにした。

僕自身が逢いたかったから。

リサさんは彼氏の話をだんだんしなくなって、そのうち全くしなくなった。

彼氏に振られたのか自分から別れたのかはわからない、僕からは聞かなかったし、リサさんも話さなかった。

そして、リサさんは僕の妻になった。


僕がいつでも思うことは、最後まで諦めない者が勝ちだっていうこと。

何があっても、続ける。

だって勝利への道は、それしかないんだから。

すやすや眠る妻の顔を見て、僕はいつでもそう思うんだ。

会社から程近いホテルの一室に入ると、ベッドの上に人影が見えた。

僕はそれを一瞥して、カーテンを閉めた暗い部屋の中を横切り、上着をハンガーにかける。

ベッドの上の人影がうごめく。

僕は窓辺に立ち、カーテンを開け放った。

窓の外に見えるのは、東京の夜景。

高層ホテルの一室から眺めるこの街は、何度見ても飽きない。


窓から夜景を眺めたまま、ベッドの方へ声を掛ける。

「指示した事はした?」

小さな声で

「はい」

と返事がある。

「それじゃ確認しないとね」

僕はベッドに近づいて、ベッドにかかっていたブランケットをいきなりめくりあげた。

ベッドの上にいるのは僕の彼女。

僕は彼女に指示を出しておいた。

大事な場所の毛を残らず剃っておくこと、自分で首輪をつけておくこと、リードと手錠は僕がつけるからベッドの脇に用意しておく事。

それからこれが一番重要なのだけど、全裸で僕を待っている事、僕を待つ間においたをしちゃいけないこと、そう指示を出しておいた。


彼女は僕の言いつけどおりに、ベッドに全裸で横たわっていた。

首には僕の買ってあげた皮の首輪をつけて。

リードと手錠はベッドの脇のサイドテーブルに、きちんと並べられている。

僕はリードを手にして、彼女に近づく。

彼女のきれいなうなじにはめられた首輪に、リードをつける。

カチリという小さな金属音が、スタートの合図だ。


「見せて」

そういって、彼女に足を開くようにうながした。

「はい」

小さな返事と一緒に、彼女が足を拡げる。

「それじゃ見えないよ?」

僕の声は静かだし、決して大きな声は出さない。

彼女はおずおずと、からだをひらく。

僕によく見えるように。

僕に確認させるために。

「自分で剃るのはもう慣れた?」

「はい」

少し前まで自分でするのは怖いといっていた。

慣れたと思ってくれるのは上出来だ。

「まだ見えない」

「はい」

彼女の細く白い指が、僕にもっと見せるために動く。

「それでいいよ」

彼女は僕の指示にホッとした様子で、ちらりと僕のことを見る。

僕は彼女のからだをチェックする。

「濡れているよ?なぜ?」

彼女は応えない。

「一人でしたの?」

彼女は小さく首を横に振った。

首輪についている小さな鈴がチリリとなった。

「じゃあどうして?」

「それは・・・」

「それは?」

「ずっと、待ってて・・・」

僕は待ち合わせの時間に2時間近く遅れてこの部屋にきた。

実際仕事が終わらなかった事もあるし、彼女を一人で放置しておきたかったせいもある。

「待っているだけでこんなに濡れるの?」

彼女が恥ずかしげにうつむいた。

僕はそれを見て、彼女の濡れそぼった場所をちょっときつく指で撫で上げる。

彼女の口から小さな声が漏れた。

「こんなにだよ?」

彼女の潤んだ瞳が僕を見あげる。

「ほら、見て?」

僕の濡れた指を彼女によく見えるように近づけた。

恥ずかしげに彼女が視線を外した。

「僕の指をきれいにして」

僕の指示通りに、彼女の整った唇が僕の濡れた指を咥える。

暖かく湿った彼女の口の中で、やわらかい舌が僕の指を絡めとった。

ますます潤んだ瞳をした彼女に、今度は何をさせようかと僕は考える。


僕と彼女はこうした夜を時々過ごす。

8つ年上の彼女とは、同じ会社の同じ部署で仕事をしている。

彼女はとても仕事ができるし、会社からも取引先からも信頼が厚い。

彼女は自分にも部下にも厳しいけれど、それとてクオリティの高い仕事をしたいためだ。

僕と彼女の事は誰も知らない。

彼女は結婚しているから。
それから、彼女は僕の上司でもある。


彼女とこういう関係になったのは、一年半ほど前の出張先でのことだった。

ふとしたきっかけでキスをして、そのまま僕と彼女はからだを重ねあった。

僕にとって彼女は理想の女性だったから、そんな女性を抱けるのはこの上なく幸せだった。

そしてそれからも、僕と彼女は逢瀬を重ねた。

僕にとって彼女のいない人生は、もう考えられなかった。


都心のホテルで、僕と彼女は短い時間を楽しんでいた。

ゆったりとした満ち足りた気持ちの中で、僕は彼女を腕の中に抱いていた。

本当に幸せな夜だった。


「いまあなたを愛しているし、これから先も愛し続けるわ」

僕の腕の中で静かに彼女が言った。

「僕も同じ気持ちだよ」

彼女は僕の腕の中にいるし、これ以上何を望むのだろう。

僕が次の言葉を言いかけたときに、彼女が口を開いた。

「夫がアメリカで客員教授になることが決まって、私も一緒にいくことにしたの。」

彼女はつらそうに、でもはっきりとそう言った。

僕には最初、彼女が何を言ったのかわからなかった。

幸せな気分は一瞬にして崩れ去った。

気がつくと僕は泣いていた。

僕の頬を伝う涙を、彼女は細く白いで指でぬぐってくれた。

忘れられないほど、この上なく優しく。

大学時代の先輩だと言う彼女の夫は、大学で教授を目指しているはずだった。

彼女と夫は都心の広い高層マンションに住み、子供はいなかった。

頭脳明晰な夫と、仕事のできる妻。

きっと幸せなのだろう。

彼女はできれば子供が欲しいと思っていたが、夫とはセックスレスだった。

理由はわからない。

その夜僕は、どうやって家にたどり着いたのか全く覚えていない。

それでも翌日いつものように起き、会社に向かった。

『幸せにする。僕と結婚して欲しい』彼女にそう告げるつもりだった。

その気持ちに揺らぎはなかった。

会社に着き彼女の出社を待ったが、始業時間をすぎても彼女の姿はなかった。

昼になっても、彼女は姿を見せなかった。

痺れを切らして、同僚の女の子に彼女の事を聞いた。

「知らないの?昨日付けで退職したわよ?」

同僚の女の子はどうしてそんなことを知らないのかという口ぶりだった。

「旦那さんがアメリカの大学に行くことが決まったからって。そういえば退職するって話がでた時、出張に行ってたんじゃない?」

そうかもしれない。

僕はこの所長期の出張が続いていて、社内にいることが少なかった。

「急に決まった話だから、他にも知らない人がいるんじゃない?」

同僚の女の子は興味なさげにそれだけ言うと行ってしまった。

僕はその場で立ち尽くした。

僕と彼女のいた部署は、彼女の去った後すぐになくなった。

僕は別の部署に移り、毎日仕事をこなした。

そうするしかなかった。

何人かの女の子と付き合って、そして別れた。

2年近くが経とうとしていた。

気持ちよく晴れた冬の朝、彼女の退職を僕に教えてくれた同僚の女の子に声をかけられた。

「これ、見た?」

そう言って一枚のカードを手渡された。

「昨日いきなり家に届いたのよ。あの頃一緒に仕事していたのって、もう私達ぐらいだから。」

それは、彼女が送ったクリスマスカードだった。

クリスマスツリーの前で笑う彼女の腕には、青い洋服を着た赤ん坊が抱かれていた。

写真の上に『お元気ですか?』とだけ書かれた、彼女の懐かしい文字があった。

まだ小さな赤ん坊は彼女に目元がそっくりで、彼女の幼い頃を想像させた。

「なんだかとっても幸せそうよね。カード後で返してくれればいいわよ」

同僚の女の子はそう言って忙しげに立ち去った。

僕の手元には、一枚のカードだけが残った。

カードをずっと眺めた。

あの日のこと、自分の気持ち、取り留めのない思いが浮かんで消えた。

カードの裏側を見ると赤ん坊の名前があった。

彼女の腕に抱かれたその小さな赤ん坊は、僕と同じ名前だった。

僕の名前を息子に付けた彼女と、僕の名前を付けられた赤ん坊。

彼女はどんな想いだったのか?

僕は自分のデスクを離れて、誰もいない屋上に向かった。

そして、気持ちを吐き出すように泣いた。


僕の名前を引継ぎし赤ん坊。

どうか僕の愛する女性に、僕のできなかった事をしてあげて欲しい。

早く大きくなって、僕の大切な彼女を守ってあげて。

彼女の笑顔が続くように、僕の想いを託すよ。


冷たい冬の空はどこまでも澄んで、冬日を照らす東京湾が見えた。

どうか幸せに。

この気持ちをが彼女に届くように、僕は目を閉じた。